* 秘密のインセット *


「おにいちゃん! ねぇ、ねぇ!」
 智弘は曲がり角を左折してすぐ、後ろから引き止める幼い声に振り返った。真夏の、しかも昼時とあって、住宅街の人気はほとんどない。耳にしたことのない声だったが、「おにいちゃん」と呼ばれるような人間は、智弘以外いなかったのだ。
 背の高い彼の視点は、すぐ下に落ちた。声のトーン通り、ツーテールの幼い女の子が眉毛を寄せて智弘を捉えている。真っ赤な無地ワンピースに焼けていない肌が、妙な透明感を与えていた。両手で何かを抱えている。目があった。
「おにいちゃん、おねがい。おねがいだから、これ、あけて」
 彼女は切羽詰った声を張り上げながら、緑色の箱を智弘に向けて掲げた。明らかに焦っている。智弘は不思議に思いながら、膝を曲げた。
 箱のようなそれは、プラスチックの網目でできた虫カゴに違いなかった。その中には一匹の赤トンボが、じっと壁に張り付いている。虫捕りは子どもが好む遊びのひとつだ。虫を捕まえて喜ぶべきだろうに、なぜ開けることを頼まれなければならないのだろう。それ以前に、少女の手で蓋を開ければいい話ではないのか。
「これを開けるの?」
 そう思いながら智弘が問えば、少女はあからさまに苛立った表情にかわった。重ねて、遠くから子どもの泣き声が聴こえてくる。
「はやく! いいからはやくあけて!」
 日光に当たった彼女の瞳が虹色に揺らいだ。智弘は、唐突に彼女の放つ気配を悟った。子どもの泣き声は、こちらに向かっている。
「わかった、開けるよ」
 押し付けるように近づけてきた虫カゴの蓋を、彼は言葉とともに開けた。その瞬間に、虫カゴは地面に落ちる。少女の姿が消えたのだ。
 代わりにトンボが外へ飛びだした。そして、智弘の身体を一周すると、逃げるように空を舞った。その様を見つめながら、智弘はついつい微笑む。なんとも愛嬌のある化け方をするものではないか。
「……かわいいヤツめ」
 すぐ近くまで寄ってきた子どもの泣き声は、大人同伴のようだ。足元に転がる空の虫カゴを拾うことなく、智弘も彼女と同じようにその場を逃げることにした。



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