* 泣かないよ * |
団地共有の駐車場に、近所の見知った顔が集まっていた。月に一度定期的に行われる資源ゴミ回収の活動以外で、このように一同が集まった様子をナツミは見たことがなかった。これが最後なのだ。漠然としていた実感が、リアルになっていく。ナツミは少しうつむいて、親の所有する車へ足を進めた。 後ろ手に見える住居には別れを告げてきた。小学校四年生から五年生まで住んだ二階建ての借家だ。この広い団地は、メゾネットに似た変則的なつくりがほとんどで、マンションタイプも四階立ての場合は、一階・二階がひとつの世帯、三階・四階がひとつの世帯となり、室内の階段で上下をつないでいた。同じ団地に住む友人たちは割合この手の建物に住んでいたが、ナツミの家族は、その次に団地を占めていた庭付きの長屋式住居で暮らしていた。 この団地は、地名に「峰」と名がつく通り、高台の山の斜面を切り崩してつくられていた。几帳面に整備された区画をつなぐ道路のほとんどは、坂の車道と階段で形成され、生活するだけでも良い運動になった。すぐ近くには大型ショッピングモールとデパートが併設されており、市電も通っている。 ナツミはここから見える景色をとりわけ愛していた。どの場所からでも、美しい瀬戸内海が臨めるのだ。実際、テレビの天気中継などで日頃活用されるほど、風景の良い場所として市内でも有名であった。 その景色とも、今日でお別れだった。父親の転勤により、新しい土地で生活を一からはじめるのだ。次に住む場所は、ここから見える瀬戸内海を渡った向こう岸になる。同じ瀬戸内海に面している四国という地域は、ナツミにとってだけでなく、両親にとっても未知の場であった。 引っ越し自体は、ナツミにとってはじめてのことではない。引っ越すという行為も、ナツミは厭っていなかった。知らない土地に住むことは、好奇心旺盛なナツミにはむしろ歓迎すべき事柄のひとつだ。生まれたときから、旅行好きの両親とともに多くの土地を訪れてきたナツミだ。新しい土地に身を置くことに、今更抵抗感はない。 しかしその一方で、別れの辛さをナツミはよく理解していた。幼い頃からナツミたち家族が引っ越しを繰り返していただけでなく、ナツミより先に親の転勤で土地を離れた友達も多くいたのだ。出会いはいつも楽しく刺激的だが、別れは何度繰り返しても受け入れがたいものだった。 前回の引っ越しのときは「また会おうね」で、締めくくることができた。また住み直す可能性の高い土地だったからだ。しかし、この土地は「サヨウナラ」が一番似合う言葉だった。二度と住み戻らない場所なのだ。どういう表情をしてサヨウナラをすべきか、ナツミは長い間考えあぐねていた。 ナツミの幼い弟は、先に家を出て友人たちと車の周りではしゃいでいる。彼は姉の二つ下で、小学校三年生だ。出逢いと別れに思うことなど少ないのかもしれない。ナツミはその姿を見て、少しだけ羨ましいと思う。そして、きっと前回の引っ越しのときは自分もこんな感じだったのだろうと、彼女は思った。 この土地で、ナツミは無邪気さをそぎ落としてしまったいた。たった二年の間で、彼女の周りにはいろいろなことが起きた。人の死にはじめて遭遇した。クラスにとけ込む苦労があるということもおおいに学んだ。方言も必死に学んだ。中学受験を意識して塾に通いだしたのも、この街に住んでからだ。なにより、広島という土地が、ナツミに絶えず何かを与えていた。言葉にできないそれらは、彼女の心を半ば引きずり出すように成長させていた。早く大人になりたいと彼女は絶えず思っていた。 ナツミは今も、こんな別れの時、大人ならばどういう表情をするのかと目で母親を探す。彼女は、はしゃぐ弟を制しながら近所の人たちと談笑していた。それは、いつもの光景と変わりがなかった。 綺麗に整備された花壇には、春の花が咲き始めていた。数段の階段を降りて花たちの側を抜ける。父親がナツミに気づいてワゴン車のドアを開けた。 「荷物は、これで全部か」 彼の問いかけに、ナツミは「うん」と頷きながら、抱えていた荷物を後部座席に詰め込んだ。ナップサックには、学校や塾で使ったペンケースやカラフルなノート、お気に入りの本たち、ちいさな財布に携帯電話などが納められている。ナップサックを重くさせていたのは、彼女が読書好きだからだ。転勤族のナツミにとって、小説やマンガはいつも手元にいて同じ景色を見せてくれる存在だった。 車から離れると同時、遠巻きにしていたナツミの友人たちが彼女に近づく。ナツミは母親のしている表情と同じような素振りで、彼女たちに笑って見せた。鏡がなくても、いつも通りの表情をつくっているという自負があった。 「見送りしよってくれて、ありがと」 太陽が傾く前の空は、薄く曇っている。ナツミの言葉に、友人の一人が「いいって」と、少し困った顔で返した。最後に交わすべき言葉がうまく選択できないのは、ナツミも同じだ。彼女たちと別れたくなくても、別れなければならない。その気持ちは、友人たちにも静かに伝わっているのだろう。別れは経験で慣れるようなものではない。 「なっち、車で香川まで行きよん?」 ナツミ宅の隣の隣に住んでいた親友が問う。その通り、目的地までは高速道路を使う。その道中には少しだけナツミが楽しみにしているものがあった。 「うん。瀬戸大橋渡るんよ」 少し得意げに応えれば、友人たちの雰囲気はすぐに和やかなものとなった。彼女たちにとっても、四国は近いわりに未知の地域だ。県同士、海を挟んで隣接していても、交通手段が何かと不便なのだ。 山陽と四国をつなぐ巨大な橋には、皆ちいさな憧れを持っていた。一度は渡ってみたい橋の話題へうまく流れ、彼女たちはナツミの住む場所の話を聞きたがった。ナツミはわかる範囲で話す。ただ、歴史や地理に詳しいナツミでさえ、香川県について知っている情報はとても少ない。歴史好きのナツミからすれば、源氏と平氏がぶつかった屋島の合戦のイメージくらいだ。友人たちに、そうした話はおもしろくないだろう。 「ナツミ、」 話題性があまりない県から会話が途切れそうなところで、母親の声をナツミは拾って振り返った。車に乗って、という合図だ。近所の人たちと挨拶を早々と終わらせていた父親が運転席に乗り込んでいる。ナツミは、友人たちに向き直った。 こうして会うのも、最後になるのだろう。 「もう、行くけん」 「元気にしよってな」 「メールやら手紙やら書くけん。連絡しよって」 「うん、うちも絶対するけん。じゃあね」 「また会お」 「うん」 そしてもう一度、じゃあね、とナツミは返した。弟が友人たちと「バイバーイ」の言い合いをしている。彼女たちは一方でその言葉を使わなかった。それがナツミの密かな救いでもあった。 彼女のくるぶしは、車に向けられた。車は数メートルの距離だ。ナツミはもったいつけずにワゴン車の中に入る。車窓から、彼女たちの姿を探してちいさく手を振った。できることはここまでだ。 母親が後ろのドアを閉めて、助手席に乗り込んだ。ワゴン車のエンジンがかかる。ナツミは気持ちを、すぐ新天地へ向けた。 もう、振り返らない。 車に乗ったら、絶対に振り向かないと、彼女は決めていた。 車窓の風景が動く。発進はゆっくりだ。団地内の私道であることと、急な坂や曲がり角が多いせいだ。その速度が、ナツミにこの土地との思い出を鮮やかに見せていく。 もうこの場所とは、最後なのだ。 しかし、海外に引っ越すわけではなく、来ようと思えばいつでも来れる場所だった。また一人で、訪ればいい。長いこと離れていても、大人になっても、あの中の一人くらい友人として縁が続いていけるはずなのだ。ナツミは感傷を押し返した。 それに、人の死より辛いことなんてないと知っているではないか。生きている限り、また会える。会おうと思えば、会えるのだ。そう思うと、より気が楽になる。 その背中で、騒がしい声が聞こえてきた。 隣で座っていた弟が、とっさに後ろを振り返った。顔が華やぐ。彼は、身を起こして座席に膝を立てた。ナツミは、無意識に弟の視線へ顔を向けた。 そこには、大声をあげながら、ゆっくり走る車を追う、弟の友人たちの姿があった。 隣席の弟が呼応するように、大声を笑いながら手を振る。弟の名を呼びながら、じゃーなー、バイバーイと車内にまで声が届いた。走る彼らから、ナツミはすぐ目を離した。 離したけれど、脳裏に焼き付いてしまっていた。 痛い。 ナツミは、うつむいた。 胸が、痛い。きつく歯をくいしばっても、視界がぼやける。 車は依然、制限速度が設けられている私道を走る。ナツミたちの住んでいた区域は坂のはずれで、公道から最も遠い。小学校三年生の疲れを知らない無邪気さならば、全力疾走で車を見失わずに済むのだ。弟と友達の最後の応戦は、ナツミの隣で続いている。 その彼らの姿が、彼女には耐えられなかった。耳をふさいでうずくまりたかった。胸の痛みはおさまらない。息をするだけでも辛かった。 彼らがナツミの心に呼び寄せたのは、ここでのたくさんの思い出だ。広島では、嫌なことも数多くあったはずだ。しかし今は、すべてが美しくかけがえのないものに感じられる。「別れ」という言葉の重みに、ナツミは押しつぶられそうだった。 泣いたら負けだ。 これからこれを、何度も繰り返すのだ。 彼女は、こんなところで泣いてなんかいられないと、嗚咽を飲んだ。引っ越しは、今にはじまったことではない。そして、まだこれから続くのだ。今日向かう新天地も、住んで二、三年だと親から聞いていた。つまり、またこれを繰り返すのだ。出会いと別れは、無邪気に訪れる。誰が悪いということもない。 慣れなければいけない。どうしても、この痛みに慣れなければいけないと、彼女は瞼を伏せて何度も何度も繰り返した。 同時に、もう追いかけないでほしいと心の中で懇願した。弟と友達たちの最後のやりとりは、気の遠くなるほど長い時間を要したように、ナツミには感じられていた。 早くこの団地を離れてほしい、お願いだから、早く、早く。 弟と友達の最後のときを切り離すつもりはない。ただ、ナツミには耐えられなかった。それが自分の弱さだと、気づきたくなかったのだ。 団地を抜け、公道へ左折した。声が遠くなったのがわかった。弟も声ではなく、手振りで別れを表現していた。この地での生活が、本当に終わったのだ。 彼女は、ようやく安堵にも似た息を吐いた。はじめの赤信号で車が止まる。母親が助手席から振り返った。その声に少しばかり呆れが混ざっていた。 「なっちゃんは、本当に淡泊な子ねえ」 車が動いた。市電が併走する大通りへの坂を降りる。母親にそう思われることは、ナツミにとって光栄だった。表面は平静を装うことに成功したということだ。 しかし、彼女は別れの重みを胸に深々と突き刺していた。もう眺めることのない車窓に顔を向けて、ナツミはじっと涙が乾くのを待った。弟が、母親から渡されたお菓子の袋を、機嫌よく開けている。ナツミが本当の気持ちで言葉を発せられるようになるまでには、本当にたくさん時間が必要だった。 |
... back
|