* ハルシオンデイズ *


「なー、サエ。まだ?」
 ため息を込めて発した名波の声は、手のひらで弄ぶ鍵の音とともに部屋へと響き渡った。暖房を早々に切ったせいか、壁にもたれた背が冷えはじめている。採光の悪い部屋は、日中でも薄暗い。その中を、長いこと四つんばいになってうろうろしている男がいる。
「待ってよ。あとちょっとだけ、」
 呆れ声が持つニュアンスを本当に理解しているのか、その男の返事は軽い。あとちょっとだけ、と、答えたのは最早三回目になるが、本人はいたって気にせずソファーの下を覗き込んでいる。その姿には見飽きて、名波は目を細めた。
 佐伯の紛失癖は今にはじまったことではない。家の鍵や携帯電話を置いた場所を忘れて右往左往するのは日常茶飯事だ。対象物がちいさければちいさいほど紛失の回数も比例する。
 今回彼が探しているものが何かは、まだ訊いていない。ともかく、先刻ギターを弾くために指から抜いたリングとか、きっとその程度なのだろう。問いかけるのも面倒で、名波は白けたように佐伯を傍観しているのだ。
 その手中にある鍵の主たちは、この間にも距離を前へ前へと広げている。彼らは名波に戸締りを託して、先に部屋を出ていった。昼時をとうに過ぎた時刻ではあったが、遅い昼食に向かったのだ。場所は徒歩で20分強とかなり遠いが、おいしいことで評判のお好み焼き屋である。日が暮れるまでランチセットを提供していることで、彼らは好んで利用している。
 そんな彼らについて行きたかったと、名波は心の中で呟いた。お腹がすいているのせいか、時間の流れがやたらゆっくりに感じる。先陣が家を出て10分近くは経過していた。外出直前に、佐伯がものをなくしたと言い出さなければ、家主は名波に鍵を渡しさなかったはずだ。しかも、家主が佐伯を待てばいいものを、名波にその役を押し付けたのである。おそらく彼も、相当空腹だったに違いない。名波は、いっそ佐伯に戸締りを任せて追いつきたい衝動に駆られているところを、なんとか踏み留めていた。
「はやくしろよー、サエー。聞こえてっかサエちゃん、サッキー」
「あーわかってる。わかってるから待てってだから。ここらへんっぽい気すんだけどな」
 名波の思いとは裏腹に、佐伯は本気になって探している。あとでまた部屋に戻ってくるからいいじゃん、などと、名波もはじめは言ってもみたが、本人は「今探さないと忘れるし、絶対なくなる」といって憚らなかった。言い出したらきかないのが、佐伯という男だ。確かに後回しにしてしまえば、なくしたことすら忘れるかもしれない。名波にも、そうした成り行きには身に覚えがある。しかもなくしたのがこの部屋であった場合、本当にそのままなくなってしまう気がする気持ちも、わからなくはなかった。家主である白瀬の部屋は、楽屋裏とあだ名がつけられるほど雑貨が多く、人の出入りも激しい家なのである。
 諦めきれない佐伯に少しだけ加担するよう、ズズッとしゃがむように腰を落とした名波は、転がっているギター弦の替えを拾って、色々散らばっているテーブルの上に軽く放り投げた。見回したところで、ないものはないと決め付ける。
「……おい、コラ」
「もうちょい。おっかしいな、なんで見っかんねんだ」
 名波の待ちきれない声に、佐伯はようやく少し焦った様子で腰をあげた。すぐに佐伯は名波の姿を見つけ、目をあわせてくる。表情を伺う仕草だ。低い声色のわりに、名波の機嫌が降下していないことをすぐ見止めたのだろう。
 目尻を下げて「あと一分」と、返事しながらジーンズの後ろに手をやった彼は、途端に顔色を変えた。
「あった」
 間抜けな言葉だった。複雑な佐伯の表情に、名波は嫌な予感がして、無意識ににらんでいた。
「で、どこにあったのかな、サエちゃん」
「……ポケットの中」
「おま、……ほんっと、おまえらしいよな!」
 呆れを通り越した簡潔なコメントで、名波はそそくさと立ち上がる。そして、振り返りもせずに玄関を目指した。



 ―――先歩いてるから、後で追ってきてよ。
 先刻、家主の白瀬に言われて託されたキーを鍵穴から引き抜く。外に出れば、息は白い。名波は、上着のポケットに手を突っ込んだ。携帯電話で確認する必要もなく、すでに白瀬をふくむ三人の友人たちはお好み焼き屋に着いている可能性は高い。
 佐伯は先に部屋を出ていた。名波に言い捨てられた彼は、飛びつくように玄関までやってきていたが、怒気がない名波の表情に安心したようだ。彼は詫びを兼ねてか、白瀬たちに追いつく方法を意気込んで名波に教えた。チャリの二人乗りで彼らに追いつこうというのだ。
 提案されて思い出したのは、今日の佐伯の交通手段だ。ここに来る際も一番遅かった佐伯は、自転車を飛ばしてきたと話していた。どちらにせよ、早く着けるにこしたことはない。佐伯の案を了承して、自転車の用意を先に促したのだ。名波は、急かず一階のエントランスへ向かった。
 数段降りた下のアスファルトでは、佐伯が自転車を止めたまま、いそいそと後輪に何かを装着していた。よく見れば、彼が前に友達からもらったと言っていた二人乗り用の足置き場である。すでに売られていない、今で言えば違反グッズにあたるのだろう。
 佐伯のこういった用意周到なところは、名波も感心するところではあるが、その装着が行なわれている自転車には、明らかに見覚えがあった。
 どう見ても、佐伯の所持物ではない。
「ナナミ、後ろだから」
 付け終えた佐伯が、名波に気づいて口にする。佐伯は律儀に漕ぐ役を選ぶようだ。サドルをまたいだ彼にあわせ、名波もとりあえず自転車の後輪にまわって、便利な違反グッズに足を重心をかけた。しっかり固定されているようだ。佐伯の両肩に手をやってアスファルトを軽く蹴る。名波の両足が乗ると、自転車は軽々と動き出した。佐伯は力任せの仕事が得意だ。
 名波はスピードの所為で会話が困難になる前に、訊いておきたいことがあった。それは、ひとつの確信といっていい。
「これ、春田のじゃね? どう見ても」
 自転車のことである。春田は友人の一人で、白瀬たちと一緒にお好み焼き屋へ向かっている。佐伯はスピードを上げながら「そ、ハルちゃんの」とうなずいた。大の男二人の二人乗りで、自転車はちいさく悲鳴をあげる。
「でももう、借りパク寸前だし!」
 自転車の行く末を一瞬心配した名波に、佐伯は続けてあっけらかんと言い放った。春田に少しに同情する。おそらく彼は、借りパクされていると思ってもいないだろう。



「名波たち来ねーなー。すぐ来ると思うんだけど」
 春田が、しきりに白瀬宅側の公道を確かめている。お好み焼き屋までは緩い上り坂になっていて、ある程度登ってこなければ存在は確認できない。薄曇の空だが、風がないせいか凍えるほどの寒さではなかった。
「また、サエがもたもたしてんじゃね」
 のんびりと返す、白瀬の後ろ背のシャッターには『本日臨時休業』と書かれてある。春田はため息をついて、しゃがみこんだ。残念さが身体いっぱいににじみ出ている。それもそのはず、彼らはお好み焼きを食べる気満々でいたのだ。
「で、さあ、何にすんの? 昼メシー」
 うめく春田は、白瀬を見た。
「この際、二つ先の駅にあるとんこつラーメンでも食べに行く?」
 白瀬はそう言いながら、連れ添っているもう一人に顔を向ける。同意を求められた井野口は、目だけで同意の合図を送った。ケータイであいつらに連絡して先向かう? などと、春田と白瀬が話し出す。
「そういや、サエってチャリで来たかなんかじゃなかったか?」
 そこに井野口が言葉を挟めば、二人の会話はすぐ「そうだった」「じゃ、そろそろ来るな」「んじゃ、待つか」に変わる。井野口は、彼らがすっかり眺めるのをやめた道を見やった。あまりに遅くなるようなら、名波が連絡をいれてくるはずである。
 自動車の行き来が途切れてすぐ、少し遠くからスピードのある自転車が近づいて来るのが見えた。井野口が声をかける間もなく、白瀬がその存在に気づく。
「あれっぽくね?」
 目を凝らすまでもない。その自転車の奴らの喋ってる煩さで、視力の悪い春田でもすぐ確認できた。冷たい風をきっている中でも、会話を成立させようとするあの二人の気がしれないと、井野口が思う。おそらく佐伯が延々と話しながら、自転車を漕いでいるのだろう。
「さすが筋肉マニア」
 佐伯の筋力を馬鹿にしたように褒める白瀬の感想の横で、春田のうめきがあがった。
「あれ、どう見てもオレのチャリじゃんかよ……」
「あいつに貸してんのか」
 井野口が問えば、春田は脱力のまま言葉を返した。
「うん、長いこと。オレは原チャも持ってるからって。すっかり忘れてた、オイ、サエ!」
 まもなく到着した二人に春田はちいさな怒気をふくませたが、佐伯はまったく気がつかない。気合いの入った疾走で息の上がったまま「ゴール!」と、嬉しそうに叫び、反対に体力の酷使はなかった名波は「冬に二ケツはサムッ」と、感想を述べて降りる。白瀬は名波に鍵を渡されながら苦笑した。
「残念ながら、」
「ゲッ、休み!」
「なにこの臨時休業の文字!」
 白瀬がすべてを言い切る前に、二人は状況に気づいたようだ。一気に顔色を変えた二人に、井野口がやさしく提案した。
「この際、いっそ三駅先のうまいラーメン屋行こうって話になったんだけど。あそこ昼休みねーし」
「あのラーメン屋ね……あそこトンコツだっけ?」
「みんな賛成な感じ?」
 佐伯と名波がかわるがわる口にして、無言の満場一致となる。地下鉄の駅は、この道を5分歩くところにあるため面倒はない。
「で、そのチャリンコどうすんの?」
 白瀬がおもむろに佐伯を見た。名波は一抜けしたように、春田と会話をはじめている。佐伯は追いつくことしか考えていなかったようで、一瞬間考えると春田の前に立った。
「チャリお世話になりました。なんとお礼を、」
「おま、今はいらんわっ! ふざけんな!」
 さりげなく春田に押し付けようとして、逆に怒りを買う。他のメンツはその様子に笑い出すが、本人は本気だ。次はどうやって井野口に押しつけてみようかと、彼を見ながら思案している佐伯に白瀬は「だったらさ、」と話を持ち出した。
「俺らと、どっちが先にラーメン屋に着くか、競争すんのはどうよ」
 そんなことを言い出す白瀬の笑みは、悪戯好きの子どものようだ。くだらないゲームに井野口は、またはじまった、と思ったものの、春田も自転車を押し付けられかけた手前、名案とばかりに白瀬を味方する気のようだ。名波は、佐伯と春田のしていたやり取りにいまだツボがはいっているらしく、腹をさすりながら笑っている。
「それさ、勝ったらなんかあんの」
 佐伯が、賞品次第というように白瀬を凝視した。白瀬は微笑んだ。
「昼飯奢ってやるよ」
 すると佐伯の顔が途端に挑戦的になった。体力に元々自信がある佐伯だ。負けるわけにはいかない。そんな表情のまま、いきなり名波の腕を引っ張り出した。
「ナナミ後ろに乗れ!」
 なぜそこで自分が必要とされたのかわからない名波は、思考回路に意味合いを繋げるより先に、促されるまま自転車の傍に向かう。
「ナナミ早く!」
 そう無理やり急かされ、状況を理解した頃には後戻りができなくなっていた。
「ちょっ、サエ、待っ」
「ナナミ乗ったな。よし、絶対俺らが勝つ!!」
「先ラーメン食ってるからな。がんばれよー」
 ふざけた白瀬の言葉に、佐伯は俄然張り切り「ゼッテー奢らせっからな! 」と、捨て台詞を吐く。同時に、自転車を勢いよく動かした。名波が「降ろせ」などと訴える間髪はないスピードである。
 着たときと同様に、ギャアギャアとわめきながら嵐のように去って行った二人に、春田は呆れた様子で呟いた。
「あの筋肉バカ、ナナミまで連れてっちゃったんですけど」
「あいつは、自分でハンデつくったのに気づいてないんだろうな」
 続いて井野口のごもっともな言葉に、春田も顔を見合わせて首を傾げたまま苦笑した。二人乗りは漕ぎ手に倍の体力を強いるということを、佐伯は考えていなかったのだろう。
「駅に行くまでにタクシーあったら、それ乗るよ!」
 早速小走りをはじめた白瀬に、春田と井野口は、こっちも本気だしてきたよ、と思いながら彼に従う。白瀬は、自分から言い出したゲームには絶対負けたくないタイプなのだ。
 昼食以前に、この勝負に手伝わなければ好ましくないことが跳ね返ってきそうな予感に、二人は呆れながら「マジ腹減ったなー」と声をあわせた。そんな中でも春田は、私物化されている自分の自転車の行く末を、本気で心配していたのは無理もない話である。



 恐ろしく早いスピードを保ったままだった佐伯のペースにも、翳りがでてきた。上り坂が多い道のりで、漕ぐ脚に負担がでてきているのだ。さらに男の二人乗りである。
 名波の意識も、「なんでオレも巻き込まれんだよ!」から、「オレまで連れたら、絶対ハンデでしかないだろ」に切り替わっている。名波は佐伯よりも体重こそ軽いが、より痩身の春田より重く身長も佐伯と同じくらいだ。身軽な女の子を後ろに乗せているのと訳が違う。
 乗り込まされた船に、名波は腹をくくっていた。もし佐伯がこのゲームに勝ってくれたら自分も奢ってもらえるわけだし、と、開き直って佐伯の味方に徹することにしたのである。
 しかしその矢先の失速だ。バテてきた佐伯に、名波はやはり思っていたことを口にすることにした。
「だから、オレ連れてったらハンデじゃね?」
 その言葉に佐伯の肩もピクリと揺れる。うわ、こいつ今気づいたよ今! 名波が呆れた声を心の中であげる。かかさず佐伯が馬鹿デカイ声で返答してきた。
「いいんだよ!」
 まるで、子どもの意地の張り合いだ。おそらく、白瀬のほうも無駄な本気をだしているのだろう。白瀬は見た目の涼しさに反して、佐伯以上に負けず嫌いなのだ。
 本当にバカだよな、と、名波は思う。筋力の酷使で火照る佐伯の身体の熱が、手のひらを通して伝わっている。風を斬る冷たさに、耳が痛い。それでも、二人乗りの疾走感は、妙なワクワク感を連れてくる。バカバカしいことほど、楽しくて仕方ないと思えるのだ。
 空を仰いだ名波は、思いついたように佐伯を呼んだ。
「サエ!」
「お、なに、呼ん、だ?」
 坂のない平坦な道を必死に漕いだまま、佐伯が返す。必死な様子に苦笑して、名波は身体を軽く曲げた。佐伯の耳元にくちびるを近づける。
「もし、白瀬に勝ったらさ、」
「わ、え、」
 近くで声がしたことに驚いた佐伯にはかまわず、名波は続けた。
「…………」
 ささやきにも似た音量だったが、佐伯は聞き取ったらしい。突然咽せてから、驚いたように名波の顔を無理やり見ようとした。
「まままマジ!?」
「男に二言はない、っしょ」
 名波は言い切り、ちゃん前向いて漕げと命令する。その指示に素直に従った佐伯は、先ほどまでのへたり具合をどこかに飛ばしたらしい。「ちゃんと掴まってろよ!」と言ってすぐ、スピードを一気に何段も上げはじめる。
「マジで勝つっっ! 」
 やる気の相当満ちた誓いに、自分の一言で復活する佐伯は、本当に単純だ。しかし、そんなところが憎めないのである。
「おし、負けんなよ!」
 名波は笑いながら、応援するように彼の頭を軽くたたいた。



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