* 手の中のひかり【第4話】 * |
坂を下るように日を追って気温が変化していき、学内に茂っていた木々も色を変えていく。朝起床して着替えを選ぶときは、半袖を避けるようになった。しかし、走っているときは別だ。まだ暑い。上着を脱いで棟の玄関を抜ける。 時間厳守の授業に一〇分遅れで辿り着いた三池は、教壇に背を向けて文字を書く教授の隙をついて室内に入ると、かかさず空いている席に座った。どうにか腰を落ち着けて段々になっている室内を眺める。見たことのあるような背格好が、少し前に三人並んでいた。おそらく柳瀬と村尾と合澤だ。 助手が出欠を取りにくる前に、三池は素早くカードに名前を書き込んだ。名刺サイズの出欠カードは基本的に授業ごとに一枚配られるものだが、三池は別の講義のときにまったく同じ紙を数枚入手していた。事前に持っているからこそ、遅刻もバレず代理出席も可能なのだ。タイミングよくやってきた助手にその一枚を渡して、ようやく一息つく。 次は黒板に長々と書かれたものをノートに写さなければならない。合澤の一件があってから、三池は意識してノートを取るようになっていた。しかし、二コマ分の時間をぶっ通しの講義では集中力が持たない。朝から走ったのと出欠に間に合った安心感で、授業の後半から意識が朦朧としてきた。 毎度毎度プリントを出さず、黒板にのみ重要点を書き込むここの教授はこれまたタチが悪かった。しかも必修講座のわりに、三池にとって興味が薄い分野なのだ。 やはり、残りは合澤にノートを見せてもらおう。 そう決めて目を閉じた。何分か経って耳がざわめきを拾う。顔を上げて、教室の時計を見れば、見事に半刻過ぎていた。眠ってしまうと授業時間は途端に短く感じる。通常よりも少し早く教授たちは教室を離れたようだ。 背筋を伸ばして前を見ると、黒板には知らない文章の羅列が細かく載っていた。その少し手前へ視線を移せば、まだ席を離れていない男三人組が見える。次の講義も、同じこの教室だ。 広げたノートと筆記用具を片付ける。バッグを持って段を降りると、彼らのところへ向かった。 「おっす」 「あ、おはよう。三池来てたんだ」 「でも、遅刻なんだろ?」 「んや、出席はギリギリだしたぜ。そこ、席ひとつ移動してくんねえ?」 「おまえが回り込めよ。合澤の隣が空いてるだろ」 通路側の柳瀬にやさしさはない。仕方なく一度教壇のあたりまで下りて、もう一本の通路から合澤の隣席に座った。さっきの授業のノート後で見せて、と、お願いする前に村尾が三池を覗き込んだ。 「合澤がさ、バーテンしてるって知ってた? かっこよくねえ?」 「だから、バーテンじゃないんだって」 かかさず合澤本人の訂正が入った。 「でも、酒はつくってんだろ。制服着て」 しかし、柳瀬もそう考えないらしい。 「まあ、簡単なやつだけど。あと、制服は着てないよ。そんなかっちりしたとこじゃないから」 「最近忙しくしてんなと思ったら、おもしろいことはじめたよなー」 感嘆する二人に、三池も頷いた。バーのバイトに誘われていると最初に相談を受けたのは三池だ。初回の働きは合澤から訊いていて、思ったよりカジュアルなところだったという感想をもらっている。洒落た女が出入りするのかと訊けば、案外男の客が多いという話だった。 「今度、そこに飲みに行こうぜ。合澤って週末そこに出てるんだっけ?」 「いまのところは。でも、あそこ単価高いから、……したら、今度うちかどこかでカクテルつくるよ」 もっとつくりかた覚えてからのほうがいいけど。 そういう合澤からの提案に、三池も二人と同じように笑顔で頷いた。即席の合澤バーを今度つくろうぜ! と、盛り上がって、勝手にこの場にいない沼田の家で開催しようということになる。合澤は苦笑気味で三人に話をあわせていたが、実際まんざらでもないようだった。 学生が入れ替わり、講師の登場で次の授業がはじまった。四人並んで受ける合間も、合澤バー開催前にサッカー観戦ついでの飲み会をしようという話がこそこそと交わされた。最終的に三池が、午後の講義で沼田に会えるから予定を訊いてみる、と言って話は落ち着く。三時限目を終えて、柳瀬と村尾は次の講座へ移動していった。 これから昼休みまでは、三池と合澤にとって空き時間だ。三池は食堂かカフェテリアに移動しようと考えていたが、……合澤はなぜかまだノートを片付けようとしない。がらんとした教室で二人きりになる。 「移動しねえの?」 「うーん、するけど、」 言い方に含みがあった。悩みごとのある声色のように聞こえて彼を見た。 「……また、なんかあったのかよ?」 歯切れの悪い彼に、心配の種が芽吹く。 合澤の親が深刻な病気で入院した件を聞いて、半月は経った。その間、退学すら考えたと話していた合澤のことを、三池は少なからず気に留めていた。毎日のように会っているし、友人たちと普段どおり談笑しているのを見ると大丈夫だと思えるのだが、……彼はあまり弱音や悩みごとを表にしない性格だ。その合澤が自分を頼ってきてくれたのはとても珍しいことで、相談相手として機能しはじめた自分の存在を目の前にいる彼のために使いたいと思っていた。その根底には、絶対に退学してほしくないという思いがあった。 「変な話なんだけど」 おもむろにかたちにした前置きに、三池は首を傾げた。相談ごとを話そうとしているのは確かだ。しかし、家庭事情の新たな問題が起きたとという感じではない。 「なんだよ?」 「三池。お願いだから、引くなよ」 「別に引かねえよ」 「うーん」 「マジ、なんなんだよ」 言い辛そうな彼を急かすように、顔を覗き込む。聞いているのは三池だけだ。教室には他に誰もいない。だが、合澤は一度慎重に室内を見回してから口を開いた。 「……バイト先で、また誘われたんだよ」 「なんの? 別のバイト?」 すぐ問いを重ねて、アルバイトではない可能性を思い直す。コンパかパーティーかデートの誘いか。 「まあ、バイトっていうか……売れるって」 三池の考えていたことは、合澤の言葉でかき消された。アルバイト関係に近いようだが、売れる、という響きに疑問が残った。 「なにが売れるって?」 「見てくれっていうか、……身体が」 「は?」 「援交だよ」 「はあ?」 三池は、大きなクエスチョンを顔面一杯につくった。 だが、断片的にでも合澤の台詞をつなげればどういう意味かわかる。援助交際に誘われたということだ。あまりに意外な話だった。黙る合澤に眉を寄せて訊く。 「女と?」 「……いや、男のほう」 彼は小声で淡々と答えた。三池には、言葉の意味はわかっても理解がまったくできなかった。 「お、おまえ、なんつー誘いもらってんだよ!」 「そんなの、オレのほうが訊きたいよ」 合澤はあからさまなため息をついた。そして、片手で頭を押さえる。合澤自身も考えたことのない話だったらしい。 当たり前だ。三池もそんな話ははじめて聞いた。そんな声をかけたのは、どう考えても男だろう。つまり、男が男に男へ援助交際を誘った構図だ。間に女がいないことが、三池には不可解すぎた。合澤は普通に女が好きな男だ。とても柔和な顔立ちをしているが、女と何度も付き合っていたことは知っている。 あまりに突拍子ない話で、三池は半分冗談のように感じられた。現実味がないから、逆に冷静に捉えられる。 ただ、男子校で男にモテていた話をネタにしている合澤だ。その事実があるくらいなのだから、一定層の男の好みには入っているのだろう。 それに合澤くらいの顔ならば、女装も似合うかもしれない。背も肌の色も三池とあまり変わらないが、肩幅は狭くて少し華奢だ。 しかし、どう見ても合澤は男だ。 「さすがに、ありえねえ」 合澤の口から、珍しく荒い言葉が洩れる。三池も同感だった。本気にする必要はない。 「ほっとけよ、そんなくだらねー話」 吐き捨てるように言う。合澤も強く頷いた。趣味の悪い話を続けるより、三池は別のことを伝えたくてもう一度彼の顔を覗き込む。 「それより今度、沼田んちでやるより先に、覚えたカクテルでなんかつくってくんねえ?」 三池の発言に、合澤の大きな瞳が動く。 「……ほんと、調子いいよなあ、ミイちゃん」 沼田の言い草を呆れ声で真似る。それでも合澤は、いいよ、また家に来たときに、と言ってくれるのだ。それを知っている三池は甘えるついで、もうひとつお願いした。 「あと、さっきの必修、後半寝ちった。ノート、ちょっと貸して」 「それ、いつ言ってくるんだろうって思ってたよ」 横に重ねていたノートを引き出して、合澤は、はい、と三池に手渡す。代わりに、教室を離れて寄った売店で、景気づけと礼を併せて合澤にデザートをひとつ奢る。彼がプリンにハマったと言ってくれたから、ついでに自分も同じものを買う。そして、食堂へいつものように歩いて向かった。 |
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