* FOND COOKIES *


 一つ目の温泉で早朝集合だった身体をくつろがせ、傾斜のある路地を散策して山椒の効いた軽食をいただく。コロッケとサイダーを飲みながら、二つ目の温泉にゆっくり浸かって、また一息。ペースは修太郎に一存している。
 助手席で二本目のサイダーを飲みながら安全運転の彼を見る。電車で巡れるところをあえて車で行くという旅プランになったのは、渉のワガママからである。
 最初、修太郎から『来月下旬、渉に会いに行きたいと思ってる』と唐突に言われ、即提示したのが『一緒にドライブしたい』だった。修太郎は駐車場を探すのが面倒と言っていたが、金の湯・銀の湯と名がついた日本最古級の温泉地には興味が芽生えたらしい。ドライブ後は神戸のホテルに泊まって、翌日は徒歩と電車で修太郎の気になるパティスリーをめぐることになっている。
 渉も一年次の夏季休暇に運転免許を取得しており、夜行バスで関東からやってきた修太郎と神戸で待ち合わせてレンタカーを借りた。行きは渉が運転して、今は修太郎が運転手である。実家住まいのせいか、姉や母親に車の運転を頼まれることが多いらしく慣れた感じだ。
 大学二年生の晩冬。実は成人式のときにも地元で会って短い逢瀬を楽しんでいたわけだが、恋人は何度会っても足りない。特に温泉で全裸を見てしまったのでなおさらだ。
 ……ホテルに直行して、ヤることヤりたいなあ。
 心の中で欲望を呟く。しかし、修太郎に呆れられることは確実なので別の言い回しを口にした。
「早くホテルに行って酒飲みたいよなあ」
「なんだよ、早速酒にハマッたのか?」
 呆れ口調を回避することができず、もごもごと返す。
「そういうんじゃないって。修太郎と二人きりで飲むのがはじめてになるわけじゃん」
「んー、確かにそうか。おれあんまり飲めないけど」
「チェックインの時間ってもうはじまってる?」
「はじまってる。部屋飲みにすんの?」
「そっちのほうが楽じゃん。修ちゃんがつくってくれた甘くないお菓子も食べられるし」
「金銭的にも楽だしな。レンタカー返す前にスーパーで適当に買って行くか。あとでもいいけど」
 どちらがいいのか、と考えている顔だ。そんな修太郎が運転席にいることが目新しい。いつも会うのが関東だから、さらに新鮮だ。
「修ちゃんが関西に来てるって、不思議な感じだ」
 自分の大学があるこの関西に、はじめて修太郎がきてくれたのだ。
「逆に今まで来てもらってばっかりで悪かったって感じだけど」
「悪くねえって。そっちは俺の実家もあるんだぜ。帰省ついでのときもあるし」
 渉が地元を離れてから、去年は五回。今年は六回。一年目は一般教養メインで運転免許が取れるくらい余裕があった。勉強以外の暇な時間、渉はアルバイトに精を出して旅費を稼いで会いに行った感じだ。
 一方、修太郎はすでに実践的で忙しい。アルバイトも製菓に関係するところにしているという。一年次はフランス研修に行ったとフランス土産ももらった。パティシエにも国家資格があるそうで、無事に製菓衛生師を取った、と成人式帰省のときに聞かされた。今年卒業したら調理師の資格も取れるらしい。医学生の渉と違って、あっという間である。
「おれは、医学生ってもっと忙しいと思ってたよ」
「三年生から本格的に臨床が入ってくるから、とうとう忙しくなるぜ」
「そうなんだ」
 ふふっと彼が笑う。苦笑に見えるのは、関東と関西で離れ離れになる話であったのに、渉が二ヶ月に一度ペースでせっせと会いに来ているからだろう。
 実家の親にはついに『そんなに帰って来なくていい、ちゃんと医学を勉強してこい』と言われる始末。去秋は悩んだ挙句実家に寄らず、横浜のホテルを押さえて修太郎を呼び寄せたくらいだ。修太郎には『そこまでしておれに会いたいのかよ!』と爆笑された。
 淡白な修太郎にこの気持ちはわからないだろう。渉にとっては途方もない遠距離恋愛なのである。
「俺もそろそろバイトしてる場合じゃなくなるし。修ちゃんとこはもう卒業だよな。再来月から会いにくくなるのかなあ」
 流れに乗った会話から大きなため息が漏れてしまった。ぐびっとサイダーを傾ける。
「うーん。どうだろ」
 隣で言いよどむような声が返ってくる。カーナビの音。視線は真っ直ぐフロントガラス越しだ。
 この春、修太郎は社会人になる。少なくとも、堅実な彼はすでに就職先を決めているのだろう。渉は自発的に話してくれることを待っているが、修太郎はいまだに話してくれない。
 ただ今の時期で、この会話の続きである。なにか考えあぐねている様子を察し、ついほのめかして訊いた。
「卒業したらそっちのほうが忙しくなるだろ?」
 それに頷く。が、後は沈黙だ。
 妙な間ができて、それを恋人が意図的につくっているのだと気づいた。
 瞬く間、渉の胸の内に黒々したものが広がる。
 何を話そうとしているのか。なぜ修太郎は黙っているのか。
 バッドエンドルートが自然といくつも浮かび上がる。進学の格差、社会人と学生、同性同士、遠距離。恋愛の障害はいくつもある。製菓学校は女子が多いとも聞いていた。
 もう一度声掛けをしたかったが、なんと言えばいいのかわからない。沈黙を覆せすことができず、渉は飼い主の指示を待つ犬のように修太郎を見つめたまま固まっていた。
 ようやく修太郎も気づいたらしく、運転と逡巡のマルチタスクから一つを抜いて恋人をチラと見た。そして、少し姿勢を正した。
「ホテルに入る前に、話したいことがある」
 平静な彼がいつもどおりの声色で紡ぐ。
「な、なんの話?」
「酒入ったら酔って忘れそうだし、ホテルだとなだれ込むだろうし」
「そりゃ、うん。今聞くから、どんな話だよ?」
 含みのありすぎる前置きに、渉は内心ひどく焦っていた。しかし、修太郎は平然としたままだ。
「一つ目は、謝罪なんだけど」
「へっ?」
 恐ろしい単語に渉の喉がつまる。修太郎は恋人がネガティブな想像をしているとわかったらしく、またチラと顔を見る。その表情はやさしい。
「いや、そんなヤバイ話じゃねえから! 実は、おれ昨日から大阪にいたんだよ。今朝夜バスで着いた、なんて嘘ついてゴメン。大阪に泊まってた」
 予想外の謝罪に、渉が目を剥く。
 しかも本当だったら、前置きどおり謝罪してもらいたい内容だった。
「え、なんで? なんでそんな嘘ついたんだよ!」
「だからゴメンって」
「別に隠さなくてもいいじゃん! 大阪に泊まってから会うって普通に言ってくれれば、」
 噴き出した感情を投げ出して、はたと口を噤む。
 ……先に大阪に泊まって翌日から会うって話されたら、なんで先に大阪に泊まるんだって俺は聞いちゃうよな。つまり、修ちゃんは俺に知られたくない何かを大阪でしてたってことだ。それってどんなことなんだ? 俺が知ったらダメなこと?
 別に修太郎に秘密があってもいい。そこまで束縛したいわけじゃないし、なんでもかんでも知りたいわけでもない。
 でも、嘘をつかれたことは悲しい。
「渉、本当にゴメン。悪気はなかったんだ。ちゃんと全部済ませてからにしようっておれが勝手に決めてただけで。振り回して、ゴメン」
 幼馴染みでもある恋人の性格を察して、赤信号になった拍子、真剣な顔を助手席に向けてきた。修太郎の瞳を見て、謝罪を受け入れる。
「うん」
 彼もまた渉の瞳を見て、フロントガラスへ視線を戻した。車が動き出す。
「就職先決まったんで、それに合わせて動いてたんだ。おれ、来月中旬くらいに大阪住むよ」
 せめぎ合っていた暗い感情が一瞬で弾けた。
「は?」
 意味がわからないという渉に、修太郎がわかりやすく言い直す。
「一人暮らしになるから、会いやすくなると思うよ」
 なんでもないように、あっさり言い切った姿。渉はシートベルトを引きちぎらん勢いで運転手に近寄る。
「ちょ、渉、近い!」
「マジで? 修ちゃんマジで言ってんの?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「就職先、大阪なの?」
「じゃないと大阪住まねえよ。できるだけ早く引っ越せるよう、昨日色々手続きしてきたから。卒業してすぐこっちに移るよ」
 嘘をつかれていた理由を知って、感情はひっくり返った。全部用意してから恋人に言いたかった、という気持ちもわかる。糠喜びではなく、確実な未来を伝えたかったということだ。
「うわー、マジで、すっげえ、修ちゃんすげえよ!」
 用意周到な恋人に飛びつきたい気持ちを声にする。大きな歓喜に、修太郎が誇らしげな笑みを浮かべた。
「まあね。おれのこと、ちょっと見直した?」
「見直したも何も、俺はずっと修ちゃんのこと尊敬してるし大好きだよ!」
 キラキラと張り上げた言葉に自分でも、子どもかよ、と思い直してしまったが、恋人の破顔を見て満足度が盛り上がる。修太郎は自身の将来のために就職先を関西に選んだのかもしれない。が、きっと半分くらいは恋人である自分のためだろう。
「夢かな、コレ」
 心の中で喜びを数十回転させた渉が、感情と現実の狭間で呟く。すぐに隣から冷静な回答が来た。
「夢じゃねえから。渉、近場にスーパーないかスマホと目視で探してくれよ。もうすぐホテルだぞ」

◇ ◇ ◇

 渉の浮かれ調子に修太郎はホッとしていた。別に隠しているつもりはなかったが、ある程度準備し終えてから報告したい気持ちが強く、最後には短い期間だったものの嘘をつくまでに至ってしまった。くつろげるはずの温泉中も、渉に対する罪悪感で気がそぞろだった。
 ……嘘なんてつくもんじゃないな。こういうやり方はもう二度としない。
「百円ショップにでも寄って、グラス買ってくればよかったかもなー」
 プラスチックのコップを出しながら渉がぼやいている。本人はもう気にしていないどころか、早速酒の準備だ。手首のウォッチを見ると一七時前。少し早いかもしれないけれど、部屋の中で飲んで食って寝るだけで済まないことは明白なので、彼のペースに乗った。
「奮発してデラックスツインにしといてよかったな」
 修太郎も二人がけソファに座り、レジ袋からつまみを取り出す。
「修ちゃんがわざわざ来てくれたんだから良いとこ探すって! 持ってくれた分は俺の出世払いで返すからな」
 割り勘させた分をさりげなく言い、向かいのソファに座っていた渉が立ち上がった。医学部に入学してから、彼の口癖は『出世払いで返す』である。もう言い返す気にもなれず、ワインボトルを開けようとする姿を見る。目標宣言してから達成させる、有言実行が好きな渉らしい言葉ともいえる。
「開け方、こんなんでいい?」
「うん。くれぐれも照明と窓には当てるなよ」
「そんなヘマはしねえって」
 ポンッと快活な音がした。イタリアのワイン、ランブルスコ・ロッソ。冷えたボトルから宝石ルビーのような液体が透明のコップに注がれる。渉が珍しいものを見たように「おおー」とうなる。スパークリングワインの中でも、珍しい赤の発泡ワインである。少し甘めで、お菓子にも肉にもチーズにも合う。
「こんなのよく知ってるな! 俺、全然ワインわかんねえもん」
 コップを差し出され、チーズとローストビーフを広げる手を止めた。隣に座った恋人に勧められるまま、乾杯をして口に含む。一度飲んだことがあったが、やはり口あたりは良い。すぐに一本なくなるだろう。
「これ、すげえ飲みやすい!」
「甘めだけど、ここに広げた食べ物と合うからさ。同期にワイン好きの子がいて、色々教えてもらったんだ。後学のために」
「じゃあ、俺がワイン選びすることになったときは修ちゃん頼も」
「おれもそんなに飲んだことないから、ラベルはわかっても味までは知らないよ。これはたまたま飲んだことのある銘柄だったし、珍しくワインが揃ってるスーパーだったから」
 神戸という土地柄のせいかも、と思う。スーパーの食材が欧州の洋食慣れしている感じだった。渉も「俺の寮の近くのスーパーにはないもんばっかだった」と言っている。
「こんなお洒落なのに、その後に控えてる酒が発泡酒とチューハイってのがな。俺ももうちょっと考えてカゴに入れりゃあよかった」
 苦笑する渉が冷蔵庫をチラと見るが、修太郎は気にしていない。むしろ、滑らかに特定銘柄の缶を取ってカゴに入れた彼を見て、寮生活の片鱗を感じたくらいだ。
「いつも飲んでるやつなんだろ、あれらが」
「まあ、うん。寮のやつらと集まって部屋飲みとかが多いんだけど」
「そりゃあ、そうだよな。でも、楽しそうだなあ」
「俺は修ちゃんと一緒に飲んでるほうが千倍楽しいよ」
 てらいなく返される言葉に少し照れる。自分からは口にできない台詞を渉はいけしあしゃあと言えてしまうのだ。そんな彼はコップを置いて、いそいそとテーブルの横に置かれている紙袋を取り、膝の上に置く。
「手作りのお菓子、食べていい?」
「いいよ。おまえのためにつくったんだから」
 半分試作も兼ねたもので、渉の反応が気になる。
 数種のハーブとゴマを練り込んだクッキー。ガーリックラスク、野菜ペーストを各種混ぜて色味のついたクラッカー。レーズンとイチジクが入った甘さ控えめでたっぷりお酒をきかせたパウンドケーキ。時間がない中、ちまちま家でつくっていた。常温保存可能で、パウンドケーキ以外はそれなりに日持ちがするから、食べきれない分は渉に持って帰ってもらうつもりだ。
「なんか色がついてる。緑、赤、って野菜?」
「あたり。白はプレーンな。チーズとあわせやすいように」
 修太郎はローストビーフを食べながら残りも説明した。渉が最初に色のついたクラッカーをそのまま食べる。
「ほんのり味がするかな? そのままでも美味い」
「よかった。野菜の味がしすぎたら嫌われるから、それくらいでいいんだよ。ほら、チーズ乗せてみろって」
 食べ方を指導して、自分も食べてみる。まあまあだ。しかし、改良の余地がある。
 ……別の食材を乗せる前提で配合を変えたほうがいいかもな。お互いの食材を殺さない感じで。
「これもワインと合う!」
 渉の声にハッと横を見る。パウンドケーキを食べていた。甘党らしい彼のチョイス。無意識に製菓のことに気がいってしまっていた修太郎は微笑んだ。自分の菓子を食べると職業病が出るので、もう手は出さない。カボチャサラダを紙皿に盛る。割り箸なのは仕方がない。
「甘めのお菓子、もっとつくればよかったか?」
「ううん。このラスクも美味いしちょうどいい」
「パウンドケーキはそんなに日持ちしないから、ここで一本片してほしいけど。食べやすいように先に切り分けちゃったし」
「うん。ゴマのクッキーはビールとかのほうが合うかもなー」
「一番ドライでスパイシーな味してるからな。ほら、渉、ローストビーフも野菜も食えよ」
 スーパーで買ってきた食材に目もくれず延々と恋人の手作り菓子を食べる男に、親切心で取り分ける。
「修ちゃんの野菜クラッカー食べてるから大丈夫だよ」
 正論のように言い返す医大生に、紙皿と割り箸を押し付けた。渉が多くの野菜を苦手としているのはよく知っている。
「おまえ、それ、完全に子どもの言い分だぞ」
 少し心配になって普段の食生活を聞く。大学があるときは食堂の定食で栄養をつけているらしい。それ以外は不摂生の男子大学生だった。たまに奮発して、近所の安い喫茶店で大盛りのランチを食べるらしい。
 ……医者の不養生って言葉があるけど、ずっと一人にさせたらコイツそのまんままっしぐらになりそうだな。
 製菓だけでなく調理師免許も取得できる学校で栄養のことも少し学び、暇なときは家で両親や姉に料理を振る舞うまでになった修太郎からして、新たな恋人の気がかり要素だ。とはいえ、本人はいたって元気そうだから小言を増やしても互い嫌な気持ちになるだけ。
 ……おれもこいつの母親みたいなことしたくねえからな。まあ、これからうちにきたときに栄養あるもん食わせりゃいいか。野菜食べたくないって言っても、じゃあお菓子食わせないつくらないって言ったら折れてくれるんだろうし。
「なんか、やっぱお洒落だよなあ」
 ランブルスコを傾けながら、しみじみと渉が言った。
「修ちゃんがどんどん大人になってく」
 眉がうっすらハの字になっていた。ネガティブ渉のお出ましだ。すっかり慣れている修太郎も呆れを返す。
「なんだよ。一緒に成人式出ただろ」
「でも、先に社会に出ていくじゃん。もう色んな資格いっぱい取ってるし。俺、まだなんにも手にしてねえのに」
 確かにいくつも資格は取った。なかでも製菓衛生師は国家資格だ。しかし、渉が目指している国家資格は、同じカテゴリーでも重みがまったく異なる。
「すげえ未熟モンって感じだ俺」
 同じラインに立てるわけがないのにうなだれている。渉は頭が良いにもかかわらず、そういった点に冷静さが欠ける。
 ……まだましなのは、このモードはおれに関することだけ、ってことかなあ。渉は外で恰好悪いところ見せたがらないしな。
 恋人である前に幼馴染みという長年の付き合いがある。修太郎は彼をよくわかっていて、主観的な言い分には真っ当な意見がきくことも知っていた。
「医者になる機関が二年で修了だったら、怖すぎて身体の中見せられないだろ」
 思ったままきっぱり答えた。
 すると、案の定、しょげていた隣の瞳が、スッと元に戻る。
「それ、言える。二年で手術とか無理すぎる。俺もこえーわ」
 あっさりいつもの渉が帰ってきて、その単純さに口元が緩んだ。
「だろ。六年は必要なんだって」
「うん。っても、あと四年もあるのかー」
「ゆっくりでも確実に医者になればいいんだよ」
「でも最初は研修医だぜ? 一人前になるまでほんと長いんだよなー。しかも医局とか大変らしいって」
 ぶつぶつ不満を口にするのを、黙って聞いた。前までは修太郎にも愚痴を言わなかったが、最近は二人きりのときに言ってくるようになった。それを修太郎は悪いことだと思っていない。渉は元々努力家で恰好つけ屋なのだ。頑張っているところを隠したがる彼にとって、修太郎は素でいられる相手であるという証だ。
 そして、修太郎自身も、自分が関西に住む甲斐があると思えてくる。
 一通り聞いて、彼に顔を向けた。
「しんどくなったら、おれのとこ来りゃいいじゃん。背中押してやるから」
「しんどくなくても俺は行くよ? 行っちゃダメなの?」
 真顔で訊き返してきた男の背を叩く。
「ほどほどに来いよ。おれも仕事がどんな感じになるかわかんないし」
 笑顔を見せると安堵したように寄りかかってくる。
「うん。ほどほどに、」
 修太郎のぬくもりを欲しがって、ぎゅっと抱きしめる腕。
「修ちゃんがこっちに来て、住んでくれるなんて思わなかったから。俺、やっぱ混乱してる。色んな未来考えてて、どうすんだろ修ちゃんって思ってたりもしてて、だから、こういうのって想定外じゃん」
「ずっと内緒にしてて悪かったよ。ゴメン」
「ううん、でも、こんな方法があったって思わねーから。俺のずっとしたかったこと、もしかしたら思ってたよりも早くできるのかなって、聞いてからずっとそればっかで」
「なにがしたいんだよ?」
「言っていい?」
 問いに問い返される。
 ふと、高校時代のあの夜、告白されたときのシーンを思い出した。あのときも彼は同じように問うた。
 大きな想いを伝えたい瞬間だ。だから、修太郎は頷いて耳を澄ませた。
「いいよ、言って」
「……いつか、修ちゃんと一緒に住みたい」
 かわいらしい夢だった。しかも、またもや修太郎がYESと言えば叶えられる夢だ。
「いつか、じゃないだろ」
 悩むまでもない。告白されるまでは修太郎が別の方向に向いていたけれど、今はずっと同じ方角に向いている。
「近いうちにって言えよ。渉が卒業したらだろうけど、おれは最初からそのつもりだよ」
 恋人を追って移り住むわけでもなく、働いてみたい就職先だから大阪に住むのだ。
 でも、渉が手作り菓子を好んでくれて、あの日告白してくれなければ、こんな未来を選ぶことはなかったのだろう。
 回答を聞いた彼が大きく頷く。
「俺、修ちゃん好きになってよかった。本当に、好きになってよかった」
 感謝と尊敬をにじませる声は、修太郎の心にも幸福を浸透させた。
 その満たされた表情にくちづける。気恥ずかしくて、簡潔に「おれもだよ」と言えば、渉が眩しいほどの笑顔を見せてくれた。




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