* Cream And Nap *


 フライパンや皿を洗う水音がぱたりと止み、ソファーベッドで微睡んでいた修太郎は瞼を上げた。
 流し台から二歩。流行歌を鼻で奏でつつ、渉がしゃがんで冷凍庫を開けている。取り出した目当てのものは先週同様だ。スイーツ大好きな恋人兼幼馴染みと、狭い1Kに不釣り合いなファミリータイプの冷蔵庫。修太郎の頬が自然と緩む。
 大きな透明タッパーを片手にした彼が、振り返ってこちらを見た。
「今日でアイス終わっちまうかもー」
 眼に訴えてくる渉から視線をずらす。1Lタッパーに入った自家製バニラアイスは、まだ半分以上残っている。全部食べる気かよ、と言い返したいところだったが、今日は昼食に免じて言葉を変えた。
「またつくり置きしとく」
「やった! 修ちゃんのアイス、世界で一番美味しいからな!」
 カトラリーケースからスプーンを取った渉がソファーベッドのそばに来た。子どものように握りしめたものがデザートスプーンではなく、大きなカレースプーンであることに修太郎は笑みを隠せない。
「修ちゃんもアイス食べる?」
「ううん。腹いっぱい」
 ソファーベッドに凭れて座る彼がタッパーの蓋を開く。甘い香りが漂いだす中、修太郎は先刻のソースの匂いを思い出していた。
 ……渉のつくった焼きそば、ちゃんとできてて美味かったなあ。
 先刻から大きな余韻に浸っている。恋人がつくってくれたご飯は格別なのだ、ということを修太郎は身をもって経験したのだ。
 ……渉がおれのお菓子やご飯を嬉しそうに頬張る気持ちがよくわかったよ。
 昨夜寝落ちしてしまって知らなかったのだが、彼は部屋を訪れる前に焼きそば麺と豚バラ肉と袋入りカット野菜を買ってきていた。最近寮で自炊することを覚え、麺類からレパートリーを増やしているらしい。
 ……ほんと感動した。野菜嫌いの渉が焼きそばに野菜を入れてたのもマジで。
 目を覚ました時には、コンロを使う音と香ばしい匂いが部屋に漂っていた。驚きのあまり上半身を起こしてキッチンに立つ渉を凝視したものだ。
 社会人1年目の一人暮らし、夏バテ気味の休日。家事のすべてを自分でこなさなければならない日常で、代わりに食事を用意してくれる存在は本当に有難い。これまで修太郎にご飯をつくる気力がないときは、合鍵を持つ渉が代わりに弁当等を調達してきてくれたものだが、ついに調理までしてくれるとは。
 ……やりっぱなしじゃなくて、片づけするところも渉らしいよ。
 改めて恋人の良いところに感心しながら、実家にいた高校時代から変わり映えのない景色を見る。アイスを食べる渉とソファーで寛ぐ自分。でも、年月は二人の環境を確実に変えている。
 四月からはじまった、関西での生活。
 親元を離れ、まったく知らない土地に住むことはとても新鮮だった。でも、三ヶ月ほど経って自身の胸の内に『寂しい』という感情が生まれていることに気づいた。自分もホームシックになるものなんだ、と我ながら修太郎は苦笑し、恋人の偉大さを思い知った。
 渉が電車一時間圏内の大学寮に住んでいるという大きな安心感。彼も医学部三回生になって実習や試験で忙しさが出てきているというけれど、週に一度かならず修太郎の家に来てくれる。遠距離恋愛になっていた頃は渉の自分を求める必死さに呆れていたが、今や一周巡って感謝すらしている。
「洗い物もありがとな」
 黙々と好物を頬張っている渉の頭を撫でれば、スプーンをくわえたまま振り返ってきた。
「うん。洗濯もやろうか?」
 引き続いて家事をする気の彼に、さすがの修太郎も贅沢は控えて目を細めた。
「それは後でおれがまとめてするからいいよ」
「でも、ほら、修ちゃんは毎日仕事がんばってんじゃん。俺のためにアイスもつくってくれてるし」
 返された台詞には、修ちゃんは社会人なのに俺はまだ学生、という負い目が隠されている。同時に瞳の奥では、忙しくても俺のためのお菓子づくりは辞めないでね、と訴えていた。恋人の本心を読んだ修太郎は、ポンと頭を軽く叩いた。
「アイスつくるくらい、わけないから。焼き菓子より簡単なほうなんだよ」
「そうなのか?」
「うん。まとめてつくりやすいし、保存もきくからさ」
 質の良い生クリームと高いブランデーを使っていることは伏せておく。まだまだ見習いとはいえパティシエとして譲れないこだわりがあるのだ。好きな男に食べてもらうなら尚更。
「じゃあ、夏が終わってもこのバニラアイスつくってくれよ。俺の中で今修ちゃんのアイス大ブームだもん」
 甘えた口調でまたぱくりと食べる。あまりにも美味しそうに食べるから、やっぱり一口分けてもらった。自分でつくったものを味わいながら、次回はもう少し濃厚にして渉にアフォガードをすすめてみようと思った。
 ……渉的にはバニラがいいっぽいけど、秋はいろんな果物も出る季節だから他も試したいなあ。涼しくなったら、京都の和菓子めぐりとかもしたい。色々研究しないと。
 苦手な夏を越えれば、身体も完全復活するだろう。ただでさえ製菓業界は重労働なのだから、無理は禁物なのだ。
 ……休めるときはしっかり休んだほうがいいぞ、って言ってくれる職場の先輩も上にいて、オレは恵まれているほうだと思う。
 運よく良いところのホテルに就職したが、忙しさは覚悟していたとおり。甘い香りと美しいディテールにかたどられた職業の現実が厳しいこともはじめからわかっている。
 それでも未来に希望がもてるのは、手作り菓子を美味しく食べてくれる渉がいるからだ。
 タッパーの中にスプーンが転がった。完食した渉が「あーうまかったー」と感想を述べて立ち上がる。律儀な水音を聴きながら瞼を閉じた。
 静かな午後。壁の薄いアパートだけれど、今日は両隣誰もいないようだ。平日だからだろう。
 水音が途切れて冷蔵庫の開閉音がする。そして、ソファーベッドの縁がたわんだ。渉がそばに来たのだと察すれば、耳元で小さな声が聞こえた。
「なんか飲み物とか飲むか?」
「大丈夫」
「……修さ、かなり疲れてる?」
 髪を撫でる指に反応すれば、渉がフローリングに膝をついて覗き込んでいた。先週も似たような感じだったからか、心配になったのだろう。
 でも、幼い頃から盛夏は身体が疲れやすいのだ。学生時代体育会系の部活に積極的な参加をしなかったのもこれが理由で、幼馴染みでもある渉もよく知っている。
「いつもの軽い夏バテ」
「そっか、まあ、修ちゃんは夏弱いもんなあ」
 新しい環境になったせいもあって、例年より回復が遅い。とはいえ、ぐっすり寝られたし渉に至れり尽くせりの休日を過ごさせてもらって、だいぶ楽になっている。夕飯づくりからはバリバリ動くつもりだ。
「無理しないでくれよ、俺が一人前の医者になるまでは」
 恋人から返される台詞に修太郎は笑顔をみせた。寄せてくるくちびるを受け入れれば、密かに芽を出していた種火が大きくなる。
 普段であれば、昼までに一度渉に抱かれている身だ。
「渉さ、気つかってるだろ」
 数度のキスの後、修太郎は彼を見た。ソファーベッドに上がって覆いかぶさってこない時点で確信した。渉も自覚をもって頷く。
「だって、昨日寝てる修ちゃん、ずっと眉間に皺寄ってたんだぜ」
「え、マジ?」
「うん。声かけても爆睡してるし、これは今回なしにしたほうがいいなって」
 知らない自分のことを聞かされる。確かに昨夜は彼がベッドに入ってきたことすらわからなかった。いつも起きる時刻にふと目を覚まして、自分が渉の腕の中にいることに気づいたくらいだ。恋人に包まれている安心感で幸せな二度寝をした。
「俺は我慢できるから。修ちゃんと一緒にいられるだけで、すげー幸せなんだよ。修ちゃんがこんなに近くにいるの、今も夢みたいだもん」
 目の前で想いを吐露する渉に触れる。修太郎も実家を離れてようやく、彼の遠距離恋愛を心底嫌がっていた気持ちが理解できた。慣れ親しんだ環境から切り離された孤独と不安。新しい環境での自信喪失や懊悩。ネガティヴな感情に襲われたとき、真っ先に会いたくなる存在が近距離に住んでいるという事実だけで、不思議なくらい気持ちが楽になるのだ。
「修ちゃんはずっと俺の支えになってくれてんだぜ。俺だって、社会人になって大変な修ちゃんを支えたいんだよ」
 耳たぶに触れる修太郎の手を力強く掴んでくる。
「充分すぎるくらい、おれも渉に支えてもらってるよ」
 恋人の瞳に伝えた。すると、くちびるをとがらせてきた。
「えー足りないだろ。俺、もっとしたい」
 真摯な眼差しに、むくりといたずら心が芽生えた。
「……なにをすんの?」
 胸の内にある若い種火はキスの続きを求めていた。一ラウンドくらいのセックスならば後を引かないはずだ。
「家事とか……って、修?」
 生真面目に答えていた渉が、なんか意味違うな、といわんばかりに睫毛を揺らす。掴まれていた手を、修太郎はぐっと掴まえなおした。
「おれは、そういう気分になってんだけど」
「え、しゅう、え?」
 珍しく気持ちが追いついていないという顔だ。そのとおり自分から誘うパターンになっているのは稀だと思ったが、何年も付き合っていてはじめてというわけではない。
 ……渉は根が真面目だからなあ。しかも、変なとこで気にしすぎ野郎だし。
 とはいえ、修太郎も押し続ける性格ではなく、どちらかといえば飴と鞭タイプだ。すっと手を離して、身体を奥へずらす。
「ま、我慢すんなら、どうぞ」
 渉にその気がないなら、帰った後に一人で処理すればいい。そんな軽さで腕を組み、寝の姿勢となった。
「おれは寝る」
 すると、渉が慌てたようにソファーベッドに乗り上がった。
「修! ダメダメ寝たらダメだ!」
 覆いかぶってくる男に顎を上げて視線を重ねる。あえて何も言わず、じーっと見つめてみた。
 渉は墓穴を掘ったような顔で目を泳がせた。
「えっと、」
「はい」
「あの、」
「はい」
 どう思っているかわかっていたけれど待つ。
 数秒経って、渉は修太郎を跨いだまま頭を下げた。
「えっち、させてください」
 真剣な声で懇願され、我慢できずブフッと破顔してしまった。
「笑うなよー、俺の渾身のお願い」
「いや笑うだろ! 渾身って、毎回来るたんびにヤッてんじゃん」
 修太郎の返答に、普段の営みを思い出した渉が頷く。
「うん」
「変な気、つかわなくてもいいんだからな」
「うん」
 指を伸ばすとくちびるが落ちてきた。修太郎は彼の首に手を回して、深い口づけに喉を鳴らした。



「っあ、あ! ぅん、あ、あ、あっ!」
 大きな律動にしがみつく。
「しゅう、しゅ、う、」
 渉は広げられた修太郎の脚を掴み、想いの詰まった熱を吐き出した。
「ああ、あっ、んっ」
 こぼれた体液は肌を滑り落ちて、敷かれたバスタオルに染み込む。
「は、あ、」
 倒されたソファーベッドに深く身を沈めて、身を抜いた彼を潤み目で見上げた。
 散らかる衣服と封が切れたスキン、ジェルボトル。ティッシュ箱を床から拾った渉が簡単に事後処理をする。なすがまま、修太郎は夏バテとは違う心地良いだるさにゆっくり息をついた。
 スッキリした心。無自覚に抱えていたストレスが霧散している。両隣の部屋を気にせず、快楽に委ねられたのもよかったのかもしれない。
「身体しんどい?」
 衣服を身につけることなく、渉が横たわって修太郎を抱きしめる。
「全然、大丈夫」
 愛されている実感を目いっぱい受け止め、渉の髪を撫でる。目尻を緩ませた瞳は修太郎の頬にキスを贈った。
「夕飯つくるの手伝うよ。俺に料理教えて」
 健気な台詞が耳元をくすぐる。
 ……それはあくまでおれの担当でいいんだけどな。時々今日みたいにつくってくれるのは嬉しいけど。
「外科医じゃなくて、料理人でも目指すのか?」
 思いの代わりにからかう言葉を返せば、至近距離で目線をあわせてきた。
「料理が上手な外科医目指すんだよ!」
「ふーん。ついでに、お菓子づくりはおれから習わないんだ?」
 ぐっと顎を引く渉を見る。言いたいことはお見通しだ。
「俺の楽しみ奪わないで。修ちゃんのつくるお菓子じゃなきゃヤダ」
 ぎゅっとしてくる彼に求められ続ける喜び。どこまでも素直な渉の可愛げに、修太郎は抱きしめ返した。
「うん。渉のお菓子だけは、おれがずっとつくるよ」
 明日からまた頑張ろう、と思えた。
 シャワーを浴び、渉おすすめの動画や音楽を聴いてのんびり過ごした後。
 夕飯は冷蔵庫に残っていた食材で、肉じゃがと茄子の味噌汁、冷凍していた鮭の切り身を三つ焼くと決めた。支度に意気込んだ渉が、器用に野菜の皮をむく。
 その愛しい姿を見ながら、修太郎は炊飯器の炊き立て音に反応する。一緒の家で暮らしたらこんな感じになるのかな、と無意識に胸を弾ませていた自分に気恥ずかしさを感じつつ、引き出しからしゃもじを取り出した。




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