* ○とか×とか * |
指示されたとおりに動いていた慶介は、ハサミを持ち出してベッドに乗り上げる美晴を見て、ギョッしたように目を見開いた。脳裏で余計なことを考えはじめたのだろう。 美晴が、ハサミを使ってなにかとんでもないことをしでかすのではないか。 そう思っているに違いない。 そんなわけはないだろう、と、美晴は彼の姿を見て呆れながら手を後ろに回した。ポケットのなかに手を滑り込ませて細長いものを握る。わざわざコレを、このときのために用意したのだ。活用しなければ意味がない。 「……なにすんだよ」 問う慶介は上半身裸であぐらを掻いている。美晴は服装を乱すことなく膝立ちのまま、真っ正面にある彼の視線を受け止めていた。 ちょっと身体を貸してほしい、と、美晴が彼に伝えたのは数時間前のことだ。驚きを声に隠さず了承した彼は、それを行なう場所を聞いて、いろいろなことを想像したことだろう。 ベッドでまぐあう関係はすでに十分構築済みだが、気軽にラブホテルへ誘ったのははじめてだったかもしれない。美晴は特別意識していなかったが、本人と合流したとき、明らかに彼は期待している表情だった。一応美晴も、今回は期待をはずしていない、と、自負できる。しかし、彼の好みかどうかは知らない。 ただ、ちょうど試すのに良い日だったのだ。 入りやすいホテルに行き着き、部屋に入ると美晴は真っ先に、服を脱いでベッドにいるよう指示を出した。さすがに即物的な展開は想像していなかったようで、慶介は少し戸惑いながらも彼の希望に沿ってくれた。美晴はそうした慶介の心情を察しつつ、室内で見つけたハサミとともに彼の座るベッドへ上がったのだ。突然持ち出された刃物で、慶介は期待から嫌な予感へ瞬時にすり替わったのだろう。 そう思うのはまだ早い。美晴はシーツの波に浮かぶハサミを拾って、右手に持っているものを持ちかえた。 「見とけばわかるって」 ハサミで、パステルカラーの細長い先端を切る。必要なものは中身だ。コレのせいで、わざわざ家ではなく金のかかるホテルを選んだのだ。まき散らせば、掃除がただ事ではない。 慶介も登場した新たな小道具を見据える。美晴はハサミをベッドへ落とした。先端から、甘いにおいがこぼれる。 「それ、おま」 「その体勢やりにくいんだけど」 慶介の言葉を切り捨てて、次の指示をする。 「なにやる気か、わかっただろ」 美晴は少し嬉しそうな表情で、慶介に全貌を見せる。手のひらにおさまるほどのチョコレートペンだ。主にお菓子のデコレーションとして使われる。今回はあえてピンクのストロベリーチョコレートを選んだ。単純に味が好みだからだ。色が慶介の肌色に映えるだろうという想定も込めている。 彼が身体をキャンバス代わりにしようと考えていると、慶介もすぐ理解したようだ。 「それ、あまったら書かせろよ」 「わかったから体勢。こうやって身体反らせて」 「え、けっこうキツくねえ?」 「オレが書きにくいんだよ。やれるだろ」 にじりよる美晴に負け、長い間キープできねえぞ、と、慶介がつぶやきながら両手を後ろについて身体を反らす。 膝立ちでペンを持つ手を上げた美晴は、慶介を目の前にして一瞬逡巡したのか動きを止めた。やりやすい方法は、より近づくしかない。慶介のゆるくなったあぐらに進入する。美晴の動きに、多少動揺した慶介だが、体勢が着衣の対面座位にかぎりなく近かろうが、とりあえず美晴にとってはやりたいことがやれればそれでよかった。 「もう少し角度戻して」 左手を回して慶介の背を前に押す。 「こんなかんじ?」 「そうそう」 ようやくチョコレートペンの先を慶介の肌に置いた。とたんに甘いにおいが二人の隙間を埋める。薄ピンクはやはり発色が良い。 ペンの出具合を確認するために、美晴は彼の胸の下で線を垂直平行に四本引いた。書くことが面白くなって、そのままゲームのように○×を書き加えれば、すぐそばで人間キャンバスの声がした。 「なんだよ、これ」 描いている内容が不満だったようだ。そもそも、美晴がなぜ突然チョコレートで慶介の身体をデコレーションしたいと思ったのか気づいていないのだ。これは、別にプレイの一環として考えついたことではない。 「ちゃんと書くから、じっとしてろよ」 伝えたいことをかたちにする方法を考えた結果だ。美晴は彼の胸下からみぞおち周辺に文字を書く。生身のキャンバスは動いているから、文字が少しぶれた。破裂音の『ッ』は、書きにくいので大きくした。 美晴が身体を起こすまで沈黙は続く。半分慶介の肌であることを忘れるくらい集中して、顔を上げる。カタカナにして正解だった、と、出来上がりを見て美晴は満足した。慶介も、彼の書く様子に終始息をつめて見下ろしていた。出来上がりの文字を見てから、美晴を見る。 「あ、……ありがとう」 慶介はいろいろな感情をない交ぜにして答えた。そこから、少しずつ嬉しいという表情があらわれてくる。美晴は、うん、と、頷いて、最後に引いた線の端に小指で触れる。薄ピンクのチョコレートを少しすくった。 ハッピーバースデー、と、一言で想いを書いた。 すでに、慶介の誕生日は終わっている。公でも皆で当日は十分すぎると言えるほど祝っていたのだが、……今回は、それきりで終わらせることへの引っかかりが美晴の胸中に存在していた。 そして、ある日たまたま入ったスーパーで、デコレーション用のチョコレートペンが目に飛び込んできたのだ。そのときは購入しなかったが、数日後に試したくてたまらなくなった。そして購入した。 美晴は小指を口に含む。想像どおりの甘さだ。反る体勢から戻った慶介が、至近距離でそれを見ている。キスしてきそうだ、と、思って小指を離せば、案の定彼がくちびるを乗せてきた。一瞬間だけ、触れるだけのキスを受け入れて首を引く。 「それ、服にくっつけんなよ」 書いた本人が、今度は胸元の文字を盾にした。 「じゃあ、おまえも脱げよ」 「舐めろって言いやいいのに」 「あ!」 しまった! という、慶介の表情に美晴は呆れながら彼にペンを渡した。中身はまだ少し残っているはずだ。 「もう舐めろって言うなよ」 「脱げよ、もう」 美晴の応酬に、今夜の重大な失敗を後悔する表情で慶介がぼやく。言われなくても服は脱ぐつもりだ。 彼から身を離して袖を抜いていると、腹のチョコをなめたのか「これ、すげー甘い」という声が聞こえてきた。 チョコレートのペンを持ち込んだゆえに起こるプレイについて、ある程度覚悟はしていたが、実際に期待を裏切らない結果となった。することを済ませた後は、問答無用でバスルームへ直行した。 美晴は慶介から先にシャワーを使う権利を奪って洗い流すと、先に湿気の籠もる場を離れる。ホテルがあつらえたものを着てドアを開ければ、散々肢体にまとわりついていた甘ったるいにおいが室内に残っていた。情事のあとというより、明らかに子どものイタズラ後のようなベッドの状態に嘆息しつつ、可能なかぎりべたべたするシーツ類をどかす。 かすかに聞こえるシャワーの音を背に落ち着けるスペースを確保すると、服やハサミを拾ってソファに避ける。もう一度ベッド下を見れば、ちいさな紙が転がっていることに気がついた。 美晴は暇のひとつとして、紙を拾いベッドへ腰を下ろす。広げれば、チョコペンを買ったときのレシートだ。眺めながら寝ころんだ。108円。 「ほんっと、安上がりだなー」 言葉にすれば、妙におかしくなる。バスルームからようやくでてきた慶介を招いて紙を渡した。そして、嬉しいようないたずらっぽいような表情で、おまえってほんっと安上がりでいいなあ、と、美晴はもう一度同じ台詞を口にした。
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