* 彼のにおい * |
節々の妙な痛みと人の体温とカーテン越しの日光と、いろんな条件が重なって蒼太は目を覚ました。携帯電話を探す隙はなく、顔をかすかに動かして時計を探す。今日は休日だ。特別急ぐこともない。 身体を動かしたかったが、この状況では難しい。尚也の身体で蒼太は完全にホールドされていた。しかも、本人は上半身裸で蒼太の胸元に顔をうずめて気持ちよさそうに寝息を立てている。ここまでガッチリと人にくっつかれて眠ったのは蒼太にとってはじめてともいえた。尚也とこうなる以前に、他の相手とこの状態で熟睡をしたことも目覚めたこともない。 尚也が起こすリアクションは、蒼太にとってはじめてのものが多かった。彼は出会ったときから、蒼太の知り得ないことをさり気なく持ち込んでくる。 昨夜のキスの味を思い出すと、途端に喉が渇いた。目が冴えてしまうと、尚也の抱き枕でいるのも疲れてくるうえ、変な気恥ずかしさも芽生える。 昨日は親密感が一線を越えた。二人で交互に家を通うようになって、じゃれあうことも多くなってきて、二、三ヶ月前からキスにもそこまで抵抗がなくなった。ゆっくりだが確実に進んでいた何かを蒼太も尚也もそのままにしたのだ。行き着いた先に、彼のにおいがあった。 ごちゃごちゃしたものから境界線を軽々と乗り越えて、新たな感情が追加された。尚也はとてもいとおしむように蒼太の肌へ色をつけ、体温をつなげてきた。 ただ、互いの気持ちが盛り上がった後も、合間合間にはいつもと変わらない雑談が入って、それは蒼太を安心させた。尚也との関係が一新されたわけではない。単に上書き更新されただけだ。 「尚也、ちょっと」 起きろと急かすのもはばかれたが、抱きつかれたままで動けないのも辛い。蒼太はかろうじて空いている右手で、彼の背を軽く叩いた。 自分を抱き枕にして安眠できるところもすごいと思う。昨夜のセックスがはじまったときからから尚也は蒼太のそばを離れない。その内容を思い返そうとする自分に気づいて、蒼太はもう一度強く彼の肩を叩いた。 「おい、起きろ」 「……、ん、」 ようやく反応を見せた尚也は、それでも蒼太から腕を離さず胸に頬を寄せている。思いのほか重みを感じないが、起床を強く促した。 「朝なんだって」 「うん、」 「飲みもん取りに行きたいんだけど」 その台詞に、ようやく彼の目蓋が持ち上がった。大人しく巻きついていた腕の力が抜け、尚也は横にずれてシーツへ沈む。晴れて自由の身となった蒼太は、起き上がると家主を跨いでベッドを降りた。あたりを見回すが、置かれているのはアルコールが入っていた空き缶ばかりだ。少し遠征してキッチンの冷蔵庫から冷えたソーダ水を発見して元に戻る。 ベッドの縁に座ると、尚也の腕がからんできた。 「……タバコ」 甘えにきたというより催促だったらしい。まだ寝転がったままの尚也だが、起きる気はあるようだ。蒼太は喉を潤すと、腰を浮かしてローテーブルにあった馴染みの銘柄の箱とライターを取った。渡そうと振り向くと、彼はむくりと身体を起こしていた。 「ありがと」 伸ばしてきた手に、煙草とライターを渡す。 「灰皿も?」 「いる」 ベッドの中で一服するようだ。ごそごそと動く彼を見ながら、蒼太ももう一度飲み物を口をふくんだ。 「あー、なんかすっげー寝た。何時に寝たっけ? 蒼ちゃん覚えてる?」 「覚えてねえよ。どっちが先に寝てた?」 「さあ、同時だったんじゃねえ?」 昨夜のことを思い出したのか、動き出した尚也の顔が妙ににやついている。それを横目に蒼太は自分の服を拾って着替えはじめた。煙草を吸いはじめた尚也は、時計を見たのか、朝マック間に合うなあ、と、尚也に聴こえる呟きをしてから問いかける。 「蒼ちゃん行く?」 「朝マックに?」 「じゃなくてもテキトーに、」 「じゃあ、外出るか」 尚也が、うん、と頷く。彼もベッドから出て着替えるようだ。灰皿に置かれた煙草はまだ長い。火のついている間に、素早く着替えを済ませるつもりだろう。 蒼太は財布などの自分の小物をポケットに突っ込んだ。荷物が残っていても、おそらくまた尚也の家に戻るのだ。あっさり用意を終え、短くなった煙草を灰皿に押し付けた尚也も最小限のものを持って、玄関へ向かう。蒼太が外に出ると、尚也は鍵を閉めた。 いつもと変わらない雑談をはじめつつ、マンションのエントランスを抜ける。朝の太陽はとても暖かった。秋のにおいがする。二人は並んで歩く。これからあの光は真南を目指す。 道を少し進むと、かすかに音楽が聴こえてくるようになった。音の響きはクラシックよりも神妙だ。十字架が見えて、教会が通り道にあることを尚也は思い出した。そういえば、日曜日はかならずミサなどという祈りの時間があるのを映画で見た。通り過ぎるときに、今日日曜日か、と、尚也が思い出したように呟いた。 その彼は、いつになく上機嫌だ。表情に出ているわけでもなく、発言も仕草も普段と変わらない。しかし、蒼太は尚也の雰囲気から何気なく察せた。 「なんか言った?」 突然、尚也が隣の蒼太を見て訊いてくる。尚也のことを考えていたと気づかれたような問いに、少し驚いたが蒼太はすげなく返した。 「別に、なんにも」 すると、尚也がひらめいたように蒼太を見直した。 「あ、そうだ。やるの忘れてた」 そう言うと、彼が蒼太めがけてさらに接近してくる。何かを家で忘れたのか、と、歩調を落とした蒼太へ、尚也はこともなげに頬へキスをした。唐突なリアクションに、逃げることもできず蒼太が仰け反る。しかし、されてしまっているので後の祭りだ。 「ちょっ、おまえ!」 「おはよーのチュウ」 いけしゃあしゃあと歩き出す彼に、うかれてる、と、やっぱり蒼太は思う。その当人はニヤニヤしながらウインクして、一言「ごちそうさまでした」と、付け加えた。
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