* WINTER's end. * |
朝起きた時点でやるべきことが決まっていると、仕事場までの道のりはそのことで一杯になる。今日は午前中からミーティングや企画書づくりで忙しい。これから扱う企画のことを考えながら歩いていれば、空は空以上の色彩を持たず、街や人は形骸化してすり抜けてゆく。午前でも陽があれば汗ばむほど暖かい。 入社して六年目。都心に向かう電車と逆方面へ通勤するのは当たり前になっていた。ときどき酒を飲み交わす学生時代からの友人たちには、会社通いのストレスがない蒼太は羨ましい部類らしい。とはいえ、仕事で都心へ向かうことも多い。 今日は、仕事場に閉じこもる一日だ。そう思っていたとおり、建物内に入ったきり蒼太のチームは出前をとって昼食も会議室で過ごした。時間を置き去りにした話し合いの中で、それぞれの感性を手繰り寄せる。先駆けて案を何点も考えたりかたちにしたりするのは面倒だが、アイディアを持ち寄ってひとつのものを決定していくのはとても楽しい。終業時刻を過ぎても、他の案件をもうひとつ抱える蒼太は帰れなかった。今日はそういう日なのだ、と、出社前からわかっていた。 集中力が途切れるたびにブレイクタイムをはさんで、物事が一区切りすると時刻は夕食時をすぎていた。終電にはまだ二時間ほど余裕がある。同僚の千紗からお菓子をいくつももらっていたし、コーヒーは社内で淹れられることもあって、今日はコンビニエンスストアにも寄らなかった。今も猛烈な空腹は感じていない。この調子で大人しく今夜は寄り道抜きで帰宅することにした。週の半ばで明日も忙しいはずなのだ。 いそいそと帰り支度をしてフロアを離れ、トイレに向かう。帰宅までは徒歩と電車を含めて三〇分。座れる時間帯だ。手動のガラス扉を開ければ、行きの時とは比べものにならないほどの冷たい風が舞い込んだ。 「うわ、さむッ!」 蒼太は外気の寒さに押されて、ドアから手を離して脚を止めた。朝はすっかり春だったのに、今は冬の気温じゃなかったか。マジなのか、と、薄手のトレンチコートの身なりを悔いながら、もう一度おそるおそる少し開ける。ビュウーと風の音がした。気温が低いというより、風が思ったより強いのだ。そのせいで体感温度がさらに下がってしまうのだろう。 唐突な躊躇をガラス越しにせめぎ合わせていると、後ろから頭あたりに衝撃が走った。 「イタッ!」 「ッテ!」 軽く激突してきた声の主を察して、蒼太は振り向く。スマートフォンを片手にしていた男が、至近距離で鼻を押さえて、渋い顔をしていた。玄関の前で立ち止まっていた蒼太に気づけなかったのは、手にしている液晶に注目しすぎていたからだろう。歩調を変えないまま激突したわけだ。 尚也らしい、と、蒼太は思って口を開いた。 「前方不注意すぎだろ」 呆れたように笑い顔を見せる蒼太に、尚也は鼻を擦りながらスマートフォンを黒コートのポケットの中に隠した。入社同期の尚也は、偶然にも通っていた高校が一緒で、それを機にとても仲良くなった。仕事でのチームは違ってしまったが、タイミングが似ているのか社内でも出くわすことが多いし、家も近所だ。去年くらいから、互いの家には互いの物が散乱している。 「立ち止まってると思わねえじゃん。蒼ちゃん忘れ物?」 社内では敬語を多用する尚也だが、私的な関係に戻った瞬間に言葉がラフになる。蒼太はその瞬間が好きだった。一緒に帰れるということは、食事も一緒になりそうだ。すっかり会社モードをなくした蒼太は、ガラス扉の取っ手を握ったまま、尚也に愛嬌を投げかけた。 「いや、ほら、だって、外寒いんだもん」 少し甘えたような蒼太の口調に、尚也はここでなびくことはなかった。 「なんだよ。じゃ、蒼ちゃん帰んないんだ。ここにお泊り?」 「いやー、それならおまえんち泊まる。ご飯つくって」 「一昨日俺がつくったから、今日は蒼ちゃんの担当だろ。家、なんかあんの?」 「焼きそばの麺とキャベツくらいなら。俺んちにするか?」 「うん、そうだな。今日は先に蒼ちゃんちに帰ろ」 そんな会話を長々エントランスでしていても、家には着かない。帰宅が遅くなると夕飯が面倒になる。意を決して蒼太はドアを開けた。ひやりとした冷気と入れ違うように外へ出る。ファーストインパクトほどではないが、想像以上に空気は冷たい。 「あーやべえかも、これ、マジさみい」 「そんだけ薄いの着てたら寒いわ」 蒼太の呟きに、尚也が横から真っ当な言葉をかける。隣を見れば、厚めのコートを羽織っているのだ。明らかに蒼太は上着選びを失敗していたわけだが、尚也は「喫煙所、外にあるから防寒対策は気にしてるんだよ」と、蒼太の過ちを笑いはしなかった。 「も、早く帰ろうぜ」 出かけるときにトレンチコートを選んでしまった自分を呪いながら、蒼太は足早に通りを歩きはじめた。最寄り駅まで一〇分もかからない。二車線の片側からライトのついた車が過ぎる。すると、体感温度が妙に下がる気がした。人工の風が起こるからだろう。肩を縮み込ませると、今度は本物の風が吹いた。 「うーおー……マジ、さっむい!」 服の下の鳥肌が硬直する。渋い顔をして喚く蒼太の横で、ひらり、と何かが舞った。眉を寄せたまま無意識に目を細めていた蒼太は、紙切れのようなものが一斉に空気を動かしたことに、顔を上げた。 無数の桜の花弁だ。落下する花吹雪に脚を止めて、左手の遊歩道を見た。数メートル奥から短い桜並木がすらりと続いている。尚也はすでに桜の方向へ視線を向けていた。 「すげー、今の、」 自然が起こした、映画のフィルムのような一瞬の情景だった。桜の満開時期が来ていたのだ。 最近の蒼太はテレビを見なくなって、世間の動きに少し疎くなっていた。毎年どこかで学ぶはずの桜開花前線予報を、今回は満開になるまで一度も目にしなかった。 この道は毎日のように通っていたはずだが、こんなに舞うくらい咲いていただろうか。勤めている仕事場に花見の行事はないし、皆ここの桜のことは言っていなかったはずだ。一気に咲いたのかもしれない。数日前からこの日中まで暖かかったせいか、その高気圧に蕾たちもすっかりほだされたのだろう。 「蒼ちゃん、桜見る?」 蒼太の様子を見ていたのか、尚也が誘ってくる。蒼太は、うーん、と唸った。正直寒い。花見も別に好きではない。でも、花吹雪はなんか良いと思った。物語の主人公になったような気持ちになるというか、背景の中でも完成度の高い部類に入るだろう。 瑞々しい色が夜の冷気に美を施している。風が吹けば、また落花の舞に出会える。一年でこの一瞬しかない美。蒼太は足より先に手を動かした。 「ちょっとだけ。花見するか」 その言葉に、尚也は蒼太の動かした手首をとった。彼の手は温かい。蒼太を引っ張りながら彼はさくさくとベンチのほうへ歩いていく。大人しく後ろについていけば、ベンチ横に細長いステンレスの銀箱があることに気づいた。なるほど、ここは喫煙スポットだったのか。仕事のブレイクタイムに尚也はここを訪れたことがあるのかもしれない。 「も、一回、花吹雪来ねーかな。来たら来たで寒いんだけど」 煙草とライターを取り出す尚也を見ながら、蒼太が小さなジレンマを呟く。元々吸わない彼は、尚也が火を付け終えるまで見届けると桜へ視線を移し、……すぐ下へ落とした。 「お、猫」 同じように遊歩道に入ってきた闖入者へ、彼は条件反射のように腰を屈めた。蒼太は猫という動物に目がないのだ。突然標的とされた縞模様の成猫は、ビクッと身体を揺らして四肢に力を込める。二メートルも満たなかった距離が瞬く間に五メートルは離された。逃げられて、蒼太は息を吐いた。 「息も白いな。春が来たと思ったら、まだ来てなかったのか」 紫煙越しに桜を見ていた尚也が、しゃがんだままの蒼太へ視線を落とす。 「これが最後の寒さなんじゃん? なんて言ったっけ? 花の名前で、」 「ああ、花冷え? 息も白いよなあ」 顔を上げ気温の低さを訴える彼にあわせて、尚也も煙草を口から離すと息を吐いてみた。 「そうだな。……って、俺煙草吸ってたわ」 「な、尚也!!」 天然が利いた尚也の発言に、蒼太は目を丸くして爆笑した。尚也は恥ずかしさを隠すように、短くなった煙草を地面に落とす。靴裏で落花とともに火を消し潰した。そのついでに、尚也は息を吐く。蒼太の言うとおり、ちゃんと普通の息も白い。 風が吹いた。花吹雪がはじまる。蒼太の笑いが穏やかな微笑みになる。彼はもう、寒いと言わなかった。 「こんだけ散ってたら、俺の誕生日までは持たねーなあ」 そうだなあ、と尚也が潰した煙草を屈んで拾いながら言った。 「でも、蒼ちゃんの誕生日が来たら、」 そして身体を起こして、灰皿に投げ入れた。 「そしたら、今度こそ春だぜ」 口許を緩めた蒼太が頷く。手を伸ばせば、尚也が上に引っ張ってくれて、蒼太は立ち上がった。二人しかいないとわかるから、嗅げる煙草のにおい。蒼太のくちびるに尚也のくちびるがあたる。 「吸ったあとって、苦いんだよな」 軽いキスの感想を述べると、尚也が笑みを浮かべる。 「舌入れてねえのに?」 「……あー。そういうのは、飯のあとで」 蒼太が目を細めて甘い視線を投げかければ、もう一度くちびるがあたる。その合間に、風はもう一度桜色に染まって世界の隅々へと舞いめぐった。
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