* スプリングナイト *


 二十三時を過ぎた五月の風が、修太郎の素足を撫でて通り過ぎた。湯船で温めたばかりの身体でも少し涼しい。春を深めた夜は冬にまだ未練があるようだった。
 ……すぐ夏が来るのも嫌なんだけどなー。
 修太郎は夏よりも冬派だ。とはいえ、今は夏を飛び越えて冬が来てほしくもなかった。
 次の冬は、高校最後の冬になる。その頃自分がどうなっているのか、本当にやりたいことを模索している修太郎にはまだ見当がつかないのだ。
 周りの友人たちは大学受験の勉強を本格的にはじめていることも、焦りがでてくる理由のひとつだ。進路を定めていないせいで勉強に身ははいらず、修太郎はそろそろ担任に呼び出しを受けるのではないかとヒヤヒヤしていた。受験方法も多様で一般入試の他に推薦もあるし、在籍する学部の選定も大事だとわかっている。しかしその前に、まず大学へ進学するかどうかも決めかねている状態だ。ため息をつきそうになる自分を、慰めるべく暗い道を歩いた。
 先刻予習していた英文は嫌になって机に広げたままにしている。鬱積する気持ちを切り替えるべく風呂場でイライラを流し、ふと猛烈に食べたくなったのはアイスクリーム。アイスを食べればあと少しがんばるつもりだ。不思議とアイスは季節を問わず時々無性に食べたくなる。
 着替えて髪を乾かして、のんびりコンビニエンスストアへ向かっている。持ってきたお金はポケットの中にある五百円玉一枚。母親に「アイス買ってくる」と一言伝えたところで、五つ上の姉がリビングへやってきて渡してくれた。
『修ちゃん、コンビニ行くの? じゃ、シュークリームとコーヒーゼリー買ってきて! これ、おつりいらないから』
 いつも弟をこき使う千紗から憮然としたまま硬貨を受け取った修太郎は、また使いッぱしりかよ、と心の中で散々毒づいたが、よくよく考えたらお駄賃でアイスが食べられるわけだ。今はちょっと嬉しい。
 家からコンビニエンスストアまでは、五分の距離だ。携帯電話はすぐ帰宅するつもりで自宅に置きっぱなしにしている。横暴な姉を待たせるなんて、どんな仕打ちを受けるかわからないし、寝巻きにしているハーフパンツと姉からもらったTシャツという出で立ちでは長居するだけ湯冷めする。それに、明日も平日で学校があるのだ。
 ……もう木曜日っていうか、まだ木曜日っていうのか。マジでどうしよう、進路。
 この一年は本当に大事、と、大人もクラスメイトも先輩も言っている。修太郎もそう思っている。一学期中にはせめて、大学に行くか専門学校へ進むか決めなければいけない。
 大きな車道の突き当たりを曲がると、周辺で一際明るい目当ての店舗があった。駐車場には車も人影もない。店内も客が一人二人しかいないようだ。
 修太郎はコンビニエンスストアのガラスドアを開け、すぐにお使いの品を拾いに行った。シュークリームとコーヒーゼリーを片手で持って合計金額を計算しながら、本命のアイスのケースへ足を向ける。買うのはチョコレートがコーティングされたバニラアイスと決めている。ひとくちサイズで六つ入っていて、ちまちま食べるのにちょうどいい。
 しかし、外の風よりもさらに涼しいケースを前にして修太郎は顔を引きつらせた。欲しかったメーカーのアイスはあるものの、プレートに書かれている金額が予算を超えていたのだ。
 ……げ。二十三円足りてないって、マジかよ。
 わずかに超えたくらいだが、社会はシビアだ。金額がオーバーしているかぎり修太郎の食べたいものは一生買えない。
 たった二十三円。
 ……財布、持ってくればよかった! オレのバカやろう!
 心の中で己を罵倒しながら、仕方なく修太郎は予算範囲内のアイスクリームが他にあるか眼で探した。安いアイスはいくらでもあった。それでも、小分けのアイスはない。今の気分では、どうしても赤いパッケージのひとつずつつまんで食べるアイスが欲しいのだ。
 ……ねーちゃんのぶんだけ買って、うちに一旦戻ってまたコンビニ行くか。ないない。妥協する? それしかないかあ。
 突如あらわれた難問に頭を悩ませた修太郎は、ポンッと良いことを思いついた。
 ……シュークリームかコーヒーゼリー、どっちかを安いヤツに替えればイケるんじゃね?
 妙案に希望が溢れ、いそいそとデザート棚に戻る。しかし、すぐに肩を落とした。安いものはすでにすべて売り切れていた。そもそも日付が変わる前に残っているデザートなんて、だいぶかぎられている。
 期待が裏切られたショックは大きく、トボトボとアイスケースの前に戻った。欲しいものを見つめても手に入らない。軽い絶望に大きく息を吐いた。
 ……しょうがねえ、妥協するか。
「修」
 手を伸ばそうとしたところで、耳元に声が響いた。
「うわっ」
 突然の呼ばれたことに修太郎は大きくのけぞった。すぐ隣を警戒するように見る。そして、瞬く間に笑顔をつくった。
「すげーいい反応すんじゃん」
 万華鏡のように表情を変えた修太郎を見て、黒髪の男子高校生はニヤニヤ笑っている。向かいの家に住む渉だ。制服姿で通学リュックを背負っているから、予備校帰りなのは明白だ。
「渉、会いたかった!」
 修太郎は瞳をキラキラさせた。医学部志望の彼はだいぶ前から受験勉強をはじめていて、毎日帰宅が遅いことは知っていた。でも、帰宅時刻はまちまちだと彼が以前言っていたのだ。これは偶然というより奇跡に近い。
 渉のほうも、修太郎から「会いたかった」と言われてとびきりの笑顔を返した。好きな相手の前では秀才も単純だ。
「マジで? 俺も!」
 彼の性格をわかっている修太郎は、輝いた瞳のまま『好き』とまるで告白するように笑顔で続けた。
「二十三円貸して」
「……は? はああ?」
 単に会いたかったわけではない、と察した渉が気の抜けたような声を返す。そして、修太郎の持つものとアイスケースを眼に入れた。すぐにどういう事態に陥っていたのかわかったらしい。
「金足んねーの?」
「うん。二十三円だけ」
「財布は?」
「ねーちゃんの使いですぐ帰るつもりだったから、ケータイも持ってきてない」
「なるほどなー。いいぜ」
 あっさり承諾した渉は、ちょっと雑誌んとこ行って来る、と、場を離れた。
 ……よかった。渉、マジ、タイミング良い。ほんと、イイヤツ。
 ピンチを助けてくれる近所の幼馴染みに修太郎は愛情を傾けながら、欲しかったアイスを手に取った。レジカウンターにいる渉が修太郎を手で招く。彼に促されて姉の好物と五百円玉をカウンターに置く。渉は硬貨を拾う代わりに雑誌と千円札を置いた。
「残りは貸しで、あとで返すから」
「いいって、二十三円くらいおごってやる」
 修太郎の言葉をあっさり制した彼は、姉用、修太郎用、自分用に詰める袋を分けてほしいと店員にお願いする。気が利く渉は修太郎の母親にも気に入られているし、千紗とも仲が良い。一緒だった小中学校時代は気にしていなかったが、こうした細やかさは女に好かれる部分だ。
 実際にこの間、『学校で告られたことあるんだろ?』と尋ねたところ、渉は曖昧に首をかしげたのだから、少なくとも一度は告白されたことがあるのだろう。真実を答えなかったのは、大好きな修太郎にそんな話をしたくなかったからだ。
 渉は別々の高校に進学してから、修太郎に『恋愛感情として好きなんだ』と告白していた。一年前くらいの話で、互いが少しずつ疎遠になろうとしていた頃だ。進路を違えると、近所に住んでいても会う機会は減る。特に渉は小学校のときから将来医者になると言い張っていた。志望高校は医学部受験のために決めていたし、第一志望の医学部に入学できれば一人暮らしは必須だ。渉は修太郎との関係が自然消滅していくのならば、いっそきちんと想いを伝えて玉砕したほうがいいと腹をくくった……ということを、告白の後に本人から聞いている。
 修太郎は彼を受け入れて、今は恋人として付き合っている。告白されたときはものすごく悩んだが、渉ほど一緒にいて居心地がいい人間はいないし、くだらない話をして喧嘩したり笑えたりできる彼との日々は、友情・恋愛もひっくるめてかけがえないものだと思っている。付き合って何事もなく一年経ち、今は渉も心置きなく我が道をまい進している。
「そのバンドT、いいな。カッケー」
 コンビニエンスストアを出ると、彼がまじまじと寝巻きのTシャツを見て言った。千紗と渉は好きな音楽の系統が同じだ。時々、修太郎を差し置いて2人は音源の貸し借りをしている。
「ねーちゃんがくれたんだよ」
「バンドハマるとついTシャツ買っちゃう呪いにかかってるって前言ってたもんな。あー借りたDVDまだ観てねーわ」
 のろのろと歩きながら渉が深呼吸する。彼は長いこと、学校の後に予備校へ向かう生活を送っている。受験生になって勉強時間も異様に増えた。二ヶ月前、渉の家に泊まったときに『修に会いたくても、俺はこれから受験が終わるまでなるべく我慢する』、と、会う頻度を減らす宣言まで聞かされているのだ。修太郎は渉の気持ちを尊重した。『第一志望大の合格通知、修にみせるのが俺の今最大の目標』と続けて言った彼をかわいく想うと同時に、志の高さと実行力が男らしくてカッコイイとも思った。
「マジ、そっちは忙しいもんな」
 当たり前のことをつぶやくと、渉が素直にうなずく。
「うん、クソ忙しい。だから、こうやって会えるのはすっげー嬉しい」
 ゆっくり歩く彼は、五分の距離が惜しいのだろう。修太郎も歩調をあわせて気になっていたことを訊いた。
「そういや、自転車は?」
 珍しく、二人を隔てるものがないのだ。渉は自転車プラス電車通学で、バス一本で高校を行き来する修太郎とは違う。
「今日はバスだったんだよ。チャリパンクしてて」
 なるほど、と、修太郎は返した。コンビニエンスストアの目の前がバス停だ。光へ吸い寄せられるようにドアを押したのだろう。
「なあなあ、修。二十三円ぶんくれよ」
 渉がアイスをねだりはじめた。さっきまでのスマートさから甘え調子になったところを思うと、彼もだいぶ疲れているのかもしれない。
「いいよ」
 修太郎は快く答えて路肩に寄った。立ち止まってアイスの箱を開ける。備えついているプラスチックのようじ棒でまだ硬いひとつをどうにか刺して、渉の口元に近づけた。
 口を開けた彼は、気持ちよい甘さにほころんだ。
「酷使した脳に染みるわー」
 味わうようにもぐもぐしている様子を見て、修太郎も食べたくなる。甘いにおい。かわいいかたち。突き刺して口にふくむ。バニラとチョコレートが幸せを呼んだ。
「修、ほらほら上、すげー、花」
 もごもごしている修太郎に渉が上を指差す。つられて眼を上げると、ぼんぼりのようにまとまった花が若葉とともに咲いていた。薄ピンクだが桜ではない。その前に、渉は花を観賞するような男ではない。
 喉を動かして、なにロマンチックなこと言ってんだ、と答えようとした。先に、彼の顔が間近にあった。
 アイスを飲み込んだ口元に渉のくちびるがふれる。間違いなくチューだ。
「うわっ」
 軽いキスでも驚いて、アイスを抱え身を離す。渉が肩をすくめた。
「別にはじめてじゃないじゃん」
「こんなとこですんなよ!」
「誰も見てねーよ。外灯も遠いし」
 ニヤニヤしながら修太郎に身を寄せて、腰に手をまわす。
「医学部受験、大変なんだぜー。すぐ模試あるし。ちょっとくらい労ろうぜカレシを」
「自分で決めたことだろ」
「辛口コメントですなあ。こんなに好きなのに」
 眉を下げてくちびるを尖らせる彼に、修太郎も同じような表情をしてみせた。確かに渉のほうが何倍もがんばっているし、……勉強以外のことも数倍上手だ。
「……もういっこやるよ」
 ごめんとオレも好き、を同時に伝える代わりにアイスをもう一度彼に与える。嬉しそうにパクッと食べる口元を見た。
「ん、うまい。くちびるも甘かったなあ」
「それは余計だ」
 修太郎はアイスの箱を閉じてまた歩きはじめた。渉も寄り添ってついてくる。腰にまわされた腕は黙認する。
「良いにおいするな、修」
 スンスンと修太郎の髪に鼻を近づけた彼の声に、「風呂はいったから」と答える。すると「俺いつ入れるかなー」と独り言がこぼれ落ちた。風呂に入ると眠くなる渉は、帰宅してからもしっかり勉強するのだろう。大変だ、と思いながらも進路が決まっていない身分に渉が少しまぶしい。
「勉強のし過ぎで倒れんなよ」
 そう言うと、渉が目尻をゆるめて頷いた。
 修太郎の家が見えてくる。その裏手は渉の家。
 ……もう少し、一緒にいたいなー。
「なあ。もう、あと五分くらい、ダメ?」
 修太郎の心を読むように、声が響く。この時間が名残惜しいのは渉も同じだったようだ。
「千紗さんが遅いってキレたら、俺が土下座するから」
 彼の言い方に修太郎は微笑んだ。
「じゃあ、……アイス残りも一緒に食べよっか」
 承諾と提案を同時にすると、大きく頷いた渉の手に力がこもった。
 家から逸れて、小さいころによく遊んだポケットパークまで行く途中。もう一度キスをしてきた渉に修太郎は耳を引っ張って笑って見せた。 




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