* ボーナストラック * |
「腰が痛い」 何気なくうつ伏せでつぶやいた言葉に、美晴は我ながら少しだけ後悔してしまっていた。 別に意図的に言ったわけでも、非難したかったわけでもない。ついさっき「なんか飲みたい」と、訴えたような物言いとはわけが違う。しかし、独り言の体ではないことも確かだった。第一に、人影が近くに来なければ、こんな言葉がついぽろっとでてきてしまうなんてことはなかったのだ。 だが、聞き手はそんな軽々しい気持ちで放たれた言葉だとは考えられないはずである。美晴自身、その言葉が多面的に持つニュアンスを把握していた。だからこそ、相手の解釈を求めて、枕の突っ伏していた顔を横に向けてみる。 視線を持ち上げれば案の定、ベッドの脇に慶介がペットボトルを持ったまま、深刻な表情をにじませて立っていた。 美晴の何気ない訴えが、慶介の脳内で一瞬にして腰痛レベルMAXの状態を描かせたのだろう。彼は美晴が腰痛もちであることをよく知っていた。学生時代に痛めた腰が、ときどき妙な感じで疼くのだ。通院してだいぶ落ち着いたが、同じスポーツをしていた圭介は、自分のことのように思うらしい。しかも、美晴の腰を酷使させた後だ。腰を痛くさせたのは自分だ、と、一気に罪の意識でも呼んだのだろう。 「痛いって、……すげー痛い?」 そう思ったに違いない台詞が慶介の口許からこぼれ落ちた。何気ない言葉が引き寄せた面倒事に、美晴はもう一度うっかりしすぎていたと自分を諌めた。 情事後の鈍痛はいつものことだ。痛いのかと言われると、そりゃ元々の用途と違う箇所を酷使している上に、その箇所の使うがために無理な体勢もするわけだから、腰とかその中とかそのあたりは形容しがたい感覚があるし、それを痛みと称せないこともない。これは神経に響く痛みとは類が違う。美晴がベッドから起き上がらないのは、単に起き上がる気がないだけである。 しかし、そんなことをいちいち慶介なんかに説明したくはない。とはいえ、「腰が痛い」という詳しい説明をすっとぼけてしないのは無理な話だ。慶介の性格からして、この手の話を軽く聞き流してくれるタイプでもないのだ。 現にその通り、美晴の言葉を慶介は大人しく待っている。この様子からして、辛抱強くこのまま待つ気なのだろう。トランクス一丁の裸で立ち尽くされると、妙な居た堪れなさが美晴の胸中に湧いてくる。これなら我が身にかけているシーツを引っぺがされて、腰にゴメン! と頭を下げてくれたほうがいい。以前の慶介だったらやりかねないだろう。今は社会人になって随分落ち着いたものだ。 そんなことを美晴は思いながら、とりあえず腕を伸ばした。 ひらひらと右手で慶介の視線を集め、人差し指を下に向ける。そして、空きのあるシーツをポンポンと叩いた。美晴の「まあ、座れよ」というジェスチャーがわかったのか、慶介はすぐ直立不動をやめ、ベッドの縁に腰を下ろす。 腰掛けた慶介は、右手が届く位置だ。再度手を伸ばし、慶介の腕を、鍵盤を押すように叩いた。目的は、その手中にあるペットボトルだ。慶介が美晴の右手へ視線を落とす。指でぱくぱくと物を掴む仕草をすれば、簡単に未開封の目的物が手に入った。ほどよく冷えたスポーツ飲料である。 うつ伏せのまま水分を補給するわけにもいかず、仕方なく美晴は体勢を変えることにした。 ……とはいうものの、上半身を起こすくらいならば、はじめから自分で飲み物を取りに行ったし、その後風呂場に直行している。それこそ、水分補給を訴える一〇分くらい前は慶介の余計なモノが突っ込まれている身の上だったのだ。今の頃が、ちょうど快楽が完全に引き、どっと疲労が覆いかぶさってくるのだから……いつものように億劫になる前に風呂場へ直行すればよかったかもしれない。 しかし今回はそんな気分にはなれなかったのだから、この状況は仕方がない。 ころりと横向きに転がって、美晴はペットボトルを片手にしたまま、視界から見えるピローをひとつひとつ残された手で掴んで引き寄せた。自分が頭に敷いているものと合わせて三つ。二つは柔らかくて一つは硬めだ。もう一つ枕があるはずだと眼で探せば、思惑を理解した慶介が美晴の足許側に手を伸ばした。シーツに埋もれていた白いピローを発掘して差し出される。美晴はそれを受け取って、緩慢に起き上がった。黙々とベッドヘッドに沿って傾斜をつくりながらピローを積み上げる。 そのそのと動いて仰向けになる。そしてピローの傾斜に身を沈めれば完成だ。リクライニングチェアのように、うまいこと身体にフィットしている。思った以上に、これは楽だ。 キャップを開封し、美晴は水分を摂取した。喉を潤すと、ますます動く気が失せてきた。風呂と睡眠を天秤に……かける前に、身近な視線を解決させなければいけない。 美晴は向けられ続けている慶介の目線へ顔を向けた。今の寝床づくりのようなものを自分でつくれた余裕を見て、美晴は深刻な状態ではないと慶介は思ってくれているようだ。しかし、そのままオヤスミしてしまうのは、美晴自身からしても、さすがにいくらなんでも野暮な気がした。 したいことは、風呂か睡眠……以外の選択肢は、ないこともない。無駄に睨めっこが上手な慶介の逆手をとる方法も、ないことはない。つい先ほどまで、組み敷き組み敷かれた仲だ。精神面は別にして、肉体面ではそれなりの相性が良くなければこんな事態には何度も至らないのだ。 いつもより身体はだるいが、それはいつもよりこの行為にブランクがあったからだろう。明日は休みだし、いっそこのブランクをもう一歩埋めてみるのはどうだろうか。何かあっても、慶介が甲斐甲斐しくしてくれるのだろう。 実際に何度何度も甲斐甲斐しく愛された経験のある美晴に、そんな自信が後押しした。 ついで、なんかちょっと、甲斐甲斐しくされたい気分でもある。 火元は消えていたが、セックスが一巡してからまだ半刻も経っていない。一から熾さなくても点る火だ。簡単に点せる自信もあった。それは、愛されているという自信でもある。 美晴は、疑惑を呼んだ言葉を、誘い文句にすることにした。 「腰だけど、」 キュッと、ボトルキャップを締めながら、もったいぶるように言葉を切って慶介を見た。美晴の気分が変わったことを、慶介はわかっていない。対応できないのは当然で、放置されていたはずの主題に凝視する。 「ちょっと、腰さすって」 これで美晴が何を考えているのかがわかれば上出来だが、それでは面白くない。けれど、慶介ならば何か企みだしたな、くらいは思ったかもしれない。それなりに互いの性格は読めている。美晴は、今まで圭介に対して散々無茶ぶりをしていた身分でもあるのだ。 腰をさするにも、距離がある。自作のリクライニングゾーンまでつくった美晴がさすられるために動くことなど、まずあるわけがない。慶介は一瞬思考を逡巡させたようだが、素直にベッドに乗り上がって距離を縮めてきた。 「まだ痛い?」 目の前の慶介に、少し心配そうな声色でもう一度問われた。すっげー痛いとでも応えれば、正座で謝ってきそうな体勢でもある。美晴は軽く睫毛を落とした。間接照明だけの空間で、影は恰好の演出だ。 「痛いっていうよりは……ちょっと、冷えたかな」 部屋の気温は適温だが、熱や汗が引いた状態だと室温が少し涼しく感じる。それもあって少し腰に響いた、という言い方は決して場違いなものではなく、美晴は色を強めるためシーツに隠れている腰に手を当てた。慶介が先ほどまでご執心だった腰である。 「冷えた? ……そうか、じゃあ、」 美晴の即席でつくった理由に、慶介は納得がいったらしい。さて、慶介がどのように行動に移すのか。 この状況でうつ伏せになってほしい言ってしまうのは、あまりに空気を読んでいない。美晴が体勢を変える気がさらさらないのは、様子を見てからも明らかなはずである。 慶介は美晴の傍に身を近づけ、半端に向かう合うかたちで美晴の腰に手を乗せてきた。側面をそっと撫でられる。シーツ越しの、慶介の手は温かい。律儀な手は、どうさすればいいのか、どこをさすればいいのかよくわかっていないのだろう。 もう片方の手が美晴の胴を越える。両手を腰に回されると、まるで覆いかぶさられた状態になる。手はあやすように腰を撫でた。あくまで義務的な動きだが、むずがゆい感覚もあった。 美晴は手にしていたペットボトルをシーツの海に落とした。腰に添えられた手をかけているシーツの奥へ引き寄せるために、上体を浮かす。そして、慶介の首後ろに両手を絡ませた。こちらのほうが、慶介にとってもさすりやすい体勢だ。慶介が美晴の思惑も気にせず、腰を抱き寄せる。 「もっと下」 耳許で訴える美晴の言葉に、慶介は持ち前の生真面目さで応えた。エロ関係に疎くはなく、がっつくときはがっつくし、欲望のまま強行突破するときもあるというのに、こういうときに限って慶介はいつも鈍感だ。 美晴は何度も「もうちょっと下」を繰り返した。とうとう腰を浮かせて、臀部から脚の付け根に慶介の手が滑る。ゆるりと熱が点る。ぴくりと触れられた身体が戦慄いた。 美晴の宿した身体の反応に、慶介はようやく気がついたらしい。指の動きが止まった。 そして、また再開した。今度の動きは美晴の肢体を労わるためのものではない。どちらかというと、触りたいところを触りだしている。 慶介の肩口に寄せていた顔を上げて眼を伏せると、くちびるが塞がれた。美晴の思惑を理解した舌が熱を追いかけて入り込む。ゆっくり上体が、詰まれたピローの上に沈んでいった。 「……またスゲー誘い文句だな」 離されたくちびるが、感嘆を交えてそんな言葉をかたどった。慶介に焦点をあわせると、彼はマズイことを言ってしまったという表情を浮かべている。美晴の機嫌を損ねるような発言だと思ったのだろう。しかし、美晴自身も確かにそうだと思っていた。強硬な誘い文句にもほどがある。だが、このノリは案外楽しい。 というわけで、続けることにした。 「今なら飲み物の口移しのサービスもございますが、いかがなさいますか?」 傍に転がっていたペットボトルを拾い上げる。 美晴のはじめた言葉遊びに、慶介はまた何かスイッチが入ったんだろう程度に思ったのか、別段動揺することなくペットボトルを見据えた。美晴を半端に組み敷いて真剣に考えている仕草だ。どう見ても本気でサービスを受けるかどうか思案している慶介に、美晴はサービスの補足説明をした。 「別料金扱いですが」 途端にハードルの高くなったサービスに、慶介が奉仕提供者を見つめた。 「別料金って、おまえ……いくらになんだよ」 「んー、時価だな」 適当に輪をかけたテキトウ発言にも、慶介は文句をいわずに美晴の首筋までくちびるを這わせた。会話の間にも、慶介の指は美晴の肢体を泳いでいる。身にかけているシーツはさすがに邪魔だ。 耳の裏を舌でなぞられた。 「今日、金あんまり持ってきてねえんだけど」 「もう、本気にするなって」 愚直な声に、美晴は笑いを含みながら自らシーツを剥ぐと、慶介の背に手を回した。
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