* 300mile biscuit 後編 *


 五時半の空は、春分の日を間近に控えて群青を薄く引き伸ばしていた。闇を抱える森は影絵のように幾重に連なって光を待つ。どの方向から太陽は昇るのだろう。恋人に乞われ此処に来た修太郎はわからない。
 窓から目を離し、布団にくるまって眠る渉を見下ろした。彼の腕から抜け出しても起きなかったのだから、熟睡できているのだろう。その様子を見ると安心する。
 大学入試前どれほどナーバスになっていたか、修太郎は目の当たりにしてきたのだ。高校受験のときも焦りは見せず当たり前のように県立のトップ男子高に合格していた渉。当時は修太郎のほうが受験に不安を抱えていて、向かいの渉の家までよく雑談しに行ったものだ。だから、幼馴染みでもある彼がネガティヴに揺れ惑う表情をはじめて見せたのは、新鮮であり心配であった。
 渉の医師になるという夢は、医学部に合格しなければはじまらない。これで人生が決まる、と言えるほどの試練に彼は長く追い詰められ続けていたわけだ。
 最も印象的に思い出せるのは先々月の下旬、渉の大きく狼狽した表情だ。
 大学入試が全部終わるまで連絡はしないと言っていた彼のほうから、深夜に声が聞きたいと電話がきた。最終模試で前回の判定から少し下がってしまった、という覇気のない彼の声に胸がざわついた。そもそもセンター試験という一発目の壁を通過した後にも本番さながらの模試があるという受験事情に驚いたけれど、超難関大学レベルになると尋常ではない熾烈な競争になるのだろう。しかも彼の選ぶ学部は面接も重視される。
 推薦入試で製菓専門学校へ進む修太郎には到底わからない重圧だとしても、大切な恋人の不安をただただ取り除きたかった。勉強しなきゃいけないから声だけで、と言う受話器越しの渉を制し、修太郎は直接彼の家に出向いた。玄関を開けた渉の目元の大きなクマ、覇気をなくして丸まった背中。とぼとぼと階段を昇る彼を見て込み上げるものがあった。部屋に入るやいなや、うなだれる身体を抱きしめた。
 そのときほど、家が向かい同士でよかったと思ったことはない。酸素を求めるように修太郎を抱きしめ返した腕の強さ。手ごたえあったのに、どうしよう修ちゃん、勉強しなきゃ、もっとやんなきゃ、と、うわごとのように呟く彼をベッドに押し込めて一緒に眠った。
 あの夜は、久しぶりに色をつけることなく、ただただ子どもの頃と変わらない姿で朝を迎えた。自分の持っている勇気と負けん気を全部渉にあげたくて、目を覚ましたその額にくちづけた。幼いとき、母にしてもらったように。
 結果として、渉は超難関大学に無事合格できた。大学ホームページで合否確認した彼が真っ先にしたのは、修太郎への報告ではない。恋人と訪れる温泉宿のプランニングだったのである。
 話を飲み込むまでに時間がかかったし、受け入れるのも一日要した。渉は、医者になるまで待ってて絶対旅費は返すから、と決め顔で言っていたが、学費も寮費も払ってもらう身で気が早すぎる。最終的には互い母親同士が話をつけてくれた。何も知らない双方の親になんとも言えない気持ちを抱きながら、昨日に至る。
 ……寝顔だけは、ガキの頃と変わんないなあ。
 修太郎は微笑んだ。朝の空が先程よりも明るくなっている。
 国立大学の医学部に合格したご褒美の旅行なのだ、と、夕食の配膳をしてくれた仲居に伝えたところ、驚きの表情から渉を称える言葉が溢れた。照れたような顔をする彼を見ながら、修太郎も誇らしい気持ちになった。
 ……こんなところまで、来たんだな。
 旅行のことだけではない。
 数日前、修太郎と渉はそれぞれの高校を卒業したのだ。
 渉と出会ってもう12年になる。最初から成績はトップだった。通知表も常に完璧。でも、高学年になるにつれ、修太郎は幼馴染みが人の倍以上勉強しているのを知った。卒業文集にも医者になりたい熱意が書かれていた。
 ……ほんと有言実行の男だ。尊敬する。
 心中で褒めたのが彼の胸にも届いたのだろうか。
 渉の腕が何かを探すように大きく動き、そして目を覚ました。
「あれ、修ちゃん?」
 もぞもぞした声が探している。
「ここだよ」
「よかった、いた。今何時?」
 ごろんと寝返りを打って修太郎を見つけた渉が、まぶしそうに眼を細めた。
「六時前」
「ヤッたまんま、寝ちゃった?」
 事態を飲み込んだように髪をかき上げる。修太郎は備え付けの椅子から腰を上げた。
「そうだよ。温泉入る?」
「後にする」
「じゃ、ゲームでもするか?」
「しない」
 寝転んでいる彼のそばに立って見下ろせば、足首を掴まれた。渉の空いた片手がポンポンと敷布団を叩く。布団の中に戻ってきてほしいのだろう。修太郎は素直に従った。
「ゲーム機わざわざ持ってくる必要なかったよな? 本気でしたかったように思えないんだけど」
 同じように寝転がって疑問をつむぐ。修太郎からすれば無駄な荷物が多いと思えたのだ。特にゲーム機に関しては、二回カートレースをした程度でろくに活用していない。
 渉は修太郎を抱き寄せながら逡巡した表情となったが、すぐ真意を口にした。
「半分、アリバイみたいな感じだったんだよ」
「アリバイ?」
「普通、高校卒業旅行でしっぽり旅館なんて選ばねえもん」
 妙に真面目な顔だ。杞憂だと修太郎は肩をすくめる。
「女子たちならありそうじゃね?」
「俺ら男子二人きりだろ」
「変なとこで気をつかうなあ」
「いいの。したかったことはできてるし」
 一番したかったのは、言うまでもなくセックスだろう。貸切風呂の中、夕食を食べて露天風呂に行って帰ってきた後。彼は本当に幸せそうに修太郎の裸体を抱いていたのだ。
「もう一つ、質問。おまえ、写真撮りまくってんのなんで? そういうキャラじゃないよな」
 ついで、この旅でやたら写真を撮る理由も改めて訊けば、恋人が口を尖らした。
「だって、来月から会えなくなるんだもん」
 渉は、引越し作業中に修太郎と離れる実感がわいたのだという。いつも手の届く距離にいてくれたけど、もうそれは適わないじゃん、と悲しそうな表情をみせる。そのとおり、彼は来月から五百キロ以上先の府で寮生活だ。
「実家に帰るときまで声だけじゃ我慢できねえし。修ちゃんが会いに来てくれても、寮は一人部屋だけど泊められねえし」
 悲愴な様子は演技ではないとわかる。笑い飛ばすことはせず、同調しながら建設的なやり方を考えた。
「確かにそうだけど……いろんな方法があるだろ」
 スカイプで話すだとか、日持ちする手作り菓子をつくって郵送してやってもいい。具体案を提示する前に、渉が修太郎の顔を覗き込んだ。
「自撮り送ってくれんの?」
「それはない」
 咄嗟に出た拒否に、渉が思ったとおりだと言わんばかり声を上げた。
「ほら! 修ちゃんはそうだろ! もう撮っちゃダメ?」
 畳みかけるような言葉に修太郎は諦めた。
「いいけど」
 了承すると早速、渉が充電していたスマートフォンを取ってくる。また何を撮る気だと思いながら、掲げられた機械の奥にある彼を見つめる。
「はーい、1足す1は?」
 古典的な合図とともに「2」と応えてシャッター音が鳴った。
 浴衣で寝そべってピース。我ながら意味不明だと思う。渉は満足そうだ。
 小さく息をついて、一つだけ忠告した。
「でも、アレんときは絶対にダメだぞ」
「わかってるよ」
 渉がスマートフォンを畳に滑り投げて、プロレスでもするように修太郎を跨いだ。両手で仰向けにされ、浴衣をガバッと剥がされる。痛いくらいの凝視。もう慣れっこだ。
「やんの?」
 沈黙を裂く問いに、真剣な声が返る。
「まだ。今、目に焼き付けてんだよ。写真撮るわけにはいかねえから」
「あたりまえだろ」
 肌理まで心に焼き付けておくつもりなのか。近づいてくる顔を、たまらず両手で挟み込んだ。両頬をぐりぐりとこねるように動かす。
 ますます近づいてくるから頬を押し返す。昔ストッキングに引っ張られて顔が潰れてしまった芸人を思い出した。
「おぅぅぅんん」
「ぶっ!」
 イケメンと称される顔が残念極まりなく、たまらず吹き出してしまう。
 びくともしない男子がさらに変顔で目前に来た。
「おま、顔よせんな!」
「しゅーうちゃ……んんん」
 反射的に手を彼の口元に移動させた。強く封じたはずが、隙間からくすぐったいものがあたる。
「んん、んー、んふ、」
 一瞬何をされているのかわからなかったが、湿った熱に隠れていた芯が反応した。
「手のひら舐めるな! ヘンタイ!」
 修太郎はつい恥ずかしくなって首を逸らした。渉も恋人にあらぬスイッチが入ったと気づいたようだ。片手で口を封じていた利き手を外すと、そのまま人差し指を口に含んだ。性器を弄ぶようなねっとりとした愛撫と甘噛み。皮膚の薄い指間部も突くように舐められ、修太郎はぎゅっと目を瞑った。気持ちよかったからだ。
「修ちゃん、たまんねえ」
 濡れた指に吐息がかかる。彼の舌が手首を伝い、腕を這い、肩に落ちる。鎖骨を舐められながら、親指で乳首をこりこりと潰される。
「っん、……ぅん、ぁん」
 柔らかい舌と指で征服されるのを止められなかった。渉も触感を記憶したいのか、執拗に修太郎の肢体を舐める。脇腹、鳩尾、臀部、腿から足の指先まで。
「ん、はぁ、っん、はぁ、ぁん!」
 いっぱい舐められて感じてしまったことを隠せない。唯一残された芯が勃ち上がっているのだ。ただ、もう片脚に執心している渉に、性器を舐めてほしいと告げる勇気はなかった。
 でも我慢が利かない。修太郎の手は自身の芯に触れた。ビクッと揺れた熱を包んで上下する。快楽の電流が渉にも届いたようで膝裏を舐める動作が止まった。
「修ちゃん、そこ舐めてほしいの?」
 いやらしい問いかけにきゅっと口を噤む。
「舐めて出してあげるから、先にお願い、俺の、口でして」
 続いた言葉に目を開いて、彼の表情を確認する。懇願の下、同じように放置されている太い芯。いたいけに見え、世話したくなって手を伸ばした。
「うん」
 反応した渉が体勢を変え、修太郎も身体を起こして彼に触れた。先端にくちづけて舌を這わす。それだけでふくらむ。いつも自分の中にはいるものをそろそろと含んだ。
「んふ、ん、ぅん」
「修ちゃん、すげえいい」
 自分の好きなしごき方で指と口を使えば、気持ちよさそうな声が落ちてきた。嬉しくなると同時に自身の芯もむずむずしていく。
「しながら、自分の触ってみて」
 心を見透かす言葉に、浮かされた片手が勃ったままの我が身を掴んだ。先程のように上下にこする。気持ちよさが倍増した。恋人のモノを口で愛撫しながら何度も自分のモノもしごく。ゾクゾク集まってくる感覚に太腿がふるえた。
「ん、はぁ、わたる、もぅ、」
 無意識に訴えていた。
「出そう?」
「んっ、う、ん」
 見上げて頷く。愉悦に染まった恋人が髪を一撫でしてきた。
「替わるよ」
 言葉どおり仰向けにされて大きく股を割られた。渉の顔がうずまり、腿に髪があたる。さわさわと細い電流から、一気にくわえられて指と一緒にしごかれる。咄嗟に掴んだ枕で口を押さえた。
「っん! ぁん、ん! ぅん!」
 仰け反り挟み込もうとする下肢を制圧し、渉は修太郎の精を飲み込んだ。解放感に大きく呼吸するけれど、欲の灯は引かない。もう一つ強烈に感じる箇所に触れられていないのだ。
 それをよく知るように、渉が組み敷いた耳元に言った。
「修ちゃんの中で出したい」
 唾を飲み込んで頷く。かかさず彼は動いて畳に落ちていた未使用のスキンを拾った。客室内でのセックスは律儀につけていたのだが、もう今さらだ。この後すぐ温泉に向かう気でいた修太郎は、飛び出たゴムを抑えた。
 中に出していいかどうかの決定権は常に自分にある。
「いいよ、それ、生で、」
「まじで?」
 頼んでもないのにOKが来て、渉が驚く。珍しいのは承知だ。
「汚れなきゃ、早く、来いよ」
「修ちゃん」
 呼ぶ声まもなく、挿入された。出来上がっている身体は美味しそうに飲み込んでいく。腰が揺らぎ、喘ぎを耐えた。
「気持ちいい?」
「んっ、ぅん! いい、よ、」
「俺も。ずっと修ちゃんの中、はいってたい」
 浮かされたような声で、ゆっくり引く。
「好き」
 ゆっくり押され、熱が増える。
「愛してる」
 また引いて押される。快感を生む言葉と動作。
「俺、全然、語彙が足りねえ」
 最中なのに、我に返るような呟きをする。修太郎は感じながらも、恋人のかわいさに笑ってしまった。自分より頭が良いのに何を言っているのだろうか。
 思った拍子に、強く突かれた。
「あっ! んっ!」
 不意打ちの快感に腰が浮く。何度も突かれて枕を掴む手が固くなる。ぼーっとしてきた。また動きが止まり、訴えてくる声がした。
「修ちゃんでいっぱいなんだよ俺。だから、修ちゃんも俺でいっぱいにしたい」
 顔を見上げれば、身体を翻弄しているのは渉なのに、心を翻弄されていると言わんばかりだ。
 とろけそうな快楽の間で彼の指を探す。子どもみたいな瞳が欲しがる言葉を、修太郎は瞬時に捉えていた。
「渉、好きだよ」
 指と指が重なる。渉の反応は如実だった。
「あ! は、んっ!」
 はじまった激しい律動に、修太郎は枕を口元に押し付けて秘め事を懸命に隠す。すると、渉の腰を打つペースがさらに速くなった。彼をさらに煽ったに違いない。
「んっんっ、あっ、んっ! んっ!」
 しつこくかき回され、やがて独特の熱量に支配された。
「……くっ」
「ぁんっ! あぁ!」
 枕を持つ手が緩み、声が響いた。ふるえながら口を押さえる。ほてった秘部が音を立てて渉の精を吸い尽していた。
「は、ぅんっ! んっ!」
「修、も、」
「っう、ぁん! あ! ふ、んっ!」
 渉の器用な指で、瞬く間に修太郎も爆ぜた。知らぬ間に勃っていたモノが出した薄い体液を、恋人が舐め取る。
 快楽に濡れた視界。呼吸する身体に重なる視線。
 この瞬間を忘れない、失いたくない、彼の体温、彼の体臭。彼の愛情。
 どれだけ離れても、心は繋いだままでいたい。
「修ちゃん」
 恋人の願いを受け入れるように抱きしめてくれた。
「渉」
 手を回して名前を呼べば、「うん」と応えてくれる。
 一緒にいることが、ずっと当たり前だった。
「おまえは、おれの自慢の恋人だからな。この先もずっと」
 幼馴染み、とはあえて口にしなかった。途端に照れが生まれたけれど、渉の胸に響いたようだ。抱きしめる腕が強くなった。
「俺、もっとがんばる。がんばれる」
 晴れやかな声だった。幸せの中の決意。自分の存在が、一番好きな人のモチベーションを上げるなんて贅沢だと思う。
 ……おれもがんばる。渉のがんばりに恥じないように。
 心の中で同じように決意すると。
「修ちゃんも俺の自慢の恋人だよ。一生離さねえから」
 渉がてらいなく重すぎる言葉を繋げた。すべてひっくるめて修太郎は返す。
「ほんと、一生な」
 未来に色と温度があるのだとすれば、今のような朝の光と体温なのだろう。渉の心音を感じながら柔らかに微笑んだ。




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