* QUIETMELT * |
かすかな水音を、光葵は好ましい心地で聴いていた。 波のように寄せる柔らかな眠りは、甘い疲労感と触りのよいシーツから育まれたものだ。程よく絞られた暖色の照明が、静かなひと時をより柔らかくしている。 一日中、小雨が降っていた。少しずつ太陽を闇へ押しやる空は、今日も重いグレイを湛え煙る景色は外気を冷やしていた。野外を彩る草花は、日を追うほど秋を印象づけるものばかりになっていく。光葵が日中訪問した知り合いの邸宅の庭では、たくさんのコスモスが蕾を膨らませていた。後数日もすれば、ピンクや白のかわいい花に溢れるという。 けれど、雨の庭よりも印象的だったのは、煌々と灯る間接照明が美しい和室だった。とても粋なことが好きな知り合いの、それに見合った一室だった。部屋に通されたときに聴こえた、降り続ける天然のエレクトロとともに脳裏に浮かぶのは、橙色に染まる障子、花瓶に添えられた季花、光の屈折で賽の目模様に映える高そうな畳(この手の畳は市松畳というらしい)。中でも、陽に焼けていない畳のみずみずしい匂いは、心をより落ち着かせた。日本人なんだなあ、と、光葵はその時に当たり前のことを思ったものだ。 今思い返すと、また違うことが連想される。それはおそらく、水音を立て続ける人間のせいだ。 ダブルサイズのベッドを取り巻く色彩は、心と同じ穏やかさに溢れている。しかし、身体を求めるという感覚を知ったはじめの頃は、穏やかさや余裕や労わりなんてものは皆無だった。 畳といえば、知人宅で眼にしたような上品なものではない。陽に焼けて褪せた色や編み目の割れた滑りの悪さばかりが印象強く、そのせいで「畳の上は何か敷かないと身体がすれて痛いし、水に沁みる」と何度も思ったことや、「染みができたらマズい」と二人で後処理に奮闘したことなど、ろくでもない思い出ばかりしか浮かんでこない。 けれど、それらは懐かしい学生時代の記憶でもあった。光葵は目蓋を閉じたまま頬を緩めた。日中、綺麗なものを見せてくれた知り合いには悪いが、思い出を共有する人間とのセックス直後なので仕方がない。 光葵は瞳を開けて、へそ辺りまで掛けていたシーツを引き上げた。最近は夜が更ける程、気温が下がっている。それが室温にも少し、影響を与えているようだ。ついで、俯けていた身体を横に向けた。身体を動かしても、節々が痛むようなことはない。 身体は硬いほうなのに、今ではすっかりこの行為に慣れたものだと思う。彼とのセックスにブランクがあっても、事後に身体が軋むようなことがなくなったのはいつ頃からか。それまではいつも、セックスから伴う鈍い痛みに苦労させられていたのだ。特に、はじめて彼と抱き合うようになった頃は大変だった。 それだけではない。はじめの頃は、肉体面だけでなく、精神的な面でも、お互いいっぱいいっぱいだった。孤独を恐れていたわけでもないのに、寄り添ってばかりいた。感情に名をつけることもなく、ただ気持ちに忠実で早急だった。なぜあれほどまでに、真っ直ぐだったのか。ああいうのが、若さというものだったのだろうか。 ……そこまでなんとなく光葵は思って、改めて気がついた。そういえばつい数年前のように思い浮かべている物事だが、実際は二十年近く時が経っている。なんだか、あっという間なものだ。 扉の音が、室内に響いた。 程なく、人影から鮮明な存在が登場する。光葵は高校時代にはじめて抱き合った頃をあれこれ思い出しながら、彼を見た。 風呂上りの史高は、光葵の視線にすぐ気がついたようだ。「あ、起きてるんだ」とでも言いたそうな表情を真っ先に浮かべている。確かに、いつもならば、睡魔に負けて寝ているシーンだったかもしれない。しかし、今夜は結局眠るところまで至らなかった。それは珍しいことだったか、と、自分のことながら光葵は思う。 史高が手にしているビールは、すでにプルトップが開けられている。このあたりは、学生時代からそこまで変わっていないような気もする。全裸でやって来ないだけ大人になった、ということかもしれない。 ビールに視線を向けていると思ったのか、光葵の傍に来た史高が片手を持ち上げた。 「飲むか?」 光葵は、首を振ってゆっくり身を起こした。 弾力のあるピローに手を沈めると、そのままバフンッと勢いをつけて抱きつきたい気持ちにもなる。史高を置き去りにして睡魔を手繰り寄せても、文句は言われないだろう。セックス後は大抵、光葵が先に勝手に寝ているのだ。 そういえばこの前、いつものように史高を待たず眠ってしまった後、珍しく彼より先に目を覚ましたことがあった。史高の寝息が近いとすぐに思ったのだ。……光葵は、史高の腕の中に収まっていた。そこではじめて、史高が自分の寝ている間に腕枕をしていたことを知ったのだ。 意識があるときに腕枕をされた覚えはほとんどなかったのだから、おそらく自分の知らないところでこういった習慣がいくつも史高の中でできているのだろう。そう思いつつ、光葵は大人しくもう一度収まっておいた。その眠りの訪れもやたら早かった。腕枕の件は、今も史高に問うことはなく、そのままにしている。 史高は、光葵が在するベッドの縁に腰を下ろして、缶を口許に寄せ傾けた。晒した喉には、歳を追うごとに増す精悍さが如実に現れている。彼の肉体のかたちを、光葵は己の身体を使いすみずみまで知っていた。それと同じようなことが、史高側からもいえるはずだ。 しかし、身体に馴染んでいるのは、お互いの身体の仕組みだけではないだろう。満たすように、刻みつけるように求めた時期はとっくに過ぎ去っている。やがて、いつしかセックスをするにも理由が必要となり、しないことにも理由を求めるようになっていった。 今は最早、そういった悩ましい季節も、すっかり懐かしい過去となった。 光葵がお互い成長したもんだと、つい傍にあった史高の頭を撫でれば、缶を傾けていた史高がすぐ向きを正した。ビールの中身は、元々あまり入っていなかったようでもある。 少し伸びた髪の触り心地は、相変わらず悪くない。 「……なんだよ」 そう言った史高の表情は、暖色の照明を集め、口を少し尖らせていたにも関わらず、妙に嬉しそうにも見えた。 そんな様子に、光葵は口許をほころばせる。「なんでも」と返せば、アルミの軽い音が響いた。史高がサイドボードに空き缶を置き、ベッドに手をついて身を乗り上げてくる。 なんでもない仕草で終えたくない、というのが簡単に窺えたから、光葵はひとまず史高の口許にくちびるを寄せた。 隙間なく交わしたくちびるが離れて、肌を合わせる。 光を絞った空間へ、かすかに注ぐ雨音は旋律の天蓋だ。この夜に行き着く前、史高が光葵と待ち合わせていたときから、途切れることなく降り続いている雨だ。外に耳を澄ませるゆとりがあることは、それだけこの関係が豊満であるということでもあった。 それに、すでにセックスを一巡させていた。今更求めても求めなくても同じだ。すでに繋げなくても、融けている部分がある。肌が融け合わないのは、まあ、物理的に当たり前の話だ。それは光葵との関係の中で、十二分に学んだ。肉体同士が個別だからこそ、セックスがあって、愛撫があるのだ。そこにもどかしい焦りはなく、深い悦びがある。 組み敷いた薄い胸を指でなぞる。光葵がくすぐったそうに、史高の二の腕を掴んで引き寄せる。促されるまま、うなじにくちびるを落とし、彼がつくる息を吸う。安堵する。 異性の抱き方と光葵の抱き方は、根本からして違う。そんなことを、史高は長い経験の中で確かめるように何度も思う。 身体の仕組みだけではない。絶対に有り得ないことだが、仮に同性を抱いてみたとして、そうしたときもきっと、同性の抱き方と光葵の抱き方は根本からして違うのだ、と、間違いなく思うのだろう。想う部分、心に結んでいくところが根本として違うのだ。 くちびるを這わして、光葵の鼓動を見つける。彼とは、出逢ってからというもの、お互いの中に決して失うことのない共有する部分があった。そこを言葉には言い表せないが、常に光葵を感じることができた。 そして、彼との情交は、それぞれ歩む道すがらで生まれる差異を補っていく……そんな不思議な作業にも似ていた。このセックスに、どんな意味合いがつくのかと問われることがあれば、そう答える他ないだろう。 それ以前に、もう、そんな理由や答えなどいらないくらい歳を経たのだ。あるがままの感覚で求め、想う心を頼りにしていく。そんなセックスは……はじめて熱を分け合った頃と、同じような純粋さを持ち合わせているようでもあった。通う意識も心も、歳を重ねる程シンプルに戻っていく。ただ元に戻るのではなく、よりメロウな色彩を束ねてひとつの芯になっていく。 遊ぶように這わせていた手は、次第に快楽を縒る。 史高の意図に気づいたのか、光葵がするりと、そんな手に指を滑り込ませた。隙間なく絡む感触は、今でいうところのラヴ繋ぎだ。そのかたちをまざまざと見れば、今更少し恥ずかしい感じも芽生えてくる。そして、くすぐったい気持ちもあった。 光葵はその点、なんとも思っていない素振りだ。合わせた指に力を込めてくる。 「お手柔らかに、」 口が開いたかと思えば、色気というよりも、心を和ませる言葉だ。史高は自然と笑顔を見せて、その爪先に口づけた。
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