* 触れておちるよ * |
水面に月の手向ける光が揺れている。一条に届けられた白い輝きは、漆黒に染まる風景にも色があることを教えていた。太陽が昇れば幾重にも乱反射して、生きるすべてに色彩を与える。 「フェリーの上だと、きれいだよなー」 感嘆するように掲げていたスマートフォンを下ろした早永が、隣にいた西園寺へ言葉を発した。日暮れすぎに出向したフェリーは凪の海面を北に進む。 はじめてフェリーで遠出する西園寺には、すべてが新鮮だ。誘ってくれた早永は中学校で親しくなり高校で一度疎遠になっていたが、バイクという共通の趣味をもったことで成人してからちょくちょく遊ぶようになった。一緒にいるときの内容は、もっぱらツーリングだ。高校時から二輪に目覚めていた早永にはすでにバイク仲間が多くいて旅慣れもしていた。フェリーを使って連休中に東北をめぐるという発想は、西園寺一人では想像もつかない。 今回の旅は、バイク仲間二人と東北ツーリングの計画を立てている、と三ヶ月ほど前に早永が話し、一緒にどう? と、誘ってくれたものだ。西園寺は快くその輪に加わった。最近、早永と一緒にいる以上に楽しいことは見当たらない。 デッキには西園寺と早永しかいない。残りの二人はフェリーの内部で居場所をつくり、すでに酒を飲みはじめている。西園寺も残りのメンバーから渡されたビール缶を開けようとしていたのだが、それよりはやく早永が窓の外の白い月を見つけて手を止めさせたのだ。二人で外に出ると、塩気をはらむ風は少し肌寒く感じた。ライダースウェアを脱いだせいもあるだろう。 「ほんと、月しかないなー」 しみじみと眺める早永の感想に、西園寺も頷く。 フェリーを取り巻く光は月一点しかなかった。空に浮かぶその月齢は、少し上向きに欠けている。フェリーは動いているはずだが、その輝く配置は変わらない。 早永は前にある手すりに指をからませて重心を預けた。少し伸びをする彼を横目に、西園寺はスマートフォンを下ろす。 珍しく早永につられて同じ写真を撮ってしまった。アングルはまったく同じだが、撮っておきたいと思わせる月の色があったのだ。それは、太陽と違う衛星の輝きだ。もとから月は地球の一番近くにいる。みずから輝くことはないが、二人の見える位置の月は真っ白だった。 早永は空を見上げるのが好きなようだ。それが西園寺の憶測でしかないのは、彼に「空が好きなのか」と訊いたことがないせいだ。中学からよく知る早永だが、最近はこうしたささやかなことも目に付くようになった。それまで、気にとめてなかった早永のことが気にかかる。無意識に変わってきた自分の心境の変化へ理由をつけようにも、そうすることによってどんな意味が得られるのか見いだせず、疑問は気のせいとして処理してきた。 「外の風も気持ちいいなあ。ちょっと涼しいけどさ」 早永が腰を屈め、手すりに乗せた手の甲へ頬を近づける。煙草を吸うには少し強い風だ。北上しているから風は、冷気をまとっているのだろうか。西園寺はスマートフォンをしまって、手すりに身を寄せた。下を見れば、黒い海面に黒い波が当たって動いている。キラキラとしぶきが一瞬だけ白く見えるのは、頭上に注ぐ月光が当たるからだ。 「もう、戻る?」 唐突な問いかけに、西園寺は隣にいる彼を見下ろした。手の甲をクッションにして手すりへ頬を寄せた早永の表情は、隣にいる西園寺の位置から察することができない。でも、心地良さそうに風を受け止めている。 ここに来てまだ五分くらいしか経っていないのに、また中へ戻ることを提案する気のはやい早永へ、西園寺は声をかけた。 「はやすぎるだろ」 そう言って、なんとなく右手を早永の頭の上に置いた。ぴくっと彼の身体が反応したように見えたが、それよりもサラサラした髪のさわり心地がよくて、ついついそのまま撫でる。 早永は動かなかった。潜めるように息をしている。指に彼の耳が当たり、肌が熱いことに気づく。親指と残りの指で挟んで触れると、自分の指が冷えているのがよくわかる。 「お前、けっこう体温高いほう?」 彼の熱は気持ちいい。耳たぶの質感も良い。 「……そんなことないよ」 首筋を撫でると、大きく肩を揺らして、耐え切れなくなったように早永が身を起こした。西園寺も手を離す。 「もう、行こうよ」 眉を下げて言った台詞を、西園寺は制した。 「なんでだよ」 「おまえの指、冷たかったもん」 触られたことへの小さな非難のように聞こえたが、西園寺の身体を労わっているようにも聞こえた。遊びといっても、体力的にはハードなツーリングだ。体調は万全にしておかなければならない。でも、その管理くらいは西園寺もできている。 「別にそんな寒くねえよ。もう少し、いようや」 まだ二人きりでいたいという西園寺の気持ちをくみ取った早永が、うん、と素直に頷いて手すりへ再度もたれる。 西園寺と同じような姿勢で月を見るのかと思いきや、顔は西園寺に向けていた。見られていることに気づいた西園寺が、少し肩を引いて早永を見る。 「どうしたよ?」 「いや、月見てるなーって」 「月しか見るのねえし」 「じゃあ、なんで月見んの?」 謎かけのように、早永の言葉が落ちる。西園寺が彼を見れば、目元がいたずらっぽく緩んでいた。早永のこうした発言は散々聞いている。いいだろ今はそんな気分なんだよ、で、簡単に片づけることもできたが、西園寺は月を見た。 「お前、空とか月、見るの好きだろ」 「……そう? 見えた?」 思ったことを言葉にしようと、西園寺は月を見てから早永を見直した。彼は突然の回答に不思議そうな表情を浮かべている。伝えたい言葉が風に乗った。 「だから、俺もながめてれば、お前の気持ちもっとわかるかなって」 アクティブで自然が好きで、快活さと少し繊細な面を持つ早永の気持ち。そうした早永と一緒にいることが楽しくて、ずっと一緒にいられたらいいのにと思う自分の気持ち。彼の好きなものに触れれば、早永のことがより理解できるのかもしれないという、西園寺なりの考えだ。 少し安易だな、と、西園寺自身も思った。白い月はいつでも頭上にある。 彼を見なおすと、早永の顔が近づいていた。 西園寺が閉じた言葉の切れ端をすくうように、くちびるが触れた。早永は、触れるだけのキスをすぐ離した。 突然のことに、西園寺は驚いてバッと、上半身を離す。 「え、な、お前、」 目を丸くする西園寺を見た早永は、キスをした張本人に関わらず肩をすくめて苦笑すると、月を仰いだ。 「触れて落ちるもんって、なーんだ?」 新たな謎かけの答えは、軽く混乱する西園寺にはわからない。人をからかうのが好きな早永らしく、冗談半分かムードにうっかり飲まれてやってしまっただけのことなのだろう。それでも、早永の横顔にかすかな後悔が混ざっていることは、西園寺にもすぐわかった。 「なんだよ、答えは、」 ぶっきらぼうに返したくちびるに、西園寺は自分の指でそっと触れて問いかける。 くちびるの感触は一瞬だったにも関わらず、ずっと滞留しているようだ。 彼が西園寺を見つめる。 「なんだろうね」 早永のまとう月影は、船床に揺れている。 「ずるいから、秘密」 そう言って微笑んだ彼が、とても甘く印象的だった。
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