* ヒメゴト * |
遠く隔てて聴こえるリズム音の振動が、密室であるこの場まで伝わってきている。ドアの向こうは、音と酒に酔う世界だ。決して崩れることはない音楽に、被さってゆく照明の色彩がフロアにいる人間たちのボルテージをあげていく。 さきほど時刻を確認したときは2時をすぎていたのだから、今頃からがピークだ。時折隔てた先で人の笑い声がする。 「……ッ、ん」 間近にある楓の喉許が鳴った。 壁に挟まれた圧迫とふさがれたくちびるでは、どちらが苦しいのだろうと、微かに顎を引くと同時に嶺二は思う。しかし、すぐに追いかけてきたくちびるが、その思考を霧散させた。腕をつかむ指に力がこもったのがわかる。 あのとき、あたったのはその指先だった。 音や光に埋もれた世界では、黒色のテーブル上も随分賑やかなものだ。一度ハウスのスタッフが卓上にある残骸を回収してきたが、瞬く間にもので溢れかえる。吸殻の詰まった灰皿に、潰された煙草の箱、誰のものかわからないプラスチックのコップなどが重なり、中に残された液体は照明の具合で反射していた。中身はどれも酒に違いなく、嶺二の手にしていたコップもまたアルコール飲料が入っていた。 あのはじまりは、楓がテーブルの傍に来たところからだった。 楓は、卓上を汚していくフロア内の人間たちと同じ用途で行き着いたのだろう。空のコップを置いた指はまた、すぐに離れるものだと嶺二は思っていたのだ。しかし、その手はひと時休息をはさむようで卓上に留まっていた。嶺二はそこから動かない指をチラと見ただけだ。 何かを思い出したように触れたのは楓だった。それはちょうど、嶺二が自分のコップを手に取ったときだ。隣に視線を向けると、楓は嶺二に当たり障りのない視線を投げていた。 そして、つなぐDJを失って、BGMが途切れた瞬間に楓は嶺二の耳許までくちびるを寄せてきた。饒舌な彼は、何気ない会話でもするつもりだったのだろう。ライターない? とか、その酒何? とか、選曲にたいしての感想や……おそらく、そういった類のものだったはずだ。 けれど、迎えたのは色のある熱だった。 楓は口許を寄せただけで、結局何も言わなかった。もの言わずに離れ、じっと瞳に嶺二を映した。指先が、もう一度あたった。それはすでに偶然ではなくなっていた。 指先に通ったかすかな熱は、お互い当の昔から体内を巡っていたものでもあった。それはいつも、ちいさなきっかけでハレーションのような感覚に支配される。今回もまた、その射抜くような瞳に嶺二は心を打ち抜かれていた。 熱が燈る瞬間は快楽の向こう側を揶揄する鍵であり、いつも鮮明で恍惚の感触だ。それを、嶺二は随分前からよく知っていた。他でもない、楓を通して知ったのだ。そして彼も、随分前に嶺二を通してそれを知ることになったのだろう。そうでなければあの場で、楓の内に唐突な情動など起こらない。 そうして相手以外の他者を遮断して、個室の鍵をかけながらありのままを晒すようにくちびるが重なった。 今にはじまったことではないキスの数だ。しかし、嶺二はくちづける程にその存在に酔っていくような感覚があった。そのパワーは、アルコールの強い蒸留酒を圧巻している。ある意味、彼に勝てるものなんてそうそうないはずだ。 押しつけられた楓の肢体は細く、場面場面で舞台俳優のように見る者の印象を変えていく。くちづける角度を変えながら、しなやかな筋となめらかな皮膚の感触を思い出すように触れた。 屋内の配色を助長させた個室のトイレは薄暗く、対象物を間近に寄せなければ、詳細がわからない。どれだけこの肌を覚えているだろうかと、指で素肌を暴く。腰を撫でれば、わずかに揺れた。 その手に触発されたのか、楓の手も嶺二の腕から離れた。その指は官能を呼び込むように嶺二の背を回り、すすっと降りていく。腰元まで辿ると、ベルトに沿って前へ回った。早くやれという、楓の意思表示のひとつだ。 大音量の音楽が覆いつくすクラブの個室トイレとはいえ、場所が場所なだけあってこの衝動を早急に片付けたいのかもしれない。それこそ、じっくり愛撫をするのならばホテルにでも行けばいいわけで、その早急さに応え嶺二もまた楓のベルトに手をかけた。 デニムパンツに指を突っ込んで腰から臀部をなぞりながら、シャツの裾も捲し上げる。視線を落としていると、お互いの額が掠めた。僅差の背でなければ起きないことに二人は顔を上げ、何を言うことなく間近にあったくちびるを同じ器官で食んだ。此処が静かな場所であれば、粘るようなキスの音が響いていることだろう。 そんなキスが離れる間際に、楓が後ろポケットから何かを取り出した。その手は、次に嶺二の肩をつかむ。 指に挟まれたものたちが何なのか、隙間ができた瞬間に嶺二が顎を引いて目にすれば、一種はセックスの必需品だった。このハウスに、何気なくスキンの販売機が備えつけられていたことは嶺二も知っている。コトをはじまる前に、個室トイレを嶺二に少しの間リザーヴさせたのは販売機にでも寄ったからかもしれない。 もうひとつ楓が手にしているものがわからず、下肢の素肌を撫で回しながらスキンの行方を気にしていると「嶺二、」と呼ばれた。視線を楓の顔に戻せば、間もなくくちびるが重なっていく。 早急さのわりに、嶺二の欲を引き出すように絡んでくる舌の熱心さを珍しく思いながら、求めている熱を下着越しにさすって指を中に入れた。直に触れられたことで、積極的だった楓の舌がヒクリと震える。その舌を追って絡めば、ようやく対等になったような感覚を得た。 子どもじみたちいさな充足とともにくちびるを離し、目の前で滑っていく唾液を舐め上げる。楓の喉仏が鳴り、吐息が髪にかかった。 「いいから、早く、」 掠れた声は、下肢を弄くる手を訴えていた。早く抜けと言う意味ではないことは、楓との関係がはじめてではない嶺二にはすぐにわかる。抜きあう程度ではなく挿入までを望んでいるとは思いもせず、嶺二は嬉しい気まぐれを素直に受け止めた。ヒクッと反応する感触を慰めながら、指でその奥を探る素振りをする。 下肢に身につけられている服が煩わしく感じて、楓を見る。不意に、彼の目線の不自然さに気がついた。嶺二の視線に気づいた楓は、嶺二の肩をぐいと引き寄せる。密着を求められるままに腰を抱いて、性器を弄っていた手を臀部に回した。指で受け入れ先を探っていく。 楓の仕草は、どれも嶺二にとっては嬉しいものだ。しかし、その素振りは根底に何かを気にしているから出てくるものに違いない。それも、気にしはじめたのはトイレに入った直後のキスを終えてからのようだ。一体何があるのだろうかと、うなじを啄ばみつつ、より近づいた楓の顔を横目で見れば、彼の瞳が一瞬何かを映したことに気がついた。後ろに、楓の気にしているものがあるようだ。 それが何か知りたくなり、嶺二は唐突に顔を上げチラ見程度に振り向いた。なんてことはない、少し広めにつくられた個室のトイレだ。 ……いや、側面が鏡張りだ。 個室トイレなだけあって、向かい側は洗面台になっていた。壁は腰くらいの高さから上が大きな鏡張りだ。洗面台はボウルからすべて黒で統一され、薄暗い光に反射している。飲食店によくある造りだ。鏡の存在を考慮すれば、トイレの照明はもっと明るくすべきなのだろう。……でないと、嶺二のように今の今まで気がつかない。 楓が気にしていたのは、鏡に映る自分たちの姿だったのだ。視線を前に戻すと、楓が表情を変えず、真っ直ぐ嶺二に焦点をあてていた。 「絶対に、見るなよ」 射抜くような瞳で約束され、嶺二は縫い止められたように「わかった」と素直に応えた。その口許に、楓が触れるだけのキスをする。ご褒美のようなキスから、次に舌が出て嶺二のくちびるをなぞる。手を背に回してキスをねだる仕草は、鏡を見ない代わりにちょっとくらいならば食い散らかしてもかまわないと諭しているようにも見えた。 体温に乞われるまま、くちびると指で楓の肢体に触れる。身の内に昂ぶる熱は、幾度となく通った最奥を欲していた。嶺二が鏡を気にしない素振りでいることに安心したのか、楓は背に回していた片手を嶺二の間まで寄せて見せた。 その指が持っているのは、先ほど目にしたスキンと得体の知れないチューブだ。……このチューブは、雰囲気的に潤滑剤として使えと言うことなのだろうか。それ以外の用途が見当たらない。薄暗い照明の中では、チューブに書かれている文字を明確に捉えられないのだ。 しかし、こんな使いきりサイズのものがあるのかと受け取れば、楓は嶺二の不思議そうな表情の原因に気づいたのか、チューブの正体を何気なく伝えた。 「それ、リップ。使って」 あっさりと言ってきたが、正しい用途ではないことは明白だった。上の口ではなく、下の口に使うのか……と、なんとなしに思った嶺二は、その言葉の過激さに慄いたと同時に鼓動を上げた。 そんな嶺二の思考を露とも知らず、楓は早急さを躊躇いなく行動に出している。ジーパンと下着を自発的に脱ぐと、それを上手に洗面台の濡れていない部分へ投げ置いた。嶺二の図体が壁になっているせいか、鏡への抵抗感が薄れているのだろう。 クラブを振動させるリズム音は、はじめの頃と比べミディアムテンポで打ちつけている。後ろを向いて嶺二に背を見せた楓の細腰を抱くと、片方の太腿を軽く上げさせて準備にかかった。柔肌を傷つけたくはないが、ゆっくりとほぐしている余裕もない。即席の潤滑剤は、思いのほかこの状況に的確に作用した。 黒い壁につかんですがる場所はなく、楓は内部を探られる感覚に不規則な呼吸を繰り返す。外から漏れるBGMのテンポがハイになると、嶺二は手首をつかまれた。時間を気にしろという意味か、焦らすなという意味なのかは定かではないが、促される通りに用意を整え、片脚を持ち上げて自らの身を割り挿れた。 「んっ……ッ」 立ったまま後ろから挿入するという衝撃に耐えるためか、楓がきつく目を閉じて指を噛む。内壁も異物感に慣れようと緩慢に収縮する。受け入れ方をわかっている動作だ。それが他ならぬ嶺二との経験の中から得たものなのだ。あやすよううなじにくちづけながら腰を寄せ揺すると、深さが増して楓は壁に爪を立てた。 何度かゆっくり動かせば、それだけでスムーズに内部へと収まっていく。痛いだけならば、こんな場でわざわざ挿入をOKすることはないはずで、楓の吐息は次第にあからさまな熱を帯びる。 垂れ流したままの曲は、その最中スローテンポのものに変わった。縫いとめた身体は支えが脆く、無理な体勢を宥めながら穿つ嶺二は、不意な音を耳にした。サウンドとは丸きり別種のものだ。楓の肢体が、今までになく戦慄いたのが嶺二の身体にも伝わっていく。 ドアは、もう一度ノックされた。ハウスの個室トイレは二つある。こちら側がノックされたということは、もうひとつのほうも使用中ということなのだろう。こんなところでコトを為す以上、誰かの干渉は起こりうることだとは思っていたが、いざ体験すると緊張する。実際は此処が多少ふさがれていても大丈夫だろうし、外部があれだけうるさいのだから、中で何が行なわれているのかくらいわかりはしないはずだ。 楓も想定していたことだっただろうが、往く状況に意識を集中しているのか息を詰めたまま動かない。嶺二と立場が逆の状態であれば多少余裕があっただろうが、さすがに今の状態では彼でも緊張するのだろう。その様子を、嶺二は不謹慎なところから生々しく感じていた。 耳を澄ましたところで、ノックした主が扉を隔てた先にいるのかはわからない。しかし静止は続けていられなかった。 外部から受けた緊張感からヒクヒクと嶺二を食む内壁が、嶺二の冷静さを奪っていくということを、楓は知っているのだろうか。そう思いながら、嶺二が腰をきつく密着させる。すると、不意の動作に驚いたように楓の肌がはねた。間を空かずスライドすれば、刺激に追いつけないのかちいさく喘ぐ。 反応の良さは顕著だった。嶺二はその様子から、本人も嫌がってはいないことを見抜いて律動する。ドアの向こう側など気にして入られなかった。荒い息で打ちつけに耐える肢体を抱き込むと、楓はぎゅっと肩をすくめた。 華奢な身体の丸ごと最奥に埋め込みたい衝動を覚えて、無理に壁から楓を離した。嶺二の思惑に算段がつかなかった楓は、身体の軸を失って次の衝撃に為すがままだった。 「ぅ……んッ……いっ、あ、あ、」 漏れる声が止められないほど仰け反った楓を、後ろから抱きすくめて身を揺らした。便器が軽くきしむ音がする。深々と刺さっているのが辛いのか、支えを失った楓の手は嶺二の腕に爪を立てた。立った挿入から、いきなり座位へ持っていかれたショックに耐えられないのだろう。しかし、打ちつける他行動が見出せない。 凭れた首に顔を埋めれば、微かに甘い香りがした。 髪からこぼれる洗髪料の匂いなのかもしれないが、それがまるで今の行為を香りにたとえたようでもあった。嶺二はかきたてられるがままに、痕の残るような強さで楓の首筋を吸った。 先ほどよりも、フロアは少し閑散としている。DJイベントが盛り上がる波は、そのイベントごとによって違うものだが、ちょうど今の時間帯はクールダウンとなるようだ。 卓上にまた量産されていくコップを横目に、嶺二は新しい酒をもらう。そしてカウンターに背を向けば、細い後ろ姿が目に入った。何事もないような……なかったかのような相変わらずの立ち姿だ。先刻までの情事が夢だったように思わせる。 あれは、夜中に見た白昼夢だったのかもしれない。しかし、身体には熱を吐き出した感覚と触りまくった肢体の弾力の鮮明な名残がある。近くあった白い便器を利用して無理やり座位に持ち込んだこともあって、楓に負担を強いた。それで何か文句を吐かれるかと思えば、そんなことはなく、後処理も当初のまま早急だった。情事の跡を残さない術を、楓は場数を踏むほどに磨いているような気がしてならない。彼を今見ても、事後の気配がまったくない。 やはり、後で楓にどやされてでも、あの情事を鏡に映して目に焼きつけておけば良かったのではないか。嶺二は歩を進めながら、今更そんなことを思う。 そのついでに、思い出した。 スニーカーのつま先を楓のいる方角へ向け、嶺二は楓に近づいた。そして、気づかない彼の後ろへ手を伸ばす。シャツの襟首を引っ張られた楓は、途端に後ろを向いたが、嶺二はかまわずその中を覗いた。 照明の不安定さで見にくい。けれど、嶺二が探していたものはしっかりそこにはあった。先刻つけた吸い痕がくっきり残っている。 嶺二は満足して指を離した。それまで要した時間はほんのわずかだ。それでも楓は、その動作の意味に勘づいたような表情を浮かべた。そして、……咎めることはなく、呆れたように頬を緩めた。 それは嶺二のための甘い仕草だった。
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