* 晩夏の音 *


 昨夜よりわずかに太陽が遅れた夜空を見上げる。
 ……九月をはじめた夏は、なぜこんなにも足早に去るだろう。
 人気のない道を踏みしめて、敦洋は思った。遠ざかるまばゆい光は、24時間絶え間なく人を受け入れている店からのもので、人工の光は夜の闇に影さえもつくる。コンビニエンスストアという処は、地上の星のようなものかもしれない。燃え尽きてしまえば、その光を降ろす。人の命も想いも同じようなものだ。
 ネガティブなことを考え続けるのはあまり好きではないが、今の敦洋に灯りを失うような考えしか思い浮かばなかった。夜明け前の閑散とした帰り道は、自宅への道筋ではない。先ほど出向いたコンビニエンスストアまでの道も親しみはもてないが、目的地までの道のりは身体が覚えているのだから、慣れてはいるのかもしれない。けれど、いつ見ても落ち着かない道筋だと思う。……それは、慣れたくはないからだということに、彼自身も気づいていた。
 遠くはない道程を早く歩けばいいのか、それとも遅く歩いて時間を稼げばいいのか悩みながら、今一瞬は彼のことを忘れようとしていた。おそらく敦洋が手を離してしまえば、彼を繋ぎとめている関係性はすぐに途絶えて、何事もなかったかのように他人となってしまうのだろう。
 他人。その響きは、今の関係性を明確に浮き立たせる。少しせつなくなった。
 スタート地点に立ち戻って、キィを差し込む。そっとまわすと自分の家のドアよりも重い音がカチンと響く。勝手に鍵を借りて、勝手に出て行ってまた中に入るこの関係性は、友人でも使えるだろうかと、誰に使うわけでもない言い訳を考える。
 人の家は光がないと感覚がつかめない無法地帯だ。電気をつけないで沈む世界は、家主の時が止まっているためか地底湖のように静かだった。これから太陽が目を覚ますのも当分先のことになる。
 テーブルに買ったものを置くと、瓶と瓶がぶつかる音がした。部屋には煙草の匂いと、その中に埋もれる家主の匂い。身体に馴染んでいなければわからない些細な匂いだ。そう思うと、なんともいえない気持ちになる。
 夜目が利いてくるとともに浮かび上がる雑貨たちをみれば、心の隙間を埋めるようにいろんなものが飾られている。彼が男のわりにこまごましたものが好きなのは知っている。以前ホテルに行ったときに、殺風景なところは居心地が悪いと言っていた。
 寝室へ彼の様子を見にいこうと、勝手に拝借していた鍵をテーブルに置く。
 すると、ジーパンの右裾が引っ張られたように感じた。想像もしていなかった感覚に敦洋は右足を持ち上げれば、錘がついているように何かが袖を引っ張っぱっている。錘が触れて質感で、人の手だと気がついた。
 誰だ、なんていわなくてもわかっている。何をやってんだ、と呆れて諫めるような関係はとっくに終わっていた。敦洋は何もいわずしゃがみこんで、右の足裾にすがる手を掴んだ。途端にその手は力をなくす。テーブルの下を覗き込むと、タオルケットの淡い色ばかりが闇夜に映えた。よくこんなテーブルの下にコンパクトにおさまることができるなと感心していると、すぐ傍にあった彼の髪が揺れた。
 細い首を晒して、瑞貴が敦洋を見上げていた。
「なに買いにいってたんだよ」
 少し嗄れた声が、思いのほかはっきりと部屋の中に響いた。敦洋に掴まれた腕が、囚人のようにだらりと下がっている。その色白さが彼の存在を際立たせていた。
「喉、」
 敦洋が発した言葉に、瑞貴はつぶらという表現が似合う眼をしばたたせた。
「ちょっと疲れてるだろ。だからドリンク剤」
 眉間に皺が寄ったのが暗闇からでも見えた。そんなやさしさなどいらないといいたいのか、疲れさせたのはどこのどいつだとでも言いたいのかもしれない。それでも、瑞貴はもう片方の手を伸ばして敦洋の服を掴もうとした。テーブルの下から抜け出したいのだと察すると、敦洋はその手も掴んで身を引いた。
「ほら」
 引っ張るとスムーズに肢体が姿を現した。包まっているタオルケットが滑りをよくしたのだろう。手を離すと、自力で身を立て直す。落ちたタオルケットから裸体が見えた。あまりにも見慣れた身体だ。
 テーブルに置かれたビニール袋をがさごそと漁って、瑞貴は無防備な姿でドリンク剤を手にとる。そのまま表示箇所をくるくるとまわして探すのに気づいて、敦洋はポケットからスマートフォンを取り出した。瑞貴は無表情で受け取ると、人工のちいさな明かりを灯す。後ろから見ると、それが何かに一所懸命な子どものように見えた。
「カフェインはいってるやつじゃ、眠くなくなるし」
 パチンと光を閉ざして瑞貴は、不満そうに携帯電話を置いた。わざわざそんなことを気にして買うかと敦洋が呆れていると、文句を言ったわりに蓋を開けて瑞貴は液体を飲み干す。
 敦洋は立ち上がって、テーブルに置かれたスマートフォンを拾う。時計を見ると、あと一時間もすればこの部屋にも光が射すだろうと予測できた。朝までこの部屋に居た試しはほとんどない。いつも通りのつむじを真上から眺めて足を踏み出すと、仰け反るように瑞貴が敦洋の顔を探した。
「始発で帰んの?」
「帰るよ」
 敦洋が大人しく帰ろうとしていることに気づいたのだろう。瑞貴はすぐ瓶を置いた。
「駅まで送ってく」
 このままいつものように、そっと部屋を去ってフェイドアウトするものだと思っていた敦洋は、その言葉を受け取るのに少しだけ時間がかかった。瑞貴がタオルケットをひきずりながら立ち上がるのを見てようやく、驚いたように動きを制した。
「いいよ、ゆっくり休んでろ」
 力みすぎて嫌そうな口調になってしまったかもしれない。痩せているせいか自分よりちいさく見える瑞貴が、不安気な表情を浮かべて存在をさらに幼く見せた。
「行くから、待ってろよ」
 返された言葉に送ることを決心させたのだろう。揺るがない瑞貴の声に、敦洋は失敗したかもしれないと思った。
 さっき瑞貴が憎まれ口を叩いたように、都合のあったときだけ会って、抱き合って、瑞貴が寝ているうちにそっと帰るというこれまでのプロセスから、今は完全にはみ出ている。もしかしたら、あの憎まれ口も送っていくという発言も、イレギュラーである今という刻に、瑞貴自身も戸惑っているのかもしれないと思った。けれど、軌道修正なんて今更できるわけがない。
 彼に焦点を合わすと、タオルケットを引きずって足早に部屋を出ようするのが見えた。待ってるから無理に急ぐな……というよりも早く、瑞貴はつんのめってバランスを崩す。とっさに敦洋は瑞貴を引き寄せた。彼は、「うわっ」と驚いたようにちいさく叫び、身体をふるわせる。
 身を寄せて、敦洋ははじめて彼の裸がひどく冷えていたことに気がついた。
「おまえ、シャワー、」
 浴びてないだろと、腹や胸を触りながら確信する。ため息と一緒に落とされた言葉に、瑞貴は自分を支える気を失わせたようだった。唐突に重くなった身体を、仕方なく抱えてゆっくり腰をおろす。先刻重ねた情痕が、洗い流していないために肌に残っていて、その肌触りは少し異様だった。そうして黙ったままの瑞貴を手放そうとした手は、濡れた腿に気がついた。途端に瑞貴の腿に力がはいった。
「……おまえ、」
 色気のない小競り合いが続いて、結局敦洋は瑞貴の片腿を持ち上げることに成功した。
 ぬめりとしたものが敦洋の手にも伝う。その生温かさに、穿った時間感覚が狂っていくような気がした。
 同性の身体の仕組みなぞ、他人のもので探らなくてもわかっている。他人の濁った体液を吸収できるような、そんな機能はついていない。
 今まで、ここまでの始末を考えずに彼を置いて帰っていた。けれど、いつも自分の帰った後、瑞貴はどうしていたのだろう。敦洋は、はじめて考えもしなかったことに気がついた。
 自分のいなくなった後の夜の続きを、どのように彼は送っていたのだろう。
「腹、壊すだろ」
 内の混乱を沈めるように、瑞貴へと向けた言葉は脳裏に反してそっけなく響いた。脚の付け根に指を這わすと、何かを知っている身体は恥じらうように震える。
「うるさい」
 喉をひくつかせてでてきた言葉とともに、瑞貴は身をよじる。
 けれど、敦洋が蜜の在りかに滑り込むと抵抗をやめた。その代わりに、残りの液体を掻きだすまでの間、敦洋の腕を痕ができるほど強く掴んでいた。我慢しようとする仕草だと思った以上に、俯いた顔がどんな表情をしているのか、そればかりが気になった。
 なぜ、重力さえも敵に回してこんなものを体内におさめていたのだろう。何を考えて、この関係を続けているのだろう。……そして、どうしてテーブルの下なんかに隠れていたのだろう。瑞貴も自分が去った後、寂しくて仕方なかったのだろうかと、ぼんやりそんなことが頭に浮かんだ。
 自分が置き去りにした夜は、ずっと寂しさに耐えていたのだろうか。
 そう思うと唐突に顔が見たくなって、そっと頬に触れた。視界の先には投げやりになった脚が見える。
 それは何にたいしての諦めなのだろうと、敦洋はたまらず名前を呼んだ。
「瑞貴」
 その熱の冷めた手は、無気力に拒むのかという思惑を越して、ゆっくり敦洋の手を探した。指が絡む。
 もう一度名前を呼ぶと、瑞貴が身をずらしてちらりと顔を見せた。
「敦洋」
 ちいさな声は、何かを失う不安をもった瞳をしていた。何かを乞うような声に、必要としてくれているのかもしれないと、くちびるを寄せる。ついばむようなキスはじきに喉を鳴らせて体勢を変えた。床の冷たさに肢体を晒したくはなくて、瑞貴の腰を持ち上げる。彼も察したとおりに膝を起こして器用に身体を反転させた。キスはドリンク剤の独特な味がした。
 くちびるの寄せ方は受け入れても、離すと所在ないように敦洋の肩に指が食い込んでいる。不安そうに見つめる瞳。細すぎた身体は、頼りないと思えるほど痩せていただろうかと目元を指でなぞる。
 太陽はじきに目を覚ます。プロセスから外れてしまった時間を、瑞貴はどんな想いで見つめているのだろう。痩せた身体にたくさんの感情を詰めて。
 ……ずっと、俺を必要としてくれていたのだろうか。
 伏せた睫毛が微かに湿っているような気がしてくちづけると、強張っていた指は敦洋の肩から外れた。闇夜でなくても許された時間が、互いの中にはあったのかもしれない。それはどんな色で、どんな言葉の響きかはわからない。お互い、わかることに躊躇っているのかもしれない。
 腕が肩を越えて巻きつく。瑞貴から寄せたくちびるは温かかった。まだ少しだけ、慣れない味がして離れた瞬間につぶやいた。
「まずい」
 予想もしていなかった言葉だったのか、瑞貴は一瞬きょとんとした。そうして、ちいさく笑った。
 肌に馴染みはじめた手を引き抜き、敦洋のシャツのボタンをプチプチと外す。
 脱がせながら「もういっかいしよ」とささやいたのに、敦洋は慈しむようにくちづけた。




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