* 編め宿り * |
凛子の言う通りにしていればよかった、と、何度目になるかわからないため息をついて、葵は空を見上げた。地上すら灰色に染めあげる雲からは、大量の雨粒が音を立てて落ちている。降り出して、とうに一〇分は過ぎた。だが、止む気配がないことくらい、遠くの空の色を見れば葵でもわかる。第一、通り雨なのであれば、凛子が事前に「夕方に通り雨が来るわよ」という言い方をしたはずなのだ。 商店街から一本はずれた道に、人の行き来はない。夕方という言葉が似合いはじめる時間帯で、強い雨の中出かけたいと思う人はほとんどいないのだろう。葵のすぐ後ろで、閉店したシャッターのきしむ音がしている。 駅と葵の自宅は、徒歩で一五分ほどの距離だ。帰宅途中の電車の中で、天気の動向を眺めていたが、まさか駅を抜け出した後、すぐ土砂降りになるなどとは思ってもいなかった。その勢いは今、少し落ち着いてきている。 葵は、なかなか歩き出すふんぎりがつけずにいた。 雨に濡れて帰ることが、心底嫌なわけではない。明日も朝から学校があることを思うと、ずぶぬれになる制服のことを考えてしまうのだ。あいにく、母親が代えのブレザーとスカートをクリーニングにだしていたのを知っていた。帰宅後すぐに制服を乾かせばいいのだろうが、ブレザーやスカートは、生地からして乾きやすい代物ではない。葵にとって、朝から湿気が残る制服を着て学校行くことは苦痛だった。早起きは得意でないというのに、まして水分が抜けきらない重い制服を着なければならないという、気持ちが萎えることにだけはなりたくなかったのだ。 しかし、定休日でシャッターが降りているとはいえ、店のひさしの中で、いつ止むかもしれない雨の行方を眺めているのも、葵には苦痛になってきていた。こういう日にかぎって、傘どころか、携帯電話も家に忘れてきている。鞄の中に、暇つぶしの道具はない。 一つ上の姉は、そんな翌日の葵を予言するように「忘れ物には注意したほうがいいわよ」と、珍しく天気予想以外の言葉も口にしていた。凛子の忠告は、昔から気持ち悪いくらいよく当たる。葵が冗談だと思って凛子の予言を聞き流すと、決まって現実になるのだから厄介なのだ。 天気がわかる凛子の能力だけは、正直羨ましい。葵はもう一度ため息をついた。葵が物心をついたときから、凛子は雨の日を当てていた。だから、奇妙な能力だとも気味悪いとも感じてはいない。むしろ、両親は凛子の不思議なそれを重宝している。 なにより凛子の天気予報が、親に頼られるものであるという事実が、次女の葵にとって羨ましいものでもあった。凛子に、なぜ雨の日がわかるのかと問いつめたこともあるし、母親に凛子の奇妙な能力について意見を求めたこともある。訊いても意味がないこととは知っていた。現に凛子は「風と雨のにおいとか、空気の重さでピンとくる」などと、よくわからない返答をし、母親には「凛ちゃんは、昔から見えないものと遊んでいるような子だったからね」と、ほがらかに返された。 葵には、そうした特別な能力は一切ない。その分、凛子よりも勉強をして、親を振り向かせたのだから、結果としてこれらはよい原動力になってくれたのだろう。高校にあがった今では、姉に対して妬むほどの感情を抱いてはいない。 さて、濡れるのを覚悟するか、知っている人が通るまで待つか。この雨は、夜まで降り続けるだろう。手首からはずしていた腕時計で時間を確認する。辛抱強い葵でも、止む時間を待つ行為が、時間を無駄に過ごすことと同意義であることはよくわかっていた。人の行き来よりも、自動車のほうが多く通っている。この調子では、後一〇分この場にいても状況は変わらないはずだ。 あてがはずれたという、小さな敗北感は残る。けれど、走って抜け出せば終わる話だ。葵は自分にそう言い聞かせた。肩にかけていた、ナイロンの通学バッグを胸の内に抱える。今日の鞄は比較的軽いほうだ。ずぶ濡れになるならば、せめてバッグだけは死守しようと、空を確認する。雨は拍子を変えず降り注ぐ。アスファルトに流れる水は、行き場をなくしてさまよっていた。靴の代えが家にあることは、葵にとってせめてもの救いだ。 一方通行の車線に目を向ける。雨のせいで不明瞭な視界だが、車がやってくる様子はない。今のうちに走っていけば、車の水飛沫を浴びることなく先の曲がり角を曲がれるだろう。本当は濡れたくないが、今行くしかないのだ。 行こう。葵は決心を固めた。 その彼女の後ろから、水をはじく大きな音が何度も響いてきた。決心を固めたと同時に聞こえてきた物音に、葵は振り返った。雨の中、通りを走る黒影が見える。傘を持っていない人だ。 葵がそう思ったまもなく、その姿は葵を見つけたかのようにこちらへと向かってくる。どうやら、葵と同じ女子高生のようだ。制服のかたちを見れば、どの高校の学生かはすぐわかる。凛子と同じ高校のようだ。 近づいてくる姿を見ながら、振り向かなければよかった、と、葵は己を悔やんだ。ずぶ濡れの女子高生と同じように自分もなるのかと思ってしまったら、さらに雨の中を走る気が失せる。葵はため息をついて、鞄を胸から戻した。凛子の高校は、私立校だからか下校時間が少し遅い。もしかしたら、凛子がこの道を通る可能性もある。 葵のいるひさしに、当の女子生徒が入ってきた。制服の赤いカラーがすぐ目に飛び込む。黒地に赤いスカーフのセーラー服は、間違いなく凛子と同じ高校のものだ。平均身長を越す葵よりも少し背が高い。近所に、同年代でこんな感じの人はいただろうかと、葵は考える。 すると、視線を感じたのか、額に滑る滴を拭った彼女が葵に目を向けた。肩まで伸ばされた髪はすっかり濡れている。落ち着いた低めの声だった。 「穂波さん? ……あ、ごめんなさい、人違い」 名字はあっている。葵の顔を見て、彼女も同じ高校である凛子だと勘違いしたのだろう。顔の造作は似ているが、凛子のほうがより母親に似ている。それに、切ったり伸ばしたりを繰り返す葵と違って、凛子は常に長い髪をゆるい三つ編みでひとつにまとめていた。 葵はどう答えるべきか逡巡しながら、口を開いた。 「いえ、穂波であっています。穂波凛子のことなら、凛子は私の姉です」 葵が丁寧に返すと、二重の瞳が少し驚いたようにほほえんだ。ビジンな部類の先輩といえた。 「穂波さんの、妹さん。だから似てたのね。はじめまして、早坂です。一年の時に、穂波さんと一緒のクラスだったから」 大人びた雰囲気のわりに、話し方は気さくだ。その一方で、色白の肌とくちびるの青さが気になった。 「いえ、こちらこそ、穂波葵です。なんか、寒そうですけど、大丈夫ですか」 春を少しすぎたとはいえ、雨に濡れてしまえば寒い。セーラーの冬服は上着も兼ねていて、かわいいわりに重くて実用的ではないと凛子が前に言っていた。濡れると、葵の制服よりもタチが悪そうにみえる。しかし、早坂は気にしていないようだった。 「だいじょうぶ、思ったより寒くないの。下着まで濡れちゃったけど」 困った雨ね。そうつぶやいた彼女は、「どのくらい、ここで待ってるの」と、葵に訊ねた。葵はため息も交えて、空を見る。 「三〇分以上ですかね」 「けっこう待ってるんだ……あと一五分もすれば、お姉さんも通るんじゃないかな。私学校終わってまっすぐ帰ってきたから」 「そうだといいんですけどね……」 凛子が寄り道や気分転換さえしなければ、帰宅にはこの道を使う。同校である早坂からの情報を得て、葵はやはりもう少し待つことに決めた。一方で、早坂はどうするのだろうと目をやれば、手首にはめられた腕時計を凝視している。待ち合わせがあって、雨の中を走ってきたのかもしれない。 「ひとつ尋ねてもいいかな」 時計から目を離した早坂の声に、葵はうなずいた。凛子のことだろう、という直感はすぐあたった。 「ユキナリ……金子くんとお姉さんは、今もうまくいってるの」 早坂の質問は、前置きがあったものの唐突な内容だった。葵は、金子行成という人物が凛子の彼氏であることを知っている。彼は昨年受験を終えて、大学生になっているはずだ。志望大学が彼と同じだったせいか、何度か会って話したこともあるし、彼の大学合格後、受験教材をいくつか譲ってもらったこともある。 しかし、彼らが現状うまくいっているかどうかまでは知らないことだった。第一、凛子は感情の浮き沈みが激しいタイプではなく、金子とつきあっている事実を知ったのも、帰宅が珍しく遅い日が続いたことを何気なく葵が訊いたことから発覚したものだ。 淡々としたところがある凛子の、どこがおもしろくて金子がつきあっているのかわからない。しかし、二人が一緒にいる姿を見たことがある葵からすれば、長く続きそうなカップルともいえた。凛子は甘くほほえむこともできるオンナだったのだと、その場にいた葵は感心したものだ。 凛子に訊けば、金子とうまくいっているかどうかくらい簡単に教えてくれるだろう。しかし、そんな野暮を葵がするはずがない。実際、姉の恋愛話などどうでもいいことなのだ。 「私も今は知らないんですけど……別れた話は聞かないし、うまくいってると思います」 妹時分の葵に訊かれても、こう答えるのがせいぜいだ。早坂は、葵のあいまいな返事でも納得がいったらしい。 「そっか、ありがとう。変なこと訊いちゃって」 「いえ、とんでもないです」 それにしても、なぜ金子のことを先に口に出したのだろうか。ふとした疑問から、早坂を見る。彼女は凛子よりも、金子についての何かを訊きたかったのではないだろうか。すると、金子の元カノとか……そう邪推をはじめた葵に、早坂は目をあわせた。 「その制服、もしかして公立トップのところの?」 葵の着る制服に、気が向いたようだ。濡れたところのないブレザーの色は深緑だ。スカートはブレザーと同じ下地に多色のチェック模様が重なっている。地味だが、県立トップ校の印でもあった。しかし、トップ校と問われ、ハイそうです、と、答えるのも嫌味な気がして、葵はニュアンスを変えた。 「一女です。制服は、全然かわいくないんですけどね」 実際に、凛子の学校の制服よりも野暮ったくみえると葵はいつも思っていた。早坂は「制服がかわいいのは、重要だよね」と、ちいさく笑って、手首のウォッチを見直した。そして、つぶやいた。 「もう、行かなきゃ」 やはり、用事があって雨の中を走ってきたようだ。早坂がひさしに入ってきてから、時間はさほど経過していない。すでに濡れているのだから、外にでる決心も不要なはずだ。早坂はもう一度額を拭ってから、葵を見た。 「私、もう行くね。……えっと、あの二人に、よろしく」 「あ、はい。早坂さんも気をつけて」 葵の言葉に「じゃあね」と、早坂は声を残してひさしをでる。唐突な登場と同じように、パシャパシャと水音を立てて去る早坂を見ながら、葵は早坂のように勢いづいて雨の中に踏み出せないことにため息をついた。 しかも、早坂に出鼻をくじかれてしまったのだ。彼女を恨むつもりはないが、立ち往生している現状には、やはりうんざりしていた。凛子を待とうと一時考えたが、それはあまりにも楽観的すぎる。ともかく、雨に真っ向立ち向かっていかなければ、先がない。 今度こそ走ろう。やってくる車が通り過ぎたら駆け出そう。葵は、早坂の去った方向を見つめた。 「なにしてるの。傘、忘れたのアオイ」 後ろから、よく知る声がした。まさかの、凛子が帰ってきたのだ。葵は驚きもこめて、勢いよく凛子の側に振り返った。凛子は、ひさしの外で傘を差していた。 「凛子! 傘忘れて、誰か来ないかずっと待ってたんだよ。よかったー、凛子と会えたー」 安堵の息を吐きながら葵が答えると、凛子はちいさく笑いながら葵の意向をくんだ。 「それはよかったわね、中入るんでしょ?」 凛子は、口うるさいタイプでも説教をするタイプでもない。何事にも淡々としているのだ。葵がなぜか勝てないと思うのも、昔から感情にむらがない点と人の揚げ足をとらないところがあるせいだ。葵は喜んで凛子の差す傘に入って、彼女の代わりに傘の柄を持った。同じような背丈で少し狭いが、文句はいっていられない。 ようやく、帰路につける。葵は濡れる足下にかまわず、凛子に話題を向けた。内容は、早坂の話である。 「そういえば、あそこにいるときに、早坂さんってひとに会ったよ。凛子知ってる?」 葵のはじめた会話に、凛子が狭い傘の中で視線を返してきた。 「早坂さん……どんな感じのひとだった?」 どんな、と、訊かれても、今さっき出会った人だ。葵は、覚えているままに特徴を話した。 「凛子と同じ高校の人で、凛子のこと知ってたよ。うちらより背が少し高くて、髪は肩より下かな。色白で、」 「本当に、早坂って名前だったの?」 珍しく凛子が、葵の言葉を遮って訊いてきた。彼女らしくない、強い物言いだ。それもそうだ、カレシの金子が絡んでいる相手だからだろうと、葵は検討をつけてうなずいた。 「間違いなく、早坂って名乗ってたよ。それでね、凛子のカレんこと知ってるみたいで、私に二人によろしくって」 凛子が、傘から一歩抜け出した。そのまま跳ねるように数歩前を行く。奇行に走る凛子に、葵は驚きのあまり凛子の傍へ駆け寄った。 「おねえちゃん!」 つい、昔呼んでいた名で、凛子を呼ぶ。すでに雨の洗礼を受けた凛子が、雫も拭うことなく葵を見た。 「ごめんね、今ちょっと濡れたい気分なの。あ、鞄はお願い」 ずぶ濡れになっているせいか、ほほえみが少し情けない。表情も、凛子らしくないと葵は思った。やはり早坂という女子生徒は、凛子と過去何かしらあったのかもしれない。しかもオトコ絡みなら、ろくな過去ではないのだろう。 「凛子、冷たくないの」 ふたつの鞄と傘を持って、葵が数歩先行く後ろ姿に声をかける。ひとつの三つ編みに束ねた髪の先から、露が垂れる。雨は黒地の制服を、さらに濃く染めていくのだ。それでも、凛子は気にしない素振りで、空を仰いだ。 「寒くないわ。ちょうどいい感じ。あ、アオイ。明日も雨だから」 一瞬不安定さをにじませていた声は、いつも通りに戻っていた。音量は大きくないが、彼女の名の通り、凛とよく通る声だ。 「傘は、絶対忘れないよ。もう懲りたもん」 「明日は、朝から降っているはずよ。この雨は止まないもの」 音を立てる水は、凛子に薄い膜をつくりながら落ちていく。その様子を眺めながら、自宅間近の路地を曲がれば、凛子が家の門まで駆けていった。ヨーロッパ風の模様で施された低い門戸を開けて、数段あがれば家の玄関だ。凛子は先に玄関前のひさしにはいって、髪や制服を絞っている。 葵が公道から門を通り抜ければ、凛子の呼ぶ声が聞こえた。 「アオイ」 葵は、傘とともに顔をあげた。 「アオイも、これから少し気をつけた方がいいかもね」 何を主題に彼女がそう言い出したのか、葵にはわからない。玄関前にあがって、傘を閉じる前に訊いた。 「それ、どういう意味?」 すると、凛子が困ったようにほほえむ。ほんの少しだけ、言いあぐねるような素振りで、口にした。 「早坂は、もうこの世にいないひとだから」 ユキくんに、ちょっと電話しないといけないかな。凛子がつぶやきながら、ドアを開け、先に家にはいっていく。 意味が理解できず、葵は呆然と立ち尽くした。ザッ、と、唐突に雨が激しくなる。その音に、はじかれたような勢いで、葵は傘を投げて家に駆け込んだ。
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