* 手の中のひかり【第9話】 * |
トイレを出て数十メートル先にあるカフェテリアは、一側面がほぼガラス張りだ。そこは三池の好きな場所で、普段は日光を集め暖色の明るい雰囲気に彩られる。しかし、今日は人工灯に頼っていた。 窓から見える空は、鈍色の雲を均等に広げている。それは、ただでさえ低くなっている気温をさらに沈め、三池の心も押し下げる。午後も四時を過ぎると完全に暗い時期となった。十二月の到来だ。昨夜は天気予報を見ながら、もう早く春来いよ、とつぶやいてそばにいた合澤に苦笑された。冬至も来ていないのに、気が早すぎるということらしい。 冬が嫌いな三池にとっては、イベントの多い師走も鬱積を引き連れる対象だ。とりあえず、日照時間の短さと寒さが耐えられない。次の講義先へ向かうために一旦外へ出なければならないのは苦痛だった。E棟はカフェテリアから一番遠い。 三池は友人たちの囲うテーブルへ戻って、チェアに手をかけた。隣席に座っていた合澤が見上げてくる。常に気にかけてくれる素振りに、自然と口許が緩んだ。 「三池。沼田んちの忘年会の日程が決まったぜ」 柳瀬の言葉に頷いて腰を下ろすと、料理の一切できない沼田が付け加える。 「俺んちの宅飲みってなると、やっぱ鍋だよな。それ以外ならテキトーに持ち寄れよ」 「おう。合澤、来れるよな?」 登校中に購入した昼食をビニール袋から取り出しつつ、三池は合澤に声をかけた。それに彼は頷く。 「何時に来ても、合澤んちと沼田んちは徒歩圏内だから大丈夫じゃん? なあ?」 「まあ……前みたいに、バイト帰りに加わる感じだけど」 村尾の問いかけにも反応して、彼は答える。その手元にあるサンドウィッチは、三池の広げている弁当と同じコンビニエンスストアで買ったものだ。合澤が食品棚の前で昼食の品を悩んでいたものだから、このミニサンドウィッチのパックにするなら一切れちょうだい、と、先に希望を言った。彼は三池の望むままそれを購入してくれた。 「あ、三池、好きなの早く取れよ」 彼も朝のやり取りを思い出したのか、箸を動かしはじめた三池のほうにパックをずらす。律儀な厚意に三池は手を出した。代わりに、自分の弁当の中でなにが欲しいか訊く。逡巡する彼の向かいで、沼田が同じようなサンドウィッチを食べ終え、スナック菓子を開けながら別の話題を投げた。 「そうだ。合澤って、年末は帰省すんの?」 「あ、うん。でも、バイトがあるから実家にはあんまり長居しないなあ。沼田は?」 「俺は親戚でなんかいろいろするって、今回は年末年始まるまる実家だよ。皆集まるとけっこう面倒なんだよなあ。まあ、あっちの友達にはかなり会う予定もるけどさ。じゃあ、クリスマスもバイト?」 その問いには、三池のほうが答えた。 「そりゃそうだろ。俺もだよ」 年明けまでの合澤のスケジュールはすっかり把握している。忙しい彼に三池が予定をあわせているのが実情だ。 合澤の取り巻く環境は継続的に不穏で、父親は入院したままになっている。家族からのメールや電話が来ると、彼はいつも深く思案する表情で動かなくなる。年末の帰省も、何日間滞在するかかなり考えていたようだ。三池は訊かれないかぎり、相談には乗らなかった。ただ、彼が導いた結論だけはきちんと聞いている。 「あー侘しいなあ、おまえら」 「おい、おまえもだろ。で、合澤はどれにすんだよ?」 明太子スパゲッティをつつく村尾の言葉を一蹴して、合澤に向く。現在彼女持ちは柳瀬だけだった。だが、三池にとってそんなことは本当にどうでもいい話題になっていた。今は目の前の相手で手一杯だ。 「うーん。……その煮物っぽいので」 上目遣いで伺うように答えた合澤へ、三池は笑みを浮かべた。三池の意向に沿って言ったのならば大正解だ。 合澤は料理を率先してつくるようになってから、好き嫌いの多い三池の嗜好をほぼ把握するようになった。特に煮野菜が好きではないと、言わなくても気づいているはずである。煮物に使われる野菜は、特に三池の嫌いな類だ。 「でも箸は、」 「この箸を使えばいいだろ」 丸テーブルに食物を広げる残りの三人は、二人にかまわずクリスマスや年末の話をしている。前までは彼らの話題に加わっていただろう。 でも、もはや合澤のほうが大事だ。数日前から気持ちの変化は顕著になっている。合澤の行動や仕草がいつ見てもたまらない。今も合澤は躊躇いをわずかに含ませながら、三池を見つめている。二人でひとつの箸を使うことの意味を一瞬考えていたのか、ようやく口を開いた。 「……うん。でも、三池が食べ終えてからでいいよ」 そういう様子を見せられると、三池は途端にからかいたくなって仕方がなくなる。かわいいものにちょっかいを出したくなる気分と同じだ。 「つか、むしろ食べさせてやろうか? あーんって」 その感情をかたちにしてみると、合澤は思ったとおり目を大きくして首を振った。 「えっ! い、いい!」 「冗談だって。ま、本気でもいいけど」 「……三池。からかうなよ、オレがそれで煮物食べないって言ったら」 「それはマジ困る」 三池の即答に、少し眉を寄せていた合澤が呆れて笑う。やっぱり笑顔はかわいかった。それを見て満足する。 「なあなあ」 間を割った呼びかけに、二人同時に顔を向けた。 沼田の視線はどちらかというと合澤に注がれ、サンドウィッチを手にした彼は凝視されていることに小首を傾げた。沼田はそれに、うん、と頷く。 「合澤、なんかかわいくなった気がするんだけどさあ」 「はあ?」 声に出したのは村尾一人だけだが、テーブルを囲う全員が同様の表情をつくった。 合澤の顔がかわいい部類で、造作もいいことは周囲でも有名な話だ。大学一年目で早々彼女をつくっていたのは合澤で、……別れたのも意外に早かった。それからはなるべくそういう類を避けているように見える。合澤の女絡みで三池が知っているのはその程度だ。 「いや、元から顔がいいのは置いておいて、最近特にかわいくなったような」 沼田はなんと言えばいいのかわからないような表情で、もう一度同じことを言った。村尾と柳瀬がそれぞれ口に出す。 「ど、どうしたんだよ沼田」 「なにおまえ、とうとうソッチに」 「ねえよ! なんかでも、なんとなく思ったんだよ! な、ミイちゃん!」 沼田に助けを求められた三池は、合澤のサンドウィッチをもうひとつ取って言った。 「なんで俺に聞くんだよ」 「ほら、ミイちゃんが一番わかると思って」 「待って、それどういう意味だよ」 合澤が焦った表情に変わる。柳瀬はその合澤を凝視して呼ぶ。 「なあ合澤。合澤、ほらこっち見ろよ」 「……柳瀬、目がマジで怖い」 顎を引いて戸惑う隣を、三池は改めて見つめる。合澤が男なのは重々承知だ。しかし女顔としかいいようがない。学内にいる他の友人たちからも、合澤の柔和な顔立ちは一目置かれている。だが三池には、それだけでは言い表せられない感情がある。 「合澤、俺を見ろ」 三池が名前を呼んで真剣に見つめると、視線をあわせた彼は困ったような表情に変わった。三池はその様子に頷く。 「どう見ても、合澤は元からかわいいだろ」 そう真顔で結論づける。途端に合澤が俯いた。三池の台詞に呆れたのは村尾だけで、柳瀬は妙に納得した表情で沼田を見た。 「ああ、たぶん仕草とかか?」 「あ、そうそう、柳瀬たぶんそれ」 「仕草あ?」 その会話に、村尾が首を傾げて該当者を観察しはじめる。 いや、合澤は仕草だけじゃなくて、顔も性格も全部かわいい。 特にヤッているときの表情はたまらなくエロい。一度身体を繋げた夜が忘れられず、三池はときどき理性を総動員しなければならなくなっているほどだ。 「仕草だけじゃねえだろ、全部かわ」 「わかった。ミイちゃんわかったから、合澤追い込むなって」 「男でカワイイ言われて喜ぶやつなんているかよ三池。マジ嫌われっぞ」 「迷惑かけてやんなよ。デキてるって噂されたらどうすんだよ」 「合澤に嫌われたらいろんな意味でおしまいだろ、おまえ」 三人に責められて、三池は黙った。 からかっているつもりは毛頭ない。しかし冷静に考えなくても、関係がリアルに公となるのはまずかった。当然まだ三人はなにも知らないし、合澤はそういうことを気にしそうだ。昔であれば彼も呆れて一蹴していたが、今は無理だ。最近の合澤はまったく冗談が通じなくなっている。 「……別に嫌わないけど、ちょっと」 生真面目にフォローする彼は、額に片手を翳して表情を隠している。今もすごく照れて顔を上げられないでいるのだろう。三池は彼の様子を見ながら反芻する。そして、やっぱりたまらねえな、と、思った。合澤の身体を何度も味わった翌日、先に起きた彼が三池の前で見せていた表情と同じだったからだ。 あの激しいセックスから目覚めた朝、真っ先に視界に飛び込んできたのは、衣服を身につけて座り込む合澤だった。三池のための温かい飲み物を入れて、彼は目覚めを待っていた。起床した三池が、起こせばよかったのに、と言えば、気持ちよさそうに寝てたから、と返された。そこまでは、普段の彼と変わらなかったが……全裸でバスルームへ向かう三池から、ひどく照れたように顔を逸らした。 合澤があの日から意識しているのは明らかだ。二人の間には人知れぬ微妙な距離感がある。合澤にその距離をはからせているのは三池自身だった。手で触れたり身体が当たったりすると、わずかに彼は緊張を伝える。ただセックスをした話題は一切出してこない。三池もあえて素振りに出さなかった。 成り行きで合澤を抱いてしまったことに、多少複雑な感情がある。無言で同意した合澤にも、同じような気持ちのせめぎ合いがあるかもしれない。一夜の過ちで済まそうと思えば……今の合澤ならば、了解してくれるだろう。 ならば逆に、またやらせて、と頼めば合澤は股を開いてくれるはずだ。気持ちのいい彼の中に欲望を注いでから数夜を越え、冷静になれるかと思ったがどうにも無理そうだった。 合澤が好きだ、という感情は一時の高揚感からきたものではない。それは確かだ。そろそろどうするか決めなければいけない。とはいえ、合澤が何度見てもかわいくて仕方ないのだ。決めるまでもないことかもしれない。 村尾が合澤からノートの貸し借りを取り付けた後、五人は解散した。三池は合澤を連れ立って次の授業があるE棟へ向かった。 短い距離でも上着をきっちり着込んで、玄関口を出る。最近はそのたびに、寒い、とうなっていた三池だが、今回は違う言葉がぽろっと出ていた。 「照れたとこも、すげーかわいいんだよなあ」 からかいを混じらせた息は白い。かかさず合澤に強く名を呼ばれた。 「三池」 「ん?」 「恥ずかしいからやめろよ」 敷地内を突っ切りながら、彼は顔を赤らめている。冬の曇り空では学生たちの多くが足を速め、二人の会話を気に留めることもない。三池は合澤の顔を覗き込む。 目をあわすために、自然と互いの歩調が落ちた。 「じゃあ、家でなら言っていいんだな?」 三池の続けた言葉に合澤は閉口した。どうすればいいのかわからないといった表情だ。 彼が平静を装おうとしているのは知っている。とりわけ二人きりの室内で、いつもどおりに努めようとするのだ。三池はその努力を評価していた。でも、今はそれすらもかわいく思える。 数日かけて静かに葛藤していたものは、合澤を前にすると面白いほどに薄れていく。彼の身体へ痕をつけたときに自覚した「好き」という感情は、恋情だと三池は強く思う。 それこそ、もう一度彼とセックスを試してみれば、より気持ちに整理がつくのだろうか。そう考えて、一度だけでは足りないと真摯に思いなおした。 「なあ、今日の夕飯ってなに?」 三池が意図的に話が変えたのに気づかず、合澤は歩調を戻す。冬期休暇を前にシフトは変則的に動いていて、今日は二人してアルバイトがない日だ。 「……三池の食べたいやつでいいよ」 「なら、今日はスーパー一緒に行こうぜ。俺の講義終わるまで待てねえ?」 E棟のガラス扉は近い。学生数人が、自動に開くドアに姿を映す。それは見たことのある女子たちで、同じ教室へ行くのだろう。合澤が頷いた。 「わかった。図書館にちょっと用あるから、そこにいるようにする」 「じゃあ、終わったら図書館に迎えに行けばいいな」 「うん、メールで呼んでくれてもいいから」 次に自分たちの姿がガラスに映る。後ろに連なる木立は葉を落として寒々しい。合澤の部屋にあるこたつが恋しくなる。三池の好物を美味しくつくってくれる彼と食卓を囲むのは愛しい。 「あったかいの食いたいよなあ」 そのつぶやきに、合澤の微笑みが映る。そして、ドアは開かれた。 「そうだなあ」 三池は彼の表情を確認するように視線を向ければ、合澤の瞳に自分が入った。それだけで妙に嬉しい。穏やかな表情には三池への好意が込められていて、暖かくなった空間とともに三池の気持ちを盛り上がらせる。 着衣の奥にある肌に、どうしても触れたくなった。 「それで飯食ったらさ」 歩きながら階段に近づく。夕食を摂って、面倒な発表課題を早く仕上げたい、ちょっと手伝って、と、いつものように言われるのだろうと思ったのかもしれない。合澤は三池の続ける言葉に違和感を持つことなく頷く。 「うん」 「……かわいいって言っていい?」 反して三池ははじめの話へつなげた。途端に階段を昇る合澤の足が止まる。ハッとしたように三池へ視線を向け、すぐ俯いた。赤らめた顔を見せないようにする仕草だった。意味がわかったらしい。 歩き出す彼からの返答を三池は胸を高鳴らせて待つ。そして、該当フロアの踊り場に着いた。廊下ではいろんな物音が響いている。授業前のささやかな喧騒だ。その中で、合澤の声を聞く。 「いいよ」 それは小さくも、はっきりした返答だった。 |
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