* 夢椿 *


 迫り上がるような喉の痛みに耐え切れず、瑛都は目を覚ました。自分でも痛々しいと思うほど激しく咳き込み、カーテンからこぼれる日差しが瞳に刺さる。ここがどこだかわからなくなるほど引きずられた頭と心を取り戻し、苦くむせる衝動が治まって荒く息継げば、もうそれだけで疲れ果てた気分になった。
 汗ばんだ肢体。異様に速い鼓動。まるでひどく悪い夢を見たかのようだ。
 ……間違いなく、悪夢だ。
 言葉にすると、大きな寒気を感じて瑛都は背中をふるわせた。これで何回目だろう。肉体を穿たれる痛烈な快楽と、痕を残すほど爪を立てた皮膚の厚みを感じたのは。溶ける粘膜。熱がしなやか落ちていく感覚にしがみついて、喘ぐ声。
 男の腕が、女のように感じている瑛都を抱いていた。
 いくら見ても信じられず、夢の記憶を払いのけようと布団をかぶってうずくまる。埋め込まれて愛されたいという想いを男相手にひたすら注ぐ行為など、間違いなく悪夢だ。そういう趣味はないのに、セックスの質感はリアルで瑛都の心を震撼させる。
 ……夢の中で俺が女だったらまだ受け入れられるのに。
 そう思ったが、自分が女だったとしても心境は変わらない。そもそもセックスの相手に問題があるのだ。
 なぜ彼なのか。
 どれだけ考えても答えが出ない。しかも、夢に出てきた友人とは今日会うのだ。
 在籍している大学は、土曜日のほとんどが休講になるが、瑛都の所属するサークルの集まりは気まぐれに部屋を開ける。今日の集まりは11時。夕方からはバイトだ。
 でも、瑛都の身体は外へ出る気力を失って動けない。サークルに行けば、彼に会うことになる。彼とセックスする夢を見た日に、現実の彼と顔をあわせるほど後ろめたいものはない。
 なぜこんな夢を見るのか、自分でも判断がつかず二ヶ月は経つ。
 微塵にも想っていない感情が、なぜ夢の中にだけ恐ろしいほど溢れているのか。しかも、夢の中の自分は幸せそうなのだ。リアルな感触で見せられると、現実と夢の自分が全く違う存在にすら思えてしまう。
 ……何度でも繰り返してやる。これは、俺の感情じゃない。
 強く訴えて忘れるしかなかった。しかし、それにはいつも時間が必要で、仕方なく今回もスマートフォンに頼るしかない。ようやくゆっくり呼吸できるようになった瑛都は、床に置かれていたスマートフォンを手に取った。AM9:00。一つ上の先輩である秀文に遅れる旨を連絡した。


 夢は、発作だ。


   寝不足だ、と会うたびに繰り返す一つ後輩の男を、秀文は静かな眼で見つめていた。
 ワンダーフォーゲルの次々回予定の日程と行き先を決めている間、半分以上目蓋を閉じていた瑛都を非難するつもりは毛頭ないが、ミーティングが終わってからも行き場がないように椅子に座ったまま動かない姿は不審だ。
 今日は花好きな副部長が、唐突にトレッキング会を開くと言い出してサークル室を空けた。サークルメンバーはそれなりにいるが、花の盛りに合わせて予定を調節するほど酔狂な人間は少なく、今回の参加メンバーは数人だ。その中で瑛都は、参加を選びながら遅刻してきて寝ていたのである。やる気があるのかどうかわからない。もう一人の参加メンバーに至っては、友達の付き合いで朝まで飲んでる予定だけどがんばって起きて顔くらいは出す、と言っておきながらまだ連絡が来ない。
 毎度前途多難だ、と思いながら、秀文は開いていた地図帳に手を置き、簡素な花瓶に活けられた一輪の花を見やった。咲いているのは、副部長が山で観たいと言い出した白い花弁の植物だ。
 ふと、肘をついて瑛都が眺めているものもその花であることに気がついた。
「帰らないのか」
 部員がいなくなった部屋に声が反響する。旅にまつわる資料を二辺の壁に蓄積したサークル室は書庫のようだ。奥のロッカーには、山歩き用の道具がめいっぱい詰め込まれている。
 瑛都ははじめ秀文の台詞が自分に向けられたものだと思わなかったようだ。夢から覚めたように、視線を左右に動かしたのち、声の主を見た。
「ああ、秀さん。どうしたの?」
 まるでこちらが変な問いかけをしたような振る舞いだ。軽く伸びをして押し黙っている秀文を不審そうに見つめてくる。秀文はますます心ここにあらずの瑛都へ訊き返した。
「おまえがどうしたんだ。なにか、あったのか?」
 しかし、「えっ?」と、きょとんとした表情をされる。瑛都は深々と椅子にもたれて肩をすくめた。
「なんも、ぼーっとしてただけだし。そんな、なんかヘンだった?」
 おまえミーティング中、半分寝てただろ? 自由参加なんだから無理して来なくていいんだぞ? 
 そう言いたかったが、トレッキングのメンバーを失いたくない気持ちが勝って秀文は黙る。副部長は秀文の恋人だ。少数でも人数が集まってくれたことを副部長はとても喜んでいたのだから、それを潰すわけにはいかない。
「いや。瑛都、今回のトレッキングはその花を、見に行くんだからな」
 代わりに念押しするように答えた。瑛都はわかっているふうに頷いて、花瓶に咲く姿を見る。
「行くよ。この花の名前、なんだっけ?」
 彼の同意に秀文は少し安心して、口にする。
「夏ツバキだ」
 木に近い茶色の枝にそっと開いた白花。花瓶に挿すタイプの植物ではないが、副部長がどこかから貰ったらしい。瑞々しさがテーブルを伝って部屋に澄み渡る。この高潔な白さを散策しながら探したい、と副部長は言っていた。雨になると面倒だが、山を歩くには緑も花も美しい季節になるのは確かだ。
 花から視線を離さない瑛都が、うわごとのように呟いた。
「夢は所詮、夢だよね」
 唐突な独り言に秀文が眉を寄せれば、開け放たれたドアの向こうからバタバタと足音が聞こえてきた。男が走ってくる騒々しさだな、と秀文が出入り口へ顔を向ける。初夏になろうとする風とともに明るい印象の男が案の定やってきた。
「あーいたいたよかった。すんません! 遅れて!」
 響哉の大きな声に、瑛都がビクッと身体をふるわせたのを秀文は見逃さなかった。響哉と瑛都は同い年で仲が良い。瑛都は響哉を待っていたのかもしれないと思ったが、響哉へ視線を流さない。
「ミーティングは終わってるぞ」
 秀文の言葉に、響哉はうんうん頷きながら中へ入って来る。
「だよね。秀さん後で内容聞かせて。で、瑛都も残ってんだな。眠そうだなー、寝てたのかよ」
「うるさい」
 軽い言い草に、瑛都の視線がようやく動く。しかし、響哉の目は見ず、スマートフォンを取り出して何かをしはじめた。響哉は気にしていないようだ。お腹をさすっている。
「俺、やっぱりちょっと飯買ってくる」
 室内へ入って来たと思えば、次は食料調達を宣言する。施錠係の秀文は先を案じて尋ねた。
「ここに居つくのか?」
「んや、いても二時間くらい。俺のバイト、大学のそばじゃん。そのまま流れてくつもりだから。あっちのまかない食べてもいいんだけど、これたぶんもたねーわ。秀さんなんか買ってこようか? 瑛都もいる?」
 スマートフォンとにらめっこする瑛都は首を振った。機嫌が悪いのか、喧嘩でもしていたような雰囲気もある。様子が読めないまま秀文も答えた。
「俺もいいよ」
「はいよ。瑛都は食い気より眠気だな。じゃ、またすぐ戻ってくっから」
 あっという間に響哉がいなくなる。彼の動きはいつも目まぐるしいのだが、行動派であるおかげで活動がより面白くなっているのは違いない。副部長も響哉の参加を一番喜んでいた。
「誰のせいだよ」
 疲れきったような瑛都の嘆息を今度も聞き逃さなかった。やはり、と秀文は察する。
 ……響哉と何かあったんだな。
 それゆえの、寝不足、夢。おそらく秀文の推測は間違っていない。響哉は気づいていないままここに戻ってくるだろうが、瑛都は気まずくてもこの場から離れる気がないようだ。一人になりたくないのかもしれない。
「話なら、聞くぞ」
 一回生上の先輩でもある秀文は、とりあえず一言だけ口に出す。
 ……それで乗ってこないなら、瑛都も話したくないのか、自分で対処したいのか、そっとしておいてほしいのだろうと判断する。
 そう決めた傍で、瑛都は秀文をじっと見つめていた。表情を読めば、話したいけれど話せない、どうすればいいのかわからない、と書かれてあるようだ。相談したい気はあるらしい。秀文は仕方なく、もう一言口にする。
「寝不足は夢のせいとか」
 ハッとした顔になった。正解だったようだ。見つめていると、ようやく彼が小さく頷いた。
「秀さんだから話すんだけど。……悪夢みたいなやつ。もう十回以上同じ内容」
 戸惑いと恥ずかしさをない交ぜにして告白する。確かに成人した男子が、悪夢にうなされて悩んでいるというのは恥ずかしい話だ。しかし、秀文は冷静に受け止めた。よく悪夢にうなされていた小説家や哲学者を知っていたからだ。
「多いな。スプラッタにされるとか? ホラー的な?」
「そんなんだったら、こんな、」
「リアルなやつか。就活失敗するとか」
「それは、すげーこえーわ」
 瑛都の口元が緩む。変に緊張していたようだ。
「そんなんじゃなくて、……絶対言わないでくださいよ?」
 信頼を掲げた前置きに、「突然後輩ヅラするなよ」と答えれば、彼が苦笑した。そして頷いて話す。
「なんか、全然そういう気持ちじゃないヤツと、ずっと、いきなり、……ヤッてる夢、なんだけど。それが十回以上も、気持ち悪くて、すごいショックで」
 たどたどしい言い方に、瑛都の苦悩と動揺を感じる。しかし、秀文は特別驚きもしなかった。男であれば、アダルトな夢を見るくらい異常ではないし、知り合いの女や女友達とヤッてる夢なんて、見るときは見るものだ。少し罪悪感をもつ程度で……黙っていればバレないし、そもそも夢に罪はない。
 それよりも瑛都がそこまで潔癖で純情な男だと思わず、訊き返した。
「処女みたいなこと言うんだな」
 笑ってくれると考えたのだが、瑛都の反応は真逆だった。顔が引きつっている。処女、という言葉が胸に刺さったような感じだ。異様な変化に、秀文は首を傾げた。
 童貞じゃなかっただろう? と、野暮な確認をしようと口を開こうとすれば、地図帳の横に置いていた携帯電話が元気に鳴り響いた。きっと、今図書館で資料探しに行っている副部長からだろう。
 秀文は電話を優先した。応答すれば思ったとおり困った声で、図書館に来てほしい、というお願いが耳に届いた。すぐに立ち上がる。
「ちょっと留守していいか? 図書館に行ってくる」
「……うん」
 真剣に考え込む彼の表情に、秀文は深入りするのはやめたほうがいいかもしれないと思った。ただ、一つだけ助言はできるものがあって、外に向かう手前で振り向く。
「瑛都」
 呼びかけると彼が緩慢に視線を上げた。
「夢は、無意識の、自分の願望をあらわすらしいぞ」
 秀文はそれだけを言い残すと、後輩の顔も見ずに恋人のところへ意識を戻した。



「戻ったぞー。って、瑛都しかいなくなってるし」
 人気のない雑然としたサークル室の物と同化して、響哉の声を聞いた。
「寝てんのか」
 数秒後に響いた声は、より近くなった。ドサッという音がして隣に座ったのがわかる。目を開けるのが余計怖くなった。
「秀さんは? あのひと鍵がここの持ってんだよな」
 回答を求めない彼も、瑛都のだんまりをそろそろ不審がるだろう。しかし、瑛都は声すら発せなかった。片手で顔を押さえる。心臓の打つペースが速い。でも、さっきよりは少しマシになったのだ。
 秀文が去った後、泣きたいくらい強烈な衝動が脳天に巡って息ができなかった。切ない熱と痛む夢は現実と重なって身体をうごめていている。すべて見透かされた気がした。秀文はわかっていて、開けてはならない箱の鍵を開けたのだ。知らないほうがよかった。でも、知るまで夢を見続けたのだろう。
 瑛都は胸の内にある恐ろしい感情を思い知った。
「おまえ、マジで調子悪いのか? 熱でもあんの?」
 なにも気づいていない響哉は隣で袋を開きながら尋ねてくる。心配そうな声とともに、額に何かがあたる。ビクッと身体がふるえた。響哉の指だ。
「熱あるんじゃねえの?」
 彼に触れられていることが怖くなって、瑛都はその手を掴んだ。額から引きはがして目を開く。
 理由を探す響哉の視線を間近で感じながら、なすがままの指を見た。
 ……この手だ。
 慈しむように触る。撫でる。鼓動と愛しい想いが増す。あの夢のとおり、自分を愛してくれた大きな男の手だ。そのままの感触だ。
 夢はきっと、自分なりの砦だったのだろう。想いに気づいてはならない理由はたくさんあった。気づかないほうが幸せなことはたくさんあった。でも、瑛都は知ってしまった。
 食い入るように手を見つめる自分を、響哉が困惑して見ているのはわかっている。
 彼の熱は毒だ。手の内にあることが悲劇だ。触れれば触れるだけ辛いのに、この手を離せない。
 溢れる感情を抑え込むように目蓋を強く閉じる。彼の手を引き、支えを求めるように当惑しきった響哉の肩に頭を埋めた。
「瑛都?」
 彼が驚いたような声を降らすのも予想できていた。
 ……この、温かさ。この、におい。
 響哉への想いを否定することはできない。
 ……自分の気持ちに嘘はつけない。もう逸らせない。けど、どうすればいいんだろう。
 泣きたくなる。自分でもこの先に検討がつかない。感情は息を殺しても痛いくらい溢れてくる。
 ひとつつだけ、わかっていることがあった。
 ……もう、今までみたいな関係は続いてゆけない。
 壊れてしまうのなら、自分が壊してしまうのならば、今は彼の傍にいたい。
「おまえ、ほんとに大丈夫か?」
 心配する愛しい男が残る片手で、瑛都の背をさすりはじめる。そのやさしさに浮かれ胸は軋んで、響哉の指を強く握る。今までの距離を、関係を、崩れ失ってしまうそのすべてを想い、瑛都は彼の肩袖に涙を一粒染み込ませた。




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