* 手の中のひかり【第7話】 * |
あの日を境に、合澤の部屋の鍵が三池のホルダーチェーンにおさまった。 彼を泣かせてしまった翌日に、なにかと理由をつけて手に入れた代物だ。合澤の涙を見た日から、三池の彼に対するものの見方はすっかり変わってしまった。何事もスマートにこなせる人間だと思っていたが、今となっては、なにをしでかすかわからない不安な存在になっている。 合澤もあの日を境に少し変わった。三池に対して、不安な表情を隠さなくなった。普段は代わり映えないように振舞えているものの、三池の前では不安定な自分を取り繕えない。気持ちが沈下すると黙り込んで俯きがちになる。事情を知る三池は、そうした彼を目にするたびに心配になった。そして気づけば、毎日のように合澤の家へ向かうようになっている。 日没を早める空は澄み切って、星を瞬かせていた。外灯の少ない夜道を三池は早足で向かいながら、あの夜のことを思い出す。 とても長い夜だった。合澤が三池に責められ泣き出してから、本当に一分一秒がひどく長く感じられた。きつくなじったせいで、壊れたように泣く彼をどう慰めればいいのかわからなかった。三池も胸を痛めながら、彼を玄関から引き剥がして部屋のフローリングまで連れて行った。 合澤の涙が乾く頃には、三池の乗る予定だった終電も過ぎていた。彼は俯いたきり動かず、深海のような夜を二人で送った。沈黙を通した彼を、三池は同じ沈黙で眺めていた。かけるべき言葉は見つけられなかった。罵声を吐いてしまった後悔は、あの夜からずっと心に染み付いている。 朝を迎えたことに気づいたのは、窓から射す日光が眩しかったからだ。心に傷を負った合澤を静かに見守るつもりが、睡魔に負けていた。突っ伏していたローテーブルから顔を上げて彼を見れば、ひとつも体勢も変えないまま座り込んでいた。心配になって顔を覗き込めば、彼の首が持ち上がって目があった。そこでようやく、はっきりと自分を見てくれたことに安心した。 三池の動作に合澤は、かすれた小さな声で言った。 「オレはいいから、講義、行って」 朝を迎えて大学のことを思い出したのだろう。余裕がないくせに、相手を気遣うあたりは合澤らしかった。三池は言われるとおりに大学へ行った。ただ一言、絶対にどこにも行くなよ、と、しっかり忠告して彼の家を離れた。 単位修得にかかわる講義をこなすと、またすぐに合澤のところへ戻った。授業中も気が気ではなかった。頭の中は一人にしてきた合澤のことで一杯になっていて、彼の元へ戻ってからのことばかり考えていた。合澤宅へ戻る途中、友人たちと遭遇した。幸いなことに昨日と同じ服装であることは気づかれず、急いでいると言えばすぐに解放してくれた。 大学近くのコンビニエンスストアに寄って飲食物を買い、家路を急ぐ。鍵のかかっていないドアを開けて、ホッとした。部屋には三池が制したとおり、合澤が昨日の服装のまま座り込んでいた。 朝と違っていたのは、動いた玄関へ彼が顔を向けたことだ。その仕草は三池を待っていたようでもあった。泣きはらしても変わらないかわいい顔立ちに、三池は妙な庇護欲を覚えながら、彼のそばに座って落ち着いたかどうかを訊いた。感情を上手に切り替えられないのか、俯いた彼は小さく「迷惑かけて、ごめん」と、謝罪の言葉を口にした。 続けて自分を貶めるような発言をしそうな気配に、三池は手をとった。彼の指先は冷たかった。だから安心させるように握って手の甲をさすった。 その話はもういい。俺は気にしてないから、おまえもすんな。もうしなきゃいいんだよ。そう彼へはっきりと伝えた。真摯に伝えた言葉は合澤に伝わったと思う。現に彼は、なにも言わず頷いたのだ。 合澤から家の鍵をもらったのは、また身を売るかもしれないという不信からだけではない。三池が買ってきた食べ物や飲み物に一切反応しなかったせいもある。合澤は三池に避けられている期間に明らかに痩せていた。生活状況を問い詰めれば、ずっと食欲がなく、まともに寝られていないことを白状した。そして、入院している父親の経過を三池は知った。 入院している父親の容態は落ち着いているけれど、病は確実に進行している。先週、余命宣告された。たぶん、病気が治ることはない。 そう淡々と話す合澤は、三池にとって不安そのものとなった。 あの日を乗り越えて、二週間近く経った。彼は無事に大学とアルバイト先を往復する忙しい生活へと戻っている。もとより自分をコントロールできる性格なのだ。現状は普段どおりで落ち着いている。……しかし、三池はわかっていた。二人きりで合澤に接していれば表情で察せる。彼は完全に立ち直ったわけではない。第一、負の要素ばかりが増えていて、事態は好転の兆しを見せないのだ。 階段を上がって合沢の家の前で足を止めると、鍵を取り出した。このとき、いつも少しだけ緊張する。人の家だという認識があるのと……あの夜のことがどうにも思い出されるからだろう。 玄関に入って灯りをつける。今夜の家主の帰宅は遅い。三池は彼の生活リズムにあわせ、ここ数日大学を離れるとあちらこちらを歩き回っていた。そして合澤宅へ向かう前には、コンビニエンスストアで食べ物を買う。彼を待つ間の腹ごなしのためでもあるし、彼が家にいる場合はちょっとした土産を買うのだ。 息をついて部屋を見渡す。何度来ても三池にとって居心地のいいと思える空間だ。これまで何人もの一人暮らしの部屋に訪れたことはあったが、三池はこの部屋が一番好きだった。平米は狭いが、無駄なものはなくすっきりしている。ベッドの他に一組分の蒲団は敷けるし、大学から徒歩圏内だ。毎日のように訪れる三池に、家主の合澤は嫌がらないどころか、こう言ってくれた。 合鍵も持っているんだし、別に連絡しなくても家に来ていいよ。 だから、三池は今日も合澤へ泊まる旨を話していない。言う必要もなく昨日も一昨日も泊まっているのだ。毎晩居座るつもりはなかったはずなのだが、日を追うごとに自分の持ち物が彼の部屋に揃っていく。合澤も当然のように三池用の収納スペースを用意してくれた。そのやさしさに甘えるがまま、どうにもここが自分の住まいだと脳が認識しているようだった。少なくとも、実家よりこの部屋へ帰宅するほうがしっくりきている。部屋に一人いると、家主である合澤の帰りが待ち遠しくなっている自分に気づく。 彼の好意を鵜呑みしてはいけないと思いながらも、正直自宅より狭いながら過ごしやすいこの部屋を三池は失いたくなかった。それよりも、自分の家に帰る気力が失せていた。三池の家には難関中学の受験を前に忙しい母親と妹がいて、日を追うごとに家内はピリピリしているのだ。彼女の受験が終わるまで、兄は最も煙たい存在として扱われるようで、外泊は家族にとって歓迎の対象となっていた。 とはいえ、合澤の家をセカンドハウス代わりにしてしまうのもよくない。しかも、バイト漬けの彼は基本的にあまり家にはいないのだ。毎日家主よりも部屋に長居してしまうのは、さすがの三池も気が引けた。 それに、社会人並のスケジュールで生活する彼を一昼夜傍らで見てきて、自分がいかに暇をもてあましていたのかがよくわかったのだ。以前であれば、ちょっと尊敬する程度の他人事で完結していたことだが、今は違う。 三池はここ数日、さまざまなところから仕事情報を拾っていた。アルバイトといえば、長期休みを利用した短期のものくらいしか経験はない。しかし、就職活動が本格化する前にアルバイトをはじめるのは悪くないし、合澤のように時間をやりくりすれば講義に支障はないだろう。少し遊ぶ時間が削られるだけだ。 テレビをつけて、スマートフォンをいじる。ネットで検索したことを確認してから、テーブルに提出用レポートの資料を広げた。ついで買ってきた菓子パンとプリンを取り出す。課題に向かう気力が出るよう願いながら、食にありついているとドア付近で物音がした。家主は鍵が閉まっていないことを、鍵穴に差してから気づいたようだ。 開かれたドアの先から声がした。 「あ、三池がいる」 「いるぜー。おまえがメールしなくていいって言ったじゃん」 顔を玄関に向けて、スプーンを持つ手を挙げた。ドアに内鍵をかけてやって来る彼の表情は柔和だ。負の感情を曝け出した合澤をよく知ってしまった三池は、普段どおりの穏やかな様子に安心感を覚えた。 「うん、いいよ。それ、なんのレポート?」 彼が荷物を置いて座る。早速三池の課題が気になったようだ。後期になって講義をよく休むようになった合澤は、単位修得について不安を感じている。その心配を取り除くべく、先日単位取得に最低限必要な出席日数を三池は計算してみせた。今のところ、互い全講義の単位に支障のない出席状況だ。とはいえ、休みすぎていることは確かで油断はできない。まともに出席できていなかった分のノートやプリントは合澤と手分けして友人たちからかき集めた。三池はそれでなんとかなると思うのだが、合澤は悩みごとを量産しようとする。 そうした彼を宥めるように、三池はきちんと答えた。 「これは合澤がとってないやつの。一緒のやつは、来週末までに提出だよな。こっちは提出明後日までなんだよ。ちょっとやべえの」 手元を見る合澤が紙に躍る文字の羅列を見る。パソコンで打つ前のメモだ。年を跨いで完結するすべての講座は、今月末あたりからレポート提出や試験が本格的にはじまる。悠長にやっていられるのも今のうちだ。 「それ、何字?」 「三〇〇〇字。半分は一応いってるけどな」 「そっか。三池のとってる講義って、レポートのほうが多い気するんだけど」 「んや、そうでもねーよ。おまえと同じくらいだろ。つか、ここでやってることが多いからじゃねえ?」 「そうなんだ?」 「けっこうな。なんかはかどんだよな、けっこうやる気もでやすいっつうか」 学内カフェテリアと同じような感じだ。それを伝えると、合澤は妙に嬉しそうな表情をした。 「でも、オレもそろそろ準備しないとなあ。ほかにもでてくるし」 「まだいいだろ。おまえ、まとめんの得意なんだから」 「……そこは認めるけどさ。でも今、三池がしてるんなら、オレもついでに少しだけでもやろうかな」 「疲れてねえのかよ。無理すんなよ」 テーブルを見て話す合澤が身体を酷使する性格だとよく理解していて、労わるように声をかける。彼は三池を見て口許を緩めた。 「今日は忙しくなかったから大丈夫なんだよ。その前に……コーヒーでもいれるか。三池も飲む?」 立ち上がる合澤を見上げて、飲む、と、答える。合澤の機嫌がいいと三池も安心できるが、この半居候状態はよくないとも思っていた。季節が過ぎるのは早い。十一月を迎えて、夜はかなり寒くなってきている。あと少しで、本格的に三池の苦手な冬がやってくるのだ。それまでこの状態でいるのはバツが悪いし、誠意がない。 三池はバッグを引き寄せると、中から封筒を取り出した。そして、彼がキッチンから戻ってくるのを待つ。 冬が訪れる前に、合澤と確約しておきたいことがあった。 合澤が戻ってくるまで、彼の響かせる物音に耳を澄ます。この部屋に通いだして、こうしたささやかな物音が好きになってきていた。特に朝は合澤のほうが早く起床していることが多いから、時おり合澤の立てる物音で目が覚める。こうした彼の音は不思議なもので、気分よく三池の起床を促してくれるのだ。それに、ここは通学時間をショートカットできるから長く寝ていられた。遅刻はほぼ合澤が阻止してくれるという願ってもない待遇だ。三池にとっては、住むのに心地よい最高の場所であり相手なのだ。 その彼が現れる。二つ分のカップを持ち、器用に指でシュガーステックとスプーンをはさんでいる。頼まなくても三池の好みや癖は覚えていてくれる。 「はい。それと砂糖」 渡された中身はインスタントコーヒーだ。三池がありがたく受け取ると、代わりに封筒を差し出した。 「おう。で、コレ、おまえに」 「なにこれ?」 「いいから、とりあえず見ろよ」 彼は渡された封筒の中身を開けて、手を止めた。 「……え?」 そして、三池を見つめる。 「これ、なんだよ?」 紙幣一枚と三池を真顔で交互に見る。そうした合澤へ、こともなげに返答した。 「なにって、金だろ。この先も、おまえんちに入り浸る気だからよろしく」 「え、ちょっと待てよ。いいよ、金とか別に、」 部屋代とわかった彼が、慌てたように五千円札を戻して付き返そうとする。この反応は想定済みだ。三池はそれを容易に避けた。 合澤が簡単に受け取らないのはわかっている。それでも三池としては押し通したかった。自分がこの家に居つくことは、少なからず合澤の負担になる。光熱費もかかる。都合よく住み着いたと思われたくもないし、この部屋を気に入っている分、自分もなにかしなければ、と、ここ数日強く思うようになっていた。 なによりも、家庭の事情で極力自立した生活をしようとしている合澤に、これ以上甘えるのは失礼に値した。友人たちにはまだ、合鍵を所持しているどころか住み着いていることすら知られていない。この状況が公になれば絶対に非難されるに決まっている。だからせめて、押さえるべきところは押さえておきたかった。 「よくねえよ。むしろ五千円じゃ足りねえくらいだろ」 自分で用意しておきながら、金額の少なさにさりげなく突っ込みを入れる。その費用は光熱費や家賃だけではない。合澤の気遣い上手に流されて、三池は手伝うべき家事を半分以上彼にさせていた。食事代は折半していても、調理には合澤が動くし、コーヒーや調味料などは彼持ちだ。洗濯物関係も考えると、いくらか金銭を出さなくてはおかしい。それに、生活費を捻出するルールをつくったほうが、三池もアルバイトをする張り合いも出るのだ。 「でも、そんな金って。いいんだよ、マジで気にしなくても」 三池の意図を解さず、合澤は困惑した表情で見つめた。二重の瞳は相変わらず大きい。血色もいい。大学だけでなく家内の生活でも一緒にいるようになって、合澤の健康状態は明らかによくなった。食べられない、寝られないと目を赤くして俯いていたことが嘘のようだ。 三池はこれについて、そばに居ついた成果も絶対にあったと勝手に思っていた。ただ、毎日いれば余計に生活費はかかる。 「気にするだろ。毎日のようにいるんだぞ」 「いいよ、毎日いても。オレも寝に帰ってるようなもんだから」 頑なな合澤に三池は息を吸った。強い一押しがないと、彼が引き下がることはしないだろう。きつい口調は避けたかったが、仕方なく口を開いた。 「あのな、俺が悪いと思ってんだよ。もらえよ、そうじゃねえと居心地悪くなる」 その言葉に合澤は黙った。 視線を落とした彼が、また無用にショックを受けたのではないかと危惧して、顔を覗き込む。すぐに目があった。そして、小さな了解を聞いた。 「……じゃあ、もらうよ」 「ああ、助かる。そんでさ、」 安心した三池は、続けて今後も毎週光熱費と飯代の五千円出すルールも持ち出した。案の定、合澤は顔を上げて渋ったが、どうにか制して頷かせた。三池の小さな負い目はこれで晴れた。 合澤は翌朝まで納得のいかない表情をしていたが、大学へともに登校して各自の行動に移ればどうでもよくなったのだろう。三池が最後の講義を終えて合澤宅に向かえば、彼が機嫌よく出迎えてくれた。 なにかいいことでもあったのかと思えば、テーブルに料理本が積んである。 昨日渡した金を、これにつぎ込んだのは一目瞭然だった。 「この中で、好きなのだしてよ。なるべく三池の意向に沿ってつくってみるから」 合澤は、飯代という単語を真に受けていた。 彼の妙な張り切りに、三池は半ば呆れてみせた。別にそういう意味で金を渡したわけではないのだ。気を遣うにもほどがある。 「おまえ、だから、そういう意味じゃねえって」 「わかってる。でも、料理はオレの気分転換になってるし、けっこう料理するのは好きだからいいんだよ」 「じゃ、おまえが好きなときにつくったやつでいいよ」 「でも、三池って好き嫌い多いよな?」 その一言に三池は言葉を詰まらせた。昨夜は三池が丸め込んだのに、今日は逆の立場になっていた。 「オレは好き嫌いないし、あんまりこだわりもないから。だったら、三池の好きなのつくったほうがいいだろ」 そう説得される。彼の言っていることに三池は小さく唸る。正直なところ、合澤の手料理の味付けは好みだった。それに彼が料理という行為をけっこう楽しんでいることは知っている。 沼田の家で飲み会があるときも、キッチンでなにかをしようと考えるのは合澤だけだ。自炊が苦なくできる合澤のことを、同じく一人暮らし仲間であるはずの沼田もひどく尊敬している。他にも三池は友人や知り合いに一人住まいの男を知っているが、合澤はやはり料理面で特に別格といえた。 目の前の本人いわく、料理好きで気分転換になっているということなのだから、日々の負担にはならないだろう。しかも、料理本を使って本格的にやるつもりなのだ。味もよりよくなるに違いない。 合澤が料理をするメリットを心の中で挙げてみると、三池にとっても都合のいいことばかりになった。これならデメリットも考える必要なし。途端に、彼の手料理が食べたくなった。 「わかった。とりあえず、今日はおでんとサンドウィッチ買ってきたぜ」 「うん、オレは家の中で蕎麦見つけたから、それつくって食べる予定だけど……三池はいい? 普通の掛け蕎麦。簡単にできるけど」 「蕎麦か。蕎麦もいいよなあ」 「したら、三池のぶんもつくるよ」 結局、三池は今夜も彼の好意に甘えることとなった。 合澤がキッチンに向かっている間、テレビをつけるよりも先に、手元にある料理本五冊へ目を落とす。ビギナーズもの、簡単レシピ集、洋食もの、和食もの、丼などの一品完結料理。とりあえずビギナーズものを手にとって眺めた。おいしそうなものと、そうでもないものがある。ぺージを何度もめくる。改めて三池は思った。自分の好き嫌いが激しいところは否定できない。辛いものと苦いものと野菜は基本ダメだ。 掛け蕎麦は時間を要さずやってきた。コンビニエンスストアで仕入れたおでんは合澤とわける。多めに買ってよかったと思いながら、蕎麦の上に半分のゆで卵を乗せて食べた。食事の後は温かいウーロン茶に焼酎を足して飲みながら、気に入ったレシピに付箋紙を貼る。 ハンバーグ。グラタン。ミートソーススパゲッティ。親子丼。ビーフシチュー。海鮮焼きそば。 「やっぱり、好きなものがオコサマなんだなあ」 課題を広げている合澤が、三池の付箋紙を辿って苦笑する。三池はムッとしながら、カレイの煮つけにもマークをつけた。次のページをめくれば、揚げ物が登場する。揚げ物も好物だ。 「なあ、こういうのって、合澤つくれんの?」 「どれ? うーん。ちょっと難しいか、……でも、ようは衣つけのやり方と、油があればできないこともないよなあ」 「そっか。この揚げ物系のページ、すげーいいなあ」 「わかったよ。……これは? 三池は食べられる?」 顔を上げれば、合澤も料理本を手にしていた。課題を進めるより三池が好むレシピのほうに気持ちが傾いたらしい。 こうして二人で熱心に選んだレシピは後日、合間を見ながら一品ずつ律儀に消化されていった。しかも、合澤はレシピ通りにするだけでなく、少しずつオリジナルな部分を加えて挑戦している。三池はそのたび完成した手料理を食べて感嘆していた。まだ一度も失敗作にあったことがない。出される料理にわくわくするのも楽しい。 付箋が貼られたページは数多く、当分この習慣は崩れることはないだろう。三池が合澤の家に向かう足取りは、これまで以上に軽くなっていた。 大学の友人たちも、そうした合澤と三池を見て、知らぬ間に仲直りをしたと考えたようだ。三池が合澤を避けていた期間はうやむやになって、相変わらず講義が同じ友人同士でつるむ生活に戻っていた。ただ、三池が合澤と一緒に行動する時間は以前に比べ格段に増えた。 三池がアルバイトをはじめる直前には、沼田の家で内輪の飲み会が開かれた。合澤もアルバイトを終えた足で途中参加し、以前企画していたカクテルづくりもして皆に喜ばれた。飲み会解散後は、夜中の道を二人歩いて合澤宅へ戻った。 アルバイト先は、通いやすいよう大学寄りに決めた。新たな生活リズムになると、大学から徒歩圏内の合澤宅はますますありがたい存在になった。はじめは慣れない環境に疲労を感じることも多く、合澤に揺すって起こされる日も増えた。なにかと気にかけてくれる合澤の存在は本当に有り難かった。せめてのお礼に、と、約束したとおり毎週彼へ生活費を渡している。 あとは、早く時間のやりくりに慣れるだけだ。必然的に大学に長居する時間も減り、友人たちと講義後のんきに雑談している余裕はなくなった。今はそれより合澤の家にいるほうが多い。彼のそばにいるほうがゆっくりできる。 一方、友人たちは三池の行動に少し疑問をもったようだ。今さらこの時期にアルバイトをはじめる理由について、金が必要になったのか、女でもできたのか、と、からかい交じりに村尾たちから訊かれたが、三池自身は就活前のいい機会だから、ということにしておいた。合澤に感化されたのでないか、という柳瀬の憶測は聞き流した。どちらかというと、後者のほうが心情的に正解だった。 週に一度は、合澤とアルバイトの休みが合う。 一段と風が冷たくなった今日が、それにあたった。すっかり日の入りも早くなった夜道を歩きながら、三池はスマートファンを動かす。合澤からのメールには、オムライスの予定と書かれていた。合澤が先に帰宅する曜日だから、部屋を開ければすぐ飯になるだろう。そう考えると、肌寒い道中も妙に楽しくなってくる。オムライスは例に洩れず三池の好物だ。毎日のように活用するようになった階段を昇り、彼の部屋の前に立つ。合鍵を持っているが、彼がいるときはインターホンを押すことにしている。ピンポーンと鳴れば、中からかすかに物音がした。 裏切りのない展開は安堵感を生む。少なからず今も三池の胸には合澤の起こした一件が、軽いトラウマとして残っていた。一度自らの手で心と身体を貶めてしまった彼が、その一切を忘れたように三池を迎え入れた。 「おかえり。思ったより今日は早いな」 「おう。寒いとすぐ帰りたくなんだよな。やっぱ大学が徒歩圏内ってのはいいよな。特に冬になってくると」 薄手のジャケットを脱ぎながら息をつく。まだ秋の最中で、風さえしのげば心地よい季節だ。ただ、あと少し温度が下がれば暖房器具の出番が来る。耐えられなかったら合澤に言うつもりだ。 「寒いの苦手なんだっけ?」 キッチンに身体を向ける合澤に頷く。三池が帰宅したことで夕食の準備をするのだろう。さりげない段取に満たされる。 「すげー苦手。つか、日暮れるのが早いのもあんま好きじゃねえんだよ」 「そうなんだ。オレは積雪の多いところで育ったから、寒さ慣れしてるのかなあ」 そう呟いた彼が、続けて三池に声をかけた。 「今日はメールしたとおり、中身はもうつくってんだけど、卵の部分はこれからだから、ちょっと待ってて」 「わかった」 合澤の言うとおりに待つべく、テーブルのところへ向かう。そこで広げられた資料とノートPCを見て、食後は同じ課題をやろうと思いつつ座り込んだ。専攻が同じだとこうした面も気兼ねない。キッチンの物音を聞きながら、合澤のレポートがどれだけ進んでいるか、走り書きされたルーズリーフを読む。待っているのは苦ではない。 むしろ、こうした時間が妙に贅沢に思えるのだから不思議なものだ。自宅では母の用意する食事を待ちきれず、間食して夕食が食べられなくなってもめたり、家族のペースにあわせるのを面倒に感じたりするのだが、合澤に関しては不思議と妥協できる。たぶんに、彼が上手に三池のペースをつかんでいるからなのだろう。だから三池も彼の意向に沿いたいと思えるのだ。 まもなく、出来上がったオムライスの皿を合澤が持ってきた。 「あ、テーブルのやつ全部避けて。それ汚れたらまずい」 彼の指示にあわせて三池は手早く片付け、一式をベッドの上に置く。課題の話を訊こうと思ったが、オムライスに目を奪われた。写真から飛び出してきたのではないか。そう思うくらい、卵の破れもなく綺麗にライスを包み込んでいた。合澤は本当に器用だ。三池はケチャップとスプーンを持って座る彼を絶賛した。特に卵部分の出来は理想そのものだ。 「すげえよ。これ、俺の母親でもたまに失敗してんのに!」 「おおげさなんだよ三池。本に上手な巻き方書いてあったから、そのままやってみただけなんだって。本の説明がよかったんだよ」 謙遜する合澤に、そんなんじゃねえだろ、と、真顔で返しながらケチャップのキャップを開ける。 「って、おまえこれ、はじめてつくったのかよ!」 「そうだよ。三池が食べたいって言ったから」 当たり前のように答える合澤が、一瞬宇宙人に見えた。料理のセンスは天性のものだ。 「マジで、俺が食いたいもん全部つくれんだな! なんか、おまえを尊敬する。すげえよ」 「だからすごくないって。これならまだ普通につくれるレベルのもんだよ。それに、さすがに三池の食べたいやつ全部つくれるわけじゃないって。努力は……するけど」 「んや、十分だろ。俺の母親より断然うまいと思うぞ」 ケチャップで文字か模様でも描こうと思ったが空腹には勝てず、適度にかけて好物をいただくことにした。思ったとおり、味もいい。卵の中はキチンライスで手は一切抜かれていないようだった。 合澤の料理については、常に褒める要素しか見つからないからすごい。褒めちぎられた合澤は照れているのか、黙々と三池の話を聞いていた。彼は几帳面にスプーンでオムライスを端から食べている。三池のように膨らんだ真ん中部分から豪快に食べないようだ。 性格の違いを少し感じながら、チキンライスの美味しさにも満足する。三池が食べることに専念するようになって、おもむろに合澤が口を開いた。 「なんかさ、三池の顔を見ると、……安心するんだよなあ」 その言葉に三池は彼を見た。柔和な顔立ちに穏やかさが添えられている。目をあわせた合澤は、すぐ視線を落としてスプーンを動かした。 彼の発言にはじめは、自分が好物を食べる表情のことだと思った。家族友人に、好きな食べ物のときは表情が違う、すごく嬉しそうに食べる、とよく言われるからでもある。オムライスは大好きだだ。合澤の料理も、三池の好物ばかりで日に日に好きになる。そう伝えようとして、はたと気づく。 違う。合澤がつぶやいたのは、もっと根源的なものだ。料理とかではなくて、三池の存在についてさりげなく語っていたのだ。 あの夜のことは、よく覚えている。この部屋で、合澤のほの暗い部分と弱さを目の当たりにした。彼を泣かせてしまった罪悪感は胸に残っている。 あのことについて、まだ互いに話すキャパシティーはない。三池にとっては思い出したくもない過去だ。それでも、あの一連の出来事はどこかしら念頭に置かれている。合澤が身を堕とす行為をしなければ、現状の半居候生活ははじまらなかったのだ。 普段どおりの大学生活を取り戻すことに徹して至った今が、ベストなのかどうか三池にはわからない。でも、自分がいることで合澤が安心してくれるなら悪くないと思った。これ以上、彼を傷つけたくない。 「俺も。おまえは笑ってるほうがいいよ。そのほうがすげー、ホッとする」 そう言いながら、彼のつくってくれたオムライスを口に入れる。スプーンを止めた合澤と、また目があった。 「口説文句だ」 つぶやかれた言葉に、あやうく吹き出しそうになった。そんなつもりはなかったのだが、少し発想転換させて訊き返す。 「口説いてねえけど。でも合澤のこと口説いたら、もっとうまい飯食える?」 顔を覗かせて、子どものような眼差しを向けると、合澤は呆れた表情になった。 「……三池って、マジで調子よすぎだよな」 そう返した彼が三池の顔をじっと見て、次はおかしそうに笑い出す。その様子を見て、やはり合澤は笑顔が似合うと痛感した。誰だって笑顔が一番似合うものだろうが、三池にとっては彼の笑みが一番安心できるし、柔和な顔の造作にあうと思えた。 いつものように雑談をしながら夕食を終えて、テレビをつける。合澤は律儀に食後のプリンと紅茶を用意してくれた。ノートPCをテーブルに置いて、レポートの続きをはじめるようだ。三池はテレビのボリュームを下げた。デザートを食べたら、合澤に追随するつもりだ。 紅茶を飲んで、プリンの蓋を開ける。自分の好き嫌いに文句を言わず掌握していく合澤に、かなり甘やかされている気もするが、なんでも先にしてしまうのは当人の性分だ。女よりも気の遣い方が細かいようにも思えて、彼女がいたときの合澤はどんな感じだったのだろうか、と、三池はふと想像してみた。前の彼女を見たことがあったはずだが、付き合っていたときの光景がまったく思い出せない。 「女だったら、良い嫁になれるよなあ」 むしろ、その一言に尽きる。 つい表に出してしまった発言に、合澤が液晶画面から目を離して首を傾げる。まもなく自分に向けられた言葉だとわかったようだ。 「なんだよ、それ」 声を洩らした彼は、数秒を置いて俯いた。 「三池だけだよ」 そう小声で付け加えられる。三池は、その言葉が妙に嬉しくてたまらなかった。 |
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