* ANY HOPE *


 時間感覚を狂わせていたことに気づく瞬間は、物事に区切りがついた瞬間でもあった。
 淳史はシグナルのように点滅する機材の電量を落とし、ヘッドフォンを外して息を吐いた。この部屋から外の様子を計ることはできないが、おそらく夜は深い。
 音を生み出す場の明かりに照らされ、楽器たちは浮かび上がっていた。先ほどまで一心同体のように扱っていた代物。ギターやキーボードで一音一音を束ねて旋律をつくりだす。それらを譜面に起こすのはまだ先の話になるが、メロディーは目に見えなくとも確かなかたちがあった。
 その、かたちを手繰るのにいつも膨大な時間を消費する。気の遠くなるほど濃密でかけがえのない作業だ。このときばかりは毎度、時間の経過などに意識を向ける暇はない。そして、この度もまた、時の行方を気にすることなくその作業に没頭していた。来客の存在をすっかり忘れていたほどだ。
 現実を取り戻した淳史は、居間に置き去りにしていた人物のことを思い出した。
 夕刻前の訪問から、結局何時間経過したのだろうか。
 ようやく時計を見る気になったが、この部屋に時刻が把握できるようなアイテムは置いていない。煩わしいものは、作業部屋に置かないようにしているのだ。とはいえ、どちらにせよ顔くらいは相手に見せなければならないだろう。
 淳史は、音づくりに使うシステムの画面を消して立ち上がった。立つだけの行為は当たり前のものにも関わらず、妙に久しぶりの感覚がした。ずっと座ったままの姿勢でいたせいか、筋肉が少し軋む。無意識に凝り固まっている部分を親指で押し宥めながら、外界を遮断していたドアを開ける。
 知章には、訪問される前から作業に没頭していると伝えていた。玄関ドアを開けたときに、「待ちきれなくなったら、勝手に帰っていいから」という一言も添えている。
 彼とは学生時代からの仲で、はじめてバンドを組んだときに一緒だった相手だ。今は離れ離れのポジションでそれぞれの音を生み出しているが、年に数回会うことがあった。飲み屋で、知り合いのイベント会場で、そして此処で。明確な理由をもって彼が来ることは少ない。同じギタリストという立ち位置にいながら、知章は性格も音も独特な「静」を持ち合わせていた。淳史には生み出せない雰囲気を、はじめから持っていた。
 そんな知章だから、淳史の家に来るときは不意に連絡をしてきて、都合が合えばふらりと訪れる。彼は何時間も待たされるとわかっているときも作業用ルームのドアを叩いてこない。それは、一重に彼が没頭やすい敦史の性格をよく知っていることを意味していた。しかし、今回はいくらなんでも待たせすぎだと思った。知章も暇な人間ではない。
 廊下を歩く。淳史が先刻投げた言葉通り、勝手に帰ってしまった可能性も高かった。家全体が静かなのだ。照明がつけられている様子どころか人気も感じない。
 ……リビングに置き手紙でもありそうだな。
 そんなことを思いながら、淳史は暗闇の中で日ごろの感覚を頼りにリビングのドアを引いた。キィ、と、ちいさく軋む音が鳴る。
 部屋は、思っていたほど暗くはなかった。
 窓から月の光が洩れている。カーテンがかすかに揺れ、初夏の爽やかな風がリビングに流れ込んでいた。空気の匂いからして、外気はリビングを何巡もしているようだ。
 いつ窓を開けただろうか。淳史には、ここ数日リビングの窓を開けた記憶はない。
 小さな違和感を留め、足を踏み入れる。すると、さらに見慣れないものが眼に入ってきた。
 液晶テレビが映っているのだ。普段映画やライブ映像を観るくらいの用途でしか使われていない機器である。我が家のものでありながら、淳史は物珍しいものであるかのように流れる色彩を見つめた。今映っているのはどうやら古い映画のようだ。音はない。サイレントに設定されているせいで、映像にすぐ気づかなかったわけだ。
 しかし、テレビの向かいにあって淳史から背を向けているソファに人がいる様子はなかった。知章は本当に帰ってしまったのかもしれないが、そう思うには難のある材料ばかりがそこここに転がっていた。
 ……それにアイツは、こんなやりっぱなしで帰る性格じゃない。
 そう思った淳史は、ソファに近づいた。
 途端に、静かな映画を映していた画面が鮮やかな色に姿を変えた。CMに切り替わったのだ。ということは、民放が流している映画ということなのだろう。淳史はその拍子に時間の行方を思い出して壁のクロックを見る。薄暗がりに終電を過ぎた時刻が示されていた。
 画面は再度時間をかけて、映画が生み出す静けさを取り戻していく。液晶テレビとソファを挟んで鎮座する低い黒テーブルには、テレビのリモコンの他にコーヒーカップと、まだ中身の入ったステンレスのポットがちいさくまとまっていた。やはり置き手紙の類は見当たらない。
 そんなものは、見当たらなくて当然だった。
 代わりに、本人が眠っていた。
 ソファへ回り込まなければ、この存在に気づかない。知章はソファにもたれていた。
 それも、ソファに座っているのではなく、敷いてあるカーペットに腰をつけてソファに寄りかかり、右手を枕にして顔を伏せている。
 テーブルとソファに挟まれ窮屈そうだ。淳史の足音にも気づかない。待ちくたびれた挙句、熟睡してしまったのかもしれない。地べたがフローリングではなく、触り心地の良い敷物だったから、彼はこのような体勢を選んだのか。
 それにしても、なんとも無防備な姿だ。
 ……久しぶりに、知章の寝姿を見たな。
 こんな姿を眼にしたのは、いつ以来だろう。
 つけっ放しのテレビは、暇つぶしの一環に違いない。しかし、映画を観ていたというよりは、起きている間に、観ていたチャンネルがいつのまにか映画を上映するようになっただけにも見える。つまり、テレビ鑑賞を通り越して熟睡できるほどの時間を一人で待たせてしまったということだ。
 いっそソファで横になって寝れば楽だろうに、と、淳史は思ったものの、待たせてしまっていた自分がそう言える立場にいないと思いなおした。食い物どころか飲み物もあまり備えていない家だが、彼は勝手にキッチンに入って、淳史が所在すら正確に思い出せないものたちを集め、テレビのお供にと用意したのだろう。テーブル上にある、コーヒーらしきものは明らかに冷めている。
 カーテンがそろりと動いた。月光と影が輪郭の脆い模様を描く。テレビの配色以外は、光の濃淡で構成され、美しくありながら誰を拒むことはない。何の変哲もない夜半を穏やかに彩っている。
 とても、静かな夜だ。
 それは眠る来訪者がつくる音に似ていた。豊満な夜の色彩だった。
 時を止めた映画のワンカットに招待されたような気分だ。静謐がわずかな風に乗って、ゆっくりと浸透している。耳を澄ませば寝息が聞こえそうだ。知章の肩が呼吸にあわせて小さく動く。テレビの映像が、その姿を昼の空の色でひと時明るく染めた。光を強めた液晶の画面は、郷愁を誘う枯れた景色と歩く子どもたちを映している。
 やがてその空も、星の降る夜に変わる。今、淳史が佇んでいる闇夜のように変わるのだ。
 懐かしい感覚は追憶を辿り、学生時代にタイムスリップしていた。夢ばかりを描いていた頃、深夜に騒ぎ疲れて寝静まったような甘い闇。二人でギターも練習をたくさんした。同じように、たくさん映画も観た。
 彼はその名残を、ずっと雰囲気に留めている。ノスタルジーを誰にも共感できるような音にして、静かにやさしく空間を支配する。あくまで自然に、意識すらせずに……彼が創る空間を受け取った人間たちへ、それぞれの原風景を拾って見せてくれるのだ。知章は才能のある人間だった。それは、淳史の手では到底創り得ないような世界の仕組みで、だからこそ彼を敬愛し、心のどこかで敬遠していた。
 唐突に、窓の外から遠く、クラクションの音が届く。淳史は自分が立ち尽くしていたことに気づいた。変わらず彼は眠りの中にいる。
 不思議な感覚を引きずりながら、淳史は現実問題として、知章を起こすべきかどうかを考えることにした。
 本人は車を近くのパーキングに停めていると言っていたのだから、時間に左右されず帰宅できるだろう。しかし、気持ちよさそうに眠る彼を起こして、帰宅を促すというのは身勝手な気もした。わざわざ来て長いこと待っていてくれたのだから、会話くらいは交わすべきだ。
 穏やかに眠っている知章を見下ろしながら、淳史は悩んだ挙句起こすことに決めた。名を呼ぼうと思いつつも、起こすことへの迷いを残して、敷物に足を踏み入れる。起こすこと自体は、とても簡単なことであるのにも関わらず、どうにも気恥ずかしさと躊躇いを呼ぶのか。
 この世界には、二人しかいないというのに。
 躊躇は、すぐに引き裂かれた。ヴー、ヴー、と、鳴り出した音に淳史は気づき、ひととき耳と眼で居所を捜す。淳史は自身の携帯電話をリビングに置いていた記憶はなかった。知章のすぐ近くから聴こえているということは、彼の携帯電話が着信を伝えているのだろう。
 知章を起こす明確な理由に後押しされ、淳史は彼の傍に緩く腰を曲げると肩に手を置いた。同時に、携帯電話が事切れた。彼の体温は初夏の大気を吸って、淳史よりも少しだけ低い。
「おい、トモ、」
 軽くゆする。すると、知章はすぐに反応を見せた。ちいさく唸って、うつ伏せていた顔を淳史のほうに向ける。
 ずっと利き手を枕にしているのに、しびれてはいないのだろうか。テレビが宿す光で、彼の表情が明確に映えている。
 昔数えようもないほど眼にしていたはずの寝顔が、妙に新鮮に感じられた。それが、起こすことへの躊躇いを新たに生んでいく。しかし、それは一瞬だった。
 すい、と、知章の手が浮いた。
 淳史が傍に立っているとわかっていて上げた手なのだろう。中途半端に宙を浮く手は、起きるから立つのを手伝って欲しい、という意思表示にも見えた。眼は閉じているが、意識はあるのだろうと踏んだ淳史は、彼の指を掴んだ。
 その手は変わらず、淳史の手よりも少し小さく温かみがあった。昔から散々眼にしている手だが、指の節と皮膚の感触は淳史の知っている頃よりも硬い。
 そして、ギターを扱うことによって変形した指に淳史は気がついた。
 出逢った頃には、当然なかったかたちだ。
 部屋の色彩が絞られる。映画は、エンドロールに切り替わったらしく、知章の指のかたちを見ようとしても眼が慣れない。暗闇が輪郭を曖昧にしていく。その中でも、掴んだ手の感触は不確かなものにはならなかった。しかし、確実に変化している部分もあった。人は成長するのだ。当たり前のこととはいえ、改めてその差異を感じた。
 あの頃から、どれくらいの月日が経ったのか。
 触れたこの手には、歴史があった。知章の歩いてきた道程と淳史自身が突き進んだ道程の跡が封じ込められていた。そして、淳史の知らない積み重ねられた感触があった。
 思い出を手繰るように、淳史は屈む。そうして、口づける仕草で掴んでいた指を額につけた。
 知章の指は動かない。彼は否定することも、肯定することもしない。だからこそ、淳史は思う。
 彼がいるというだけで、どれだけ救いになり、きしむほどの孤独を生んだのか。……生むようになってしまったのか。
 あまり身近な他者なのだ。そして、一生この心に失うことのできない人間なのだろう。離れていても、どれだけ離れていても、どこかでふと、感じるのだ。彼の存在を、奏でる静けさを、……そして、この身はかならずどこかで欲していく。知章の創る世界に触れ、気づけば安堵する。
 この指が生み出す音、彼にしか映すことのできない世界、そのすべては、ずっとこの胸に留まり、彼の存在がある限り蓄積していく。 ……その感覚に名をつけるのであれば、それは「希望」、そして「祈り」だ。
 切ない想いを、どれだけ音にしたか。才能への憧れと苦しみと、彼への深い愛情を、淳史は言葉にせず音にしてきた。
 ……また、知章を想い描く音が増えていくんだろう。こいつがいるかぎり、こうして自分のところへ訪れるたびに。
 無意識に目蓋を落としていた淳史は、テレビの織り成す華やかさに眼を開けた。
 映画が終わったのだ。隙間を埋めるCMが代わり映えのない日常を演出し、淳史は額から彼の指を離す。
 知章はすでに眼を開けていた。黙ったまま、寝の体勢で淳史の様子を見つめていた。その瞳は少し眠たげだ。
 現実と理性を取り戻して淳史は指を離す。しかし、中に収めていた指は動いた。逆に手を掴まれる。
 静かな信念、そして迷いのない指の動き。手繰り返された感触を、淳史はいまだ言葉にはできない。その勇気はない。
 たくさんの思い出を込めた、眼が合った。知章がまばたきをして、柔らかく口許を緩めた。
「おはよう、淳史」




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