* お菓子作り * |
五つ上の姉からバレンタインデーのお返しを迫られてすっかり一年が過ぎた。今年の二月十四日はとうに終えていて、修太郎の家の庭ではチューリップが天に向かってぽっかりと咲いている。今日は姉と約束した日だ。先月もらった彼女のチョコレートはブランド物で、とろけるような美味しさだった。義理と言いながら、姉はちょっと奮発してくれたらしい。 待ち望んでいた高校一学年目の終業式を終えて、修太郎は玄関の鍵を開けた。軽い通学鞄とレジ袋を片手にドアを引く。静まり返った自宅はいつもより少し暖かく、これからもっと春になって暖かくなるのだと思うと、彼はホッと一息をついた。しかも、明日から春休みだ。 修太郎はリビングより先にキッチンへ脚を踏み入れると、袋を置いた。両親は共働きで、姉はまだアルバイト先から戻ってこない。帰りがけに寄ったスーパーの袋の中身は、小麦粉、板チョコレート、バター、卵、製菓用アーモンドスライス。どれもお菓子の材料だ。昼食は買わなかった。冷凍庫にカチカチに凍ったグラタンがひとつあることを知っている。一度自室に戻って、修太郎は制服からパーカーとカーゴパンツに着替えた。すぐにキッチンへ戻ってやることは、昼食の準備ではない。生地をこしらえて少し寝かせることだ。 ぐう、と、お腹は素直に鳴ったが修太郎は辛抱した。お菓子づくりの品は、チョコチップクッキー。お腹が空いていても種をつくる工程は先にしたほうがいい。手順を先延ばしすれば、焼き上がりの終了時刻が延びるだけだ。クッキーの焼き時間は短縮できないものだと、繰り返す中で学んでいる。 毎週のようにクッキーをつくっているせいで修太郎の手際はよく、勝手に手を動かせればできてしまう。面倒な気持ちさえ解消できれば、クッキーづくりは修太郎の負担にはならなかった。調理器具を用意して材料の分量をはかる。チョコレートは包丁で細かく砕く。板チョコはつまみ食い用に一枚多く買っている。砕きながら、ちまちまと甘い欠片を口に放り込む。チョコレートの甘みで、少し楽しくなる。 去年の三月、修太郎はまだ中学生でぎりぎり受験生だった。ホワイトデーの日は卒業式直前の慌しい中で、姉の千紗からもらったバレンタインチョコレートのお返しを忘れていたのは仕方ない。だが、容赦ない当時の姉は、家にお菓子の材料が揃っていることを知って弟に言い放ったのだ。 『じゃ、今からクッキーつくってよ。それならタダだし、前に私がつくってたの見たことあるでしょ。レシピは貸すから。すぐできるわよ。あんた高校決まって暇なんだし』 いつも弟に横暴な発言をする姉だが、彼女が以前つくっていた手づくりクッキーがおいしいことは修太郎もよく知っていた。特に少し焦げ目のあるクッキーのかたさと美味しさは格別で、よく姉にもっとつくってとせがんだのだ。そのたびに「自分でつくんなよ。カンタンだから」と返されていた。 姉に手作りお菓子をせがむ年頃ではなくなったが、手作りのホワイトデープレゼントをせびられるとは思いもしなかった修太郎は、そのとき姉と口論になった。しかし、姉の言うとおり、そのとき忙しかったのは勉学ではなく交友関係で、ちょうど小遣いもカツカツだった。タダでプレゼントできるのは悪い話ではなく、自分でもちょっと食べたい気持ちがあった。……それで修太郎は、姉のためにはじめてクッキーをつくることにしたのだ。 レシピを見ながらはじめてつくったクッキーは、姉だけでなく親にも評判だった。姉は目を輝かして、美味しい、才能ある、と褒めてくれた。そんなことを言われたのは弟の修太郎にとって生まれてはじめてのことだった。そして姉は、ホワイトデーじゃなくても暇なときはつくってほしいと、がらにもなく手を合わせてお願いをしてきたのだ。 暇と面倒さと美味しさを天秤にかけた修太郎が、クッキーづくりを継続するに至ったのは、姉が材料費を全部持つと言ったからだ。五十個つくっても百個、二百個つくっても姉が費用を負担してくれる。その上、おこぼれをいただく母親からも、お小遣いを材料費分プラスしてあげると言われて、修太郎の心はおおきく揺らいだ。クッキーをつくることで、材料費が二倍もらえる。それは、これから進学校の高校に通う修太郎にとって、軽いバイトと同じようなものだった。材料費は案外かかる。お菓子づくりをするだけで修太郎は月四千円近い利益を得ることになり、……修太郎はこうして一年経ってもクッキーをつくっている。 姉のレシピ本があれば、美味しいクッキーを自分の手でつくれる。それはちいさな快感にもなっていた。毎月つくっていて分量も工程も諳んじられるようになった。飽きたら別のお菓子もつくってみたいと思うが、自分のつくるクッキーはまだまだ飽きない。いそれに、つも美味しそうに食べてくれるのは姉だけではない。 大きなボウルに用意したものを全部入れてざっくり撹拌し、ラップをかぶせると冷蔵庫で少し寝かせる。グラタンを熱々に温めてから、オーブンレンジのタイマーを設定した。時計を見るとオヤツ時が迫っている。ひとまずダイニングテーブルについて昼食だ。修太郎は、口の中で「いただきます」と言ってからスプーンを取った。 このたびのクッキーは少し特別で、姉と母親へのバレンタインデー返しになる。少し日にちが遅れてしまうことは、すでに了解してくれていた。今回ばかりは、修太郎が全部材料費を持つ。手づくりホワイトデーの二年目は、姉からも「去年と違う感じにしてみてよ」と言われたので、焼くときにアーモンド入りのクッキーも追加する予定だ。アーモンドを買ったのは、スーパーの製菓材料コーナーで単に目に入ったからではなく、幼なじみの渉の好物でもあるからだろう。 無駄なく手順を踏んで、ようやく一回目のオーブン入りがはじまる。これから時間がたんとかかるのだ。クッキーづくりをはじめた頃は要領も悪く、母親が夕食の用意をし終えてもオーブンを使っていたことがあった。最近は一度に大量のクッキーをつくらない。母親が帰宅して夕飯をこしらえる頃には終えるようにもなった。クッキーをつくる日も毎週火曜日と決まっている。 修太郎はオーブン内の様子を見ながら、二〇分近くかけて焼いた一回目を取り出した。きれいな焼き色で、少し焦げた縁取りがある。上出来だ。いつもと違ってチョコレートのにおいの他に、香ばしいナッツのにおいも漂う。ひとつ味見してみた。いつもと違う味わいだ。みんな喜んでくれるはず、と修太郎は思いながら二回目、三回目、クッキー種をオーブンにおさめる。 三時を過ぎて、庭の窓でガラスを叩く音が聞こえた。修太郎は音の鳴るほうを見て、すぐに手を洗った。 「来たな」 窓の前には、同じくらいの背格好の男子が立っていた。足元には飼い猫のミイが窓越しの修太郎をじっと見つめている。 高校の制服を着た侵入者は、小学校のときから飼い猫と同じルートを辿って修太郎に会いに来る。火曜日の習慣だ。修太郎は窓を開けた。 「よう」 「よっ! あーやべー今日もすげーいいにおい!」 そう言いながら、飼い猫とともに渉がリビングへ入ってくる。今日もすぐにクッキーを見つけたようだ。ミイは連れてきた男子を気にすることなくソファに座って寝転んだ。 「これ、食っていい?」 そう言いながら、渉はクッキーを手に取っている。修太郎はいつもどおりの彼を見ながらキッチンに戻ってポットに火をかけた。 「ああ。今日は早いな。そっちも終業式?」 「うん。そのあと、いろいろあって今帰ってきて、って感じ。今日のこれ、アーモンド入ってね? すげーうまい! これマジすげーうまいって!」 さくさくとクッキーを食べながらキラキラと目を輝かせる渉の様子を見ていると、修太郎は毎度のことながら少し気恥ずかしく、嬉しくもあった。 「入れたよ。今日はトクベツな」 ぶっきらぼうに応えて、四回目の工程を繰り返す。 「おまえのクッキーは一番だな。マジ市販のやつ食えねーよ。もういっこっと」 「おまえ食いすぎんなよ。それ、ねーちゃんのぶんだから」 「おう。千紗さんは? いつ帰ってくる?」 「あと一時間くらいだろ。すぐまた出かけるって言ってた。これ、今回はホワイトデー用なんだよ」 ふうん。そう応える渉と修太郎の姉は仲がいい。音楽の好みが一緒で、姉からいろいろと音源や映像を借りているのだ。修太郎にとっては横暴な姉だが、渉からすれば音楽ファンの千紗先輩になるようだった。先月は渉も千紗からバレンタインチョコレートをもらっていた。 「でも、ホワイトデーって十四日だったよな」 「そうだよ。おまえ、ねーちゃんにホワイトデー渡した?」 「も、渡したぜ」 「マジ? どこで? メルアド知ってんの?」 「いや、でもツイッターでつながってっし。音楽つながりで。やりとりして、渡した」 へえ。修太郎がキッチンにいながら、また知らない世界を間近で見る。修太郎が小学校一年生のときに越してきてから、中学校までは何もかも一緒だったが、高校で分かれてから空白時間が多い。そうなることは早くから知っていた。渉は中学のときに医者を目指すと決めたのだ。ろくに勉強しないでも良い成績が取れる彼だが、夢のために部活もやめて猛勉強をして、志望していた県下トップの公立校へ進学している。 毎週火曜日がお菓子作りの日になったのは、渉が庭を通って修太郎の家へ通うようになったからだ。高校になってから失われていた二人の関係は、チョコチップクッキーが取り持ってくれたようなものだった。 ついで、渉と千紗の仲も取り持っているのではないか。修太郎による、渉の「千紗さんが好き」疑惑はこのあたりから生まれていた。両者ともに全力で否定するところも怪しい。 黙ってお菓子づくりを進めていると、渉がキッチンへ入ってくる。彼はすでにこの家のキッチンの仕組みもよく知っていた。 「ポット、お湯沸いた?」 「うん」 オーブンに呼ばれる間、渉がいそいそと紅茶を用意する。高校に入ってから、さらに勉強一筋となった彼にとって、この時間は大切らしい。近況を話しながら、ダイニングテーブルにティーポットとティーカップがふたつ揃う。二人はテーブルに向かい合って椅子に座った。 「いただきます。……あー、たまんねえ」 ビールの一口目を飲んだサラリーマンのように、紅茶を飲んだ渉がしみじみとつぶやく。猫のミイが彼の膝に飛び乗った。家の奥のほうで、音がする。思ったより早く彼女が訪れたようだ。 「なんか完全におまえの至福の一時になってるよな」 姉がアルバイト先から帰宅してきた音だ。それを片耳で聞きながら修太郎がつぶやけば、渉は「そうだよガチで」と平然と答えた。姉がリビングのドアを開けた。 「あーいいにおい! と思えば、また渉ちゃんか! なんなのあんたたち」 「なんなのっていつもどおりだよな、渉」 「そうだよ。放課後ティータイムだろ」 「おい男子。女子力高いそこの二人、ちょっと意味が違うぞそれ」 「ねーちゃん、今回のこれがホワイトデーな。紅茶飲む?」 いつもどおり状況に呆れ返る千紗を横目に修太郎が訊く。 「イエス。いただきます」 姉は横暴だが難しい性格ではない。コロッと表情を変えて自分用のティーカップを取りに行く。 猫を乗せた渉が、修太郎を見ながらクッキーを手に取った。 「で、一年が修了したってことで、お菓子づくりやめんなよ?」 「当分はやめるかよ。どうせ、おまえもねーちゃんもやめたらうるさいんだろ」 「イエス」 千紗の口調で応答してクッキーを食べる渉の奥で、「お金出すから二年になってもやめないでよ!」 と叫ぶ姉の声がして、またひとつ焼きたての音が響く。香ばしい洋菓子で満たされたリビングで、飼い猫のミイは心地良さそうに眠っている。修太郎は「わがままなやつらだなあ」と、苦笑しながら立ち上がった。 姉の千紗は、帰宅してきたかと思えば渉にDVDを渡して、クッキーを全部持ってあっという間にでかけてしまった。一人暮らしをしている友人宅へ泊まりに行くという。酒のあとのデザートとして、ホワイトデーのクッキーは有効的に愛されるらしい。 焼き上げたクッキーが年貢のように根こそぎ取り上げられて、ティータイムは一時中断となった。焼き上げる工程は、まだ半分残っている。これからは母親の分と自分たちの分になる。 修太郎は生地の状態を見るためにオーブンを覗いた。あと6分。母親が帰ってくるのは二時間後の七時。今日は仕事で少し遅くなるらしい。そのぶん好物のカキフライを買ってきてくれるという。 顔を出入り口に向けると、渉がキッチンに入ってきていた。オーブンの様子でも見に来たのかと思ったが、真っ直ぐ修太郎を見つめているので違うとわかる。妙にうずうずした様子だ。 アレだ、と思う間もなく、彼が修太郎に抱きついた。 修太郎は何を言うまでもなく従順に受け止めた。渉が火曜日に修太郎へ会いに来るようになって増えた奇妙な習慣だ。はじめから抱きついてくるようになったわけではない。最初の頃は、そろそろと触ったりくっついたりする程度だった。だから、修太郎も中学校時代までのじゃれあいの延長だろうと気にしていなかったのだ。気にとめないまま渉のスキンシップはエスカレートして、今では問答無用で抱きしめてくるようになってしまった。 渉は幸せをかみ締めるようにゆっくり深呼吸をして、修太郎の首元に鼻先を寄せる。これがいつも少しくすぐったい。はじめて抱きつかれたときは、勉強のしすぎで頭がおかしくなったのか、と修太郎は本気で思ったものだ。心配して訊いて返された言葉に脱力した。 クッキーつくってるときの修のにおいが、なんかすげー好きなんだよ。 「……おまえさ、ほんとヤバいのにハマッたよな」 「あー、うん、マジ」 悪びれもせず答える。一度抱きついてくると、人が来ないかぎり渉はスッポンのように離れない。夏は暑苦しそうだが、渉が抱きつくようになったのは去年の秋をすぎてからだ。……この調子なら、夏もこんなことをしてくるかもしれない。エアコンは必須だろう。 「満たされるんだよなあ」 「もう、なんだよそれは」 焼き上がるまで、あと2分。渉はもう離れない。オーブン内のクッキーと生地の入れ替え作業の間も、渉は修太郎の腰に手をまわしてくっついているだろう。同じような身長だから、ぺったりされると邪魔だ。しかし、お菓子をつくる修太郎の体臭が好きというのだから、くっついているより他がない。修太郎は気にせずオーブンを見つめる。 あと1分。 「特に今日はアーモンドのにおいもあいまって、たまんねえわ」 嬉しそうにまわした手で背をなぞる渉を無視しながら、修太郎は横目でオーブン用の取っ手を手にした。 「だって渉が好きだろ、アーモンド。だから入れてみたんだよ」 オーブンが焼き上がりの合図を鳴らす。修太郎が、ちょっとどけよ、と言うまでもなく渉はするりと腕を離して体勢を変え、今度は後ろから抱きしめてくる。修太郎は渉を背後から背負ったような状態で、オーブンを開くとクッキーを取り出した。これでティータイムは再開できる。香ばしい甘いにおいが鼻腔をくすぐる。 修太郎の薄い腹に腕をまわした渉が、耳元で呼びかけた。 「修」 「食いたい? これ、まだ熱いぞ」 クッキーが食べたいのか、と思った修太郎はそう返しながら、クッキングシートを持った。花柄の大皿へざっと十数枚のクッキーを滑り移す。事前用意していた生地の乗るシートをゆっくり鉄板へ乗せて、オーブンの中に閉じ込める。 次の工程の準備に取り掛かろうとした手に、渉の手が重なった。 「反則度増してんなよ」 少しかすれた男の声色が、いつもと違う感情の密度を与える。ふと修太郎は渉の体臭をはじめて意識した。すると、薄くこぼれるにおいと熱から、見えない彼の感情が明確になって打ち寄せてくる。ハッとした。修太郎の身体は軽い電流が走ったような感覚を経て静止する。渉から密接に触れられた気がした。 修太郎は静かに、次に続く言葉を待った。 「……もっと好きになっちゃうだろ」 茶化して言うはずだった渉の台詞は、声色の切なさで失敗していた。渉が項垂れるように首元へ顔を埋める。修太郎をつかむ彼の握力の強さは、何かを失いたくないと恐れているようでもあった。修太郎は彼が犯したちいさな過ちに気づいた。 おそらく、渉はここで暴露するつもりはなかったはずだ。もしかしたら、一生暴露するつもりはなかったはずだ。彼は失敗した言葉を取り返すことができず、裁かれる囚人のように沈黙している。 渉の懊悩と躊躇いと体温。一〇年の付き合いの中で、はじめて手にした彼の本当の重みを、修太郎は背中で感じていた。彼は修太郎の身体に瞬く間に馴染んだ。 こんなもので、彼を失うわけがない。 修太郎は何も答わず渉の重なる手を握り返した。こわばっていた彼の身体に安堵感が生まれる。 沈黙のあとで、渉は素直に修太郎へ想いを告白した。その逃げない彼の男らしさが、修太郎は昔からとても好きだった。
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