* 夕暮れガーディアン *


 パタパタと足音を立てて、褪せた斜陽がつくる暖色の廊下を歩く。行き交う生徒たちはスリッパがつくる軽快な音を気にすることなく、自分のたちの仕事に時間を捧げている。大学受験というルートに従う彼らも、放課後のひと時は自由だ。
 華奢な左手に持ったペットボトルが、橙の光を反射させる。パタパタパタと鳴っていた歩数が途絶えた後、右手は銀のドアノブを捻ねった。ギィと呻く古びた音は、教えられた場所への道とは違うとうそぶいているようだ。しかしこの扉に間違いはなく、振り切るようにドアを押せば、何の変哲もない薄暗い物置部屋が現れた。
 柚里の目的地は、その先にあった。正確には、その先にあるらしい。
 この高校に通って一年半近く経過しているが、西棟の最上階に来たのはこれがはじめてだ。これまで柚里の使う教室はすべて東棟に集中していたのだ。今回の学園祭準備の機会がなければ、この場所を知ることもなければ訪れようとも思わなかっただろう。クラスの出し物の関係で知り合った、ひとつ年上の先輩から教えてもらったのである。
 綺麗な風景が見れるバルコニーがあるという。
 しかし、元は風景云々で聞いた話ではなかった。この学校は携帯電話の電波が悪いという話になったときに、現れた場所だった。美術部の部長を兼任している彼女の親切な助言だ。あまり知られていないけど電波の届く一番近い場所は、美術部室の隣の隣にある物置部屋の奥にあるバルコニーだよ、という初耳の情報である。付け加えて、そこは風景が綺麗なのだ、という彼女の主観を得ていた。
 携帯電話の電波に関しては、柚里にとってどうでもよいことだった。右手で握られるべき携帯電話は、教室に置き去りのままだ。代わりに好きな銘柄のスポーツ飲料がある。学園祭準備も大詰めらなっていて、柚里も今は制服ではない。衣装合わせとして着させられた白のカットシャツに黒ベストとパンツは、さながらバーテンダーのようだった。学校には不釣合いのいでたちだが、スカートよりパンツを私服に好む柚里には、制服よりも気楽だといえた。スレンダーな体型も功を奏して着させられている感はない。むしろ、見栄え良く変身してしまったのか、クラスの注目を浴びてしまったのだ。ひと時逃げたくもなる。
 物置部屋には、ソファーや長椅子といった家具から、さまざまなモチーフの彫刻、おそらく美術部や演劇部が使用するのであろう小道具が整然と並べられ、陽の当たる日を待っていた。その隙間につくられた道を縫うように歩けば、すぐもうひとつのドアにあたる。ドアの上部に張りつけられた曇りガラスが、扉の向こうは外界であると教えている。
 ここで間違いない、と、柚里は思いながら、ノブを回して佇むドアを押した。
 開かれた先には、今まさに暮れようとしている空があった。水を湛えた河はきらめき、斜め奥に架かる鉄橋と河の向こうにある低層の住宅街、手前の土手には犬を散歩させているひとが見えた。さえぎるものなく広がった風景は、変わらない日常を美化させている。バルコニーというより、屋上だ。
 西棟の教室から見える景色が美しいだろうことは知っていた。しかし、大抵の情景が建物に阻まれていた。絵画そのままのパノラマは期待できなかったのだ。しかし、この場所は違う。学祭の喧騒も遠い。
 ここ、思ったよりいいじゃない。
 心の中で感想を述べた柚里は、長方形の奥行きあるバルコニーを見渡した。風は、夏に向かう手前の穏やかさに揺れている。柚里のように、こういう風景が好きなひとならば長々と居ついてしまえるのだろう。
 しかし、風景に比べてバルコニーのつくりがぞんざいなのはいただけなかった。物置部屋からつながる場所だからだろうか。地面はコンクリート敷きだが、気の強い雑草が根を無尽に生やしているし、外壁には土しか詰まっていない重そうな花壇の白鉢が寄り添っている。落下を防ぐ柵はかなり脆そうだ。膝の高さほどある見るからにその頑丈なプランターをベンチ代わりにする以外、どうにも腰を落ち着けるようなポイントはない。
 また、無理に増築したとしか思えないコンクリート製の部屋が、ドアのすぐ右から連なって展開されていた。柚里が来たドアはバルコニーの最左に在し、元々はかなり広いバルコニーだったようだが、それを半分ほど潰して新たに部屋をつくったようだ。物置部屋その二といったところだろう。その小屋に入るための、少し背丈の低いドアが別途バルコニー側に備えつけられていた。
 バルコニーを介してしか入れない小屋の背は低かった。一七〇センチに届く柚里の頭ひとつ分高い程度なのだから、苦なく屋上に手が届く。室内に入れば閉塞感が著しいのだろう。左手側の本館よりも幾分天井が低いことで、無理やりつくった感が強調されている。
 その中途半端な小屋を外側から眺め、柚里は思いついたように持っていたペットボトルを掲げた。背伸びをしなくても、屋上に飲み物が乗る。建物を見る限り、屋上も縁はそれなりに舗装されているはずである。
 二つのドアを避けて、がらくた同然のどっしりした長方形の白いプランターがあった。天井の低い小屋側沿ってに、三つほど連なっている。そのひとつに柚里は上ると、両手を屋上に乗せた。
 このまま腕の力で屋上に上がるには難しいかもしれない。そう判断した柚里は、花壇の端に寄って、片方のスリッパを蹴散らすと一歩離れたドアのノブに素足をかけた。ノブの高さがかなり良い位置にある。跳ねるようにノブを踏んで両腕の筋を伸ばし、柚里は自分の身体能力に賭けた。思いのほか、軽々と屋上へ上がれた。
 屋上は、縁以外むきだしのコンクリートになっていた。縁はひとが一人座れる程度の部分に外壁と同じ塗装がされている。水はけをよくするためか、コンクリート部分と縁部分にはわずかな段差があった。反対側には排水の筒が見える。
 身体の向きを河のある風景に戻して座ると、眼下に一層のパノラマが現れた。広めのバルコニーがワンクッションになっているおかげで、思っていたよりも高さに対する恐怖感は出てこない。先に上げていた飲み物を引き寄せた。
 太陽が沈んでいく空は、紅と薄い紺のコントラストを少しずつ浮かび上がらせる。曖昧な春の空と違うその配色は、一日おきの差延を忍ばせ夏へと移り変わっていく。柚里は奥の鉄橋へ電車が滑り込んでくる様を眺めながら、足を揺らした。海のある風景のほうがロマンチックかもしれないが、都会の河を臨む風景のほうが柚里は好きだった。
 バルコニーの陰気なモノトーンが全景の彩りを台無しにしていたが、この高い位置からだとそれが目立たない。バルコニーより、小屋の屋上のほうが良い景色だったと後で先輩に自慢しようかな。柚里はそんなことを思いながら、静謐に暮れゆく空と対峙した。その色彩は、文章のない絵本のようだ。
 微かにばら撒かれた日常の音が、屋上にも届いている。意識なく耳で拾いながら、ペットボトルの蓋を閉めれば、不意に不自然な物音に気がついた。
 次第に柚里の知っている声がこちらへ近づいてくるようだ。意味もなく、音と声の出所を目で探す。そして、本館に通ずるドアに柚里が目を落としたところで、ドアノブがカチャリと音を立てた。
「もしもし、聞こえる? あ、電波よくなった。ああ、今は大丈夫。……うん、」
 ドアが開かれると、声は明白になった。ここに来た理由も明確だ。携帯電話を片耳に当てた人物は柚里に一向気づかず、視界に広がった風景に心奪われたのか、バルコニーに足を踏み入れると、柵のほうまで寄って手をかけた。電話中であるから、声は断続的に続いている。
 柚里はその様子を眺めながら、そっとペットボトルを置いた。電話の相手に若干期待をしていたが、電話の内容から推察するに、親族かそこらのようだ。聴いていてもおもしろい感じはない。そういえば、この場所についての話をしていたときはコイツいなかった気するけど…とも、柚里は思った。おそらく、誰かから又聞きでもしたのだろう。それよりも、今にも壊れそうな柵に寄りかかる彼の気がしれない。
 電話が終わるまでは、自分の存在に気づかないだろうという憶測も当たり、夕暮れの演出が半ばを過ぎた頃に電話が終了した。それまで、足をぶらつかせて夕景を眺めていた柚里は、このまま自分に気づかなかったら、片足に残っているスリッパを蹴り投げて反応を楽しもうとも思っていた。しかし、そうする必要もなかったようだ。
 振り返った涼太は、目を真ん丸にして声を上げた。
「うわっ! あ、なんだ…」
 それでも、瞬時に人物の特定ができたようだ。すぐに近づいてくる涼太を、柚里は含み笑いで見つめていた。今更、なにやってんだとか、どうやって上ったんだ? など、問うことはしないだろう。幼稚園からのよしみなのだ。柚里の性格を彼はよく知っている。
「そこ、見晴らしよさそうだな」
 見上げた涼太は、柚里の脚を避けて横に立った。
「かなりいいよ、ココ」
 高低差で景色はだいぶ違う。柚里にしか得られない遠景は、黄昏をより際立たせていた。暖色が、藍と混ざり熔けていく。比例するように、次第に全景は薄暗くなってきた。
「てか、この部屋なんかちゃっちゃくねーか? むしろ部屋? ドアあんだな……」
 屋上に手をかけた涼太が、ようやく小屋の不自然さに気づいたようだ。ドアと自分の背を手で比べ、手の位置はどう考えてもかがまなければ入れない結論に行き着いている。
「増築でもしたんじゃないの。このガッコ古いし。ね、そのへんにスリッパない?」
 柚里は見下ろしたまま、見解ついでに涼太の足元あたりを指して、空に円描いた。乞われるまま彼は下を見回して、本館のドア寄りに落ちていた紺色のスリッパを拾う。
 それを見届けて、むき出しの素足をピンと伸ばした。足首から直角にすると、涼太も柚里の思惑がわかったようだ。拾ったスリッパを手渡すことはせず、伸ばされた足にスリッパをはめた。外気に晒されたスリッパの内部は少しひんやりしている。柚里は少しだけ満足した。
 夕闇が深まる前に降りなければ、否が応でも誰かの手を借りることになる。それだけは避けたくて、飲み物を身体から離した。柚里がドア側に身を寄せる動きをすれば、涼太は邪魔にならないよう後ろへ下がった。柚里には視線を向けず、夜に染まろうとする街の風景を眺めている。
 電話の用は終わったのだから室内に戻ればいいものを、……この際、上ったとおりの方法ではなく飛び降りることにしよう。彼女はスカートでないことも、踏まえて思い直した。何より、そのやり方が一番楽なのだ。高さだけでなく、履物と地面のつくりから考えて飛び降りるのは少々ハイレベルかもしれない。それでも、おそらくプランターに足を当てたり、変な落ち方や受身さえとらなければ怪我はしないはずだ。
 決断から視点を着地附近に落とし、柚里は両手を屋上にかけた。目線を上に戻した涼太は、柚里が何をしようとしているか、すぐにわかったはずだ。止めるそぶりは見せなかった。
 息を吐いて、彼女は一思いに飛び降りる。
 衝撃は思っていたよりも軽い。しかし、スリッパのおかげで衝撃の余波からは逃れられず、つんのめった。
 このまま素直にこけたら足首を捻るかもしれない。柚里は真っ先に思ったのもつかのま、クッションが間にはいった。そのまま、総倒れする。クッションになったのは、すぐ近くにいた涼太だった。ドサッという物音と共に「イテッ」という小さな悲鳴が上がる。
 難を逃れた柚里は、ほぼ下敷きとなった涼太からすかさず身を起こした。
「ごめん! どっか痛めてない!? 」
 かばってもらった代わりに、涼太に怪我をされてもたまらない。
「ケツからいったから、捻ったりはしてねーと思う」
 涼太の表情は、痛さを我慢するというより安心したといった様子だ。それに、柚里は部屋から響いている物音にも気づかず安堵する。直後に、本館のドアが開く音が鳴った。
「おーい、りょーちゃんいるー? って、」
 間延びした同じクラスの理沙の声が、現実の刻を動かした。そして、今度は理沙側の刻が止まってしまったようだ。ハッとしたように顔を上げた二人は、ドアから顔を出しただけの理沙の沈黙と凝視に気がついた。
 端から見れば、柚里が涼太を押し倒しているような状況になっていた。しかも、衝撃を和らげるために柚里の腰に回した涼太の両手も、理沙の位置からよく見えている。
「……えーと、いわゆるお取り込み中?」
 数テンポ置いて導き出された理沙の結論と、同時に涼太が両手を離した。柚里は途端に立ち上がり、ドアを引き開く。
「ドコが? どう見ても事故かなんか起きたんじゃん!」
「いやー、確実になんか起きてたけどね…ココなんか感じいいねー」
 事故だろうが何だろうが二人のことはどうでもいいという素振りで、理沙はバルコニーに足を踏み入れた。立ち上がった涼太は、初見らしい理沙にこの場所のポイントを教えた。
「ココ、西棟で一番電波いいよ」
「ほんと? あ、ほんとだ、ここマジいいじゃん」
 理沙は、制服のポケットから取出した携帯電話を見て、ラッキーといわんばかりつぶやいた。その間に、柚里は先に室内へ入ってしまったようだ。
 涼太も、理沙が呼びに来てくれた通り、夜に落ちた景色を背に室内へ戻る。物置部屋を出ると、意外にも廊下に柚里がいた。歩調を緩めない涼太に駆け寄る。
「理沙は?」
「電話でもすんじゃねーのか」
 涼太の言葉に、軽くうなずいた柚里は「ありがと」と続けた。
 いろんな意味を込めたお礼に「ドウイタシマシテ」と、涼太が畏まったように言えば、なにそれ、といわんばかりに柚里が背中を軽く叩いた。それを合図に何気なく、歩きながらの会話がはじまる。そうして蛍光灯を辿り、二人は学生に戻るための目的地へ向かっていった。




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