* 冬空トラップ *


 眞鍋が見つめる教室の外は、雲ひとつない蒼が続いている。窓を開けると冬の寒気に皮膚が驚くのはいつものことだが、無風のせいか肌に馴染むのも早かった。日光が逆に暑さを感じさせるかもしれない、絶好の野球日和といえる。
 始業式が終わり、担任が教卓にプリントの束を乗せて要件と雑談を入り交えて話している。進学関係の話がでてくると、ホームルームは決まっていつもより長くなる。受験シーズンの最上級生が去れば、次は真鍋たちの番だ。勉強のことを考えると、早く部活がしたいと思ってしまう。
 ……俺も現金なやつだよなあ。
 今日は終礼が終わると、日が落ちるまで部錬だ。三学期はあっという間に過ぎるものだが、ことに部活動にかぎれば、運動部によって今がちょうどシーズン中の部もあれば、大会に向けて本格的な練習がはじまる部もある。眞鍋の在する野球部は、後者の部だ。練習時間を有効に活用するため冬休み中も高校に通っていた。休みを明け、学校から見た景色ってこんなんだったっけ? と感慨に浸る生徒たちとはわけが違う。
 それでも、こんなよく晴れた空に冬休みは出会わなかったもんな、と、眞鍋は窓に目を向けたまま頬杖をついた。休みの間は寒波のおかげで風も強く、日差しもなく、立ち止まると寒さが身に染みた。もう帰りたいと思ったことは何度だってある。
 だが、この年始の部錬で心が折れそうだと思ったことには、別のことが起因していた。
 眞鍋は小さくため息をつくと、斜め前にピントをあわせた。
 担任が最前列の面々にプリントを渡している。その三列目にいる、動かないクラスメイトの背。同じ野球部にいる志紀だ。
 彼の背に、年が明けてから触れていない。
 真鍋がはじめて好きになった相手だった。それが男であることにも驚き悩んだが、もっと驚いたのは志紀が男に愛されることに抵抗がなかったという点だ。それ以前に彼はとてもドライなところがあって、人間そのものを生物学的に対処しているところがあった。つまり、情緒に欠けている。男と女というくくりは、志紀にとっては完全にどうでいいことらしい。
 変わったやつだ、と、部活が一緒になったときから思っていた。でも、彼のピッチャーとしてのフォームや野球にたいする姿勢は素晴らしかった。綺麗な球で綺麗な試合をする。勝ち負けよりも美しさを求める彼のせいでチームが負けてしまうことはたびたびあったが、それでも真鍋は彼の理念を真鍋は気に入ってしまった。そして、愛してしまった。
 肌をじかに触れることを許される関係になれてから、志紀には一度も拒絶されたことがない。呆れられたり見下されたりするのは日常茶飯事だが、眞鍋を抱かれることにたいして抵抗はないことくらいは知っていた。
 そして、年始になってから避けられているわけでもないことも、わかっている。
 わかっているのだが、新しい年になって一層淡白に扱われている気がしてならない。眞鍋がつくろうとする接点を、ことごとく志紀はおざなりにしてくれたのだ。
 会うのは当然のように部活動中だけ、会話も深入りできるような内容には至らず、誘いは「また今度な」、もしくは「余裕がない」という感じで後回しにされている。ただ、その理由も眞鍋はよく知っていた。年始になってから、志紀がキャッチャーとの間でまた余裕を失くしているのだ。野球を第一に生活している志紀にとって、野球がらみのことで問題や悩みがあれば、眞鍋のことなど即後回しになるのは決まっているし、眞鍋は恋人以前に野球をする上のメンバーなのだろう。今まさに、そんな扱われ方になっているのだ。
 志紀はそれを無意識下でやってのけるのだから、不安になるのは相手ばかりで、志紀自身はそ知らぬ顔をしている。おそらく眞鍋との関係よりも、キャッチャーとの信頼関係構築のほうが大切なのかもしれない。実際、野球部員として考えれば、ピッチャーとキャッチャーの関係がうまくいくことは最も重要だ。うまく連携できなければ、ゲームが成り立たない。
 眞鍋も、さすがにそうした志紀の立場や性格を理解していた。だから、志紀が向き合う時間をつくってくれるまで辛抱強く待てばいい。しかし、理性で思っていても、真鍋には我慢できなかったのだ。
 不満をつい言葉にしてしまっていたのは、一昨日のこと。それが、自分の誕生日でなければ言わずに済んだのかもしれないと思う節もある。
『俺のこと、マジで好きなんだよな?』
 本当は、訊くつもりなど微塵もなかった。偶然二人きりになった部室で、うっかり口を滑らせてしまっただけだ。
 真鍋の問いに、志紀は顔をあげ眉を寄せた。部活前になに言ってんだ、という呆れがまじった表情に、真鍋は後悔して逃げるようにその場を後にした。そして、性格的に志紀が眞鍋の後を追うということは決してなく、結局後味の悪い誕生日を自ら演出してしまった。
 志紀の口から、好きだとかそういった言葉を一度も聞いたことがない。だからといって、そんな言葉をどうしても聞きたいわけではない。眞鍋は志紀を好きになった時点で、そういった睦言は諦めていたのだ。
 ……それでもさ、どこかで聞いてみたいと思う気持ちがあったんだな、俺も。
 やってきたプリントの残りを後ろの生徒に回しながら真鍋は思った。志紀の背は動かない。
 あの日、志紀は返答することもなく、マネージャーの「眞鍋って、今日誕生日だよね」という言葉を聞いたはずなのに、オメデトウも言われることもなかった。逆に訊いてしまった眞鍋ばかりが、いつまでも志紀の動向を意識している。
 ……ヤるこたヤッてるとしても、これって恋愛っていえるのかなあ。そもそも志紀って本当にレンアイの意味わかってんのか?
 ネガティヴな思考を並べはじめてため息をつくと、チャイムが鳴った。我にかえったように真鍋が窓を見れば、変わらずの蒼で鮮やかに染まっていた。




「眞鍋」
 名を呼ばれたのは、今日で二度目だ。
 無風状態は相変わらず、グラウンドに赴けば絶好の野球日和であることは確実だった。これからはじまる部活動は快適な中で行なわれるのだろう。
 その前に、制服のままグローブを持っている状況を、眞鍋はいまだよく理解できていなかった。
 向かいに、同じくでグローブをはめている志紀がいる。彼の右手には硬球が収まっている。
「やるぞ」
 眞鍋を見据えて、志紀が問う。その距離は、まさにキャッチボールをするためにつくられたものだ。しかし、眞鍋にはなにを意味しているのか、どれだけ首をひねってもわからなかった。
 あのとき、ホームルームが終礼とともに終わり、眞鍋は進路と志紀にたいしてネガティブな思考を抱えたまま、机の上を片付けていた。
 周囲の雰囲気から察するに、終礼が一番早く終わったのは自分たちのクラスだったようだ。部活がはじまるまで時間はあるため、気晴らしに菓子袋を取り出して開けた。部活は昼食をはさんで行なわれるから、今のうちにエネルギーを補給しておいたほうがいい。お菓子の匂いを嗅ぎつけたのか、仲の良いクラスメイトが眞鍋の席にやってきて、お菓子をトレードしようと新作のお菓子を見せてきたのに眞鍋も喜んで飛びついたのだ。進路のことや部活についての雑談をして、少しは気持ちも晴れた。
 そうした中で、志紀が真鍋の席にやってきたわけだ。
 眞鍋は席にきた志紀に、まず驚いた。同じクラスでも、基本的に学内ではつるまない仲だ。すぐ、部活の伝令でもあったのか、と眞鍋は思い直したが、「ちょっと来い」と、志紀は言うだけで促された。その場で用件を言わない珍しい様子から、どうやら野球のことではないような気がして雑談を中断し、その後姿について行ったのである。
 そして、これが今の状況だ。
 グラウンドまで連れて来られて、グローブを渡され、まるで野球の話がはじまるかのようだが、それにしてはあまりに中途半端だ。グラウンドにでている人間はほとんどいない。窓から、酔狂な二人が見えていることだろう。
「なにやんの?」
 キツイ返答を覚悟して、眞鍋は志紀に訊き返した。
 志紀は、黙ったまま右手に持ったボールに見つめ、意を決したように眞鍋に向けて差し出した。
「これは、オレの気持ちだ」
 はっきりと、その声が響いた。眞鍋は予想だにしていない展開に、首をかしげる。すると志紀はもう一度、ゆっくり言葉をつくった。
「このボールが、オレの気持ち全部だ」
 表情を今まで変えることのなかった志紀が、言い終えた拍子に微笑んだ。眞鍋の身体に触れられるときに浮かべる表情であると、眞鍋はすぐに気がつく。
 もしかして今、とてつもないことを言われているのではないだろうか。眞鍋は志紀を凝視した。
「受け取れよ。落としたら無効だからな」
 続けて言う志紀が、少しだけ意地の悪い顔になる。そしてボールを投げる構えをすると、眞鍋は慌てて受け取る体勢をとった。
 ついで、訊いてしまった。
「と、取れたら?」
 ボール=オレの眞鍋に対する気持ちだから受け取れ、と言っているのに、取れたらなにかしてくれるのか。そんな欲張りなニュアンスを込めてしまったことに気づいて、眞鍋は慌ててフォローしようと口を開く。しかし、志紀のほうが早かった。
「じゃあ、おまえの欲しい言葉もやるよ」
 面倒くさそうな顔が、ふと、一転して面白そうな表情にくるりと変わった。
「その代わり、容赦しないからな」
 台詞の言葉を、理解するよりも先に嬉しい気持ちが込み上げてくる。ネガティブな思考に浸る必要などなかった。
 志紀は、眞鍋が撒いた不安を、ちゃんと拾ってくれていたのだ。
「絶対に、取るぜ!」
 俄然やる気を出した眞鍋に向けて投げられたボールは、太陽の光を浴びて突き進む。
 自分にたいする志紀の想いが手中に収まる悦びを描いて、眞鍋はグローブを伸ばした。




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