* 12月のエリカ *


 歩けば歩くほど、明確な足跡が生まれる。サクサクと鳴る音以外に聞こえるものはない。静寂は目覚めたばかりの朝だからに違いなかった。晴天に溶けない雪は、白い砂だ。そのまぶしさに、彩音は自分が長いことうつむいて歩いていたことを知って、顔をあげた。
 木々が音もなく揺れる。彼女の前にそびえたつのは、微動だにしない観覧車だ。ペンキでカラフルに塗られたそれは、窓に雪の滴を張り付かせて時をとめている。さほど大きいものではなく、ゴンドラに乗れる定員も少なそうだ。あっという間に一周しそうな背丈だが、囲む木々よりは高いのだから、景色はそう悪くないだろう。
 遊園地は開園前だ。彩音は今回も、それを残念に思った。時刻を計れるものは、今、手元にない。早朝に違いないと思ったが、日差しは暖かく、彩音の着る厚手のジャケットに太陽の熱がじんわりと通っている。
 もしかしたら開園前の時刻なのではなく、遊園地自体が休園日なのかもしれない。彼女はそう考え直した。しかし、出入り口まで戻って答えを見る気にはなれなかった。ここから一番離れた場所なのだ。振り返ってみれば、彩音の足跡が出入り口の方まで伸びている。やはり、引き返す気にはなれなかった。
 木々に囲まれた彩音のいる区画は、観覧車の他にコーヒーカップがくるくる回るアトラクションや、サーキットに模したカート乗り場などが集まっていた。大人が喜ぶようなアトラクションというより、子供連れの家族が安心して遊べる設計がとられているのだろう。観覧車はその中で一番背の高いものだ。今はすべてが雪をかぶって眠っている。目覚める気がないようにも見えた。
 吐く息に、もやがかかっている。ひんやりした大気に、芳しい森林のにおいが混じっていた。彩音は空気のおいしさに微笑んだ。大きく深呼吸をする。無風の雪景色は、ピカピカと煌めきながら辺りを包み込んでいた。贅沢な静けさだった。心が洗われる世界だ。
 彩音は立ち止まっていた足を、ゆっくり観覧車の間近へ向けた。サクリ、サクリと露をにじませ跡をつくる雪の表情は繊細だ。ブーツを履いてきてよかったと彼女は思う。耐水性の黒いロングブーツは、彩音のお気に入りで冬によく活用している。カカトは低く、エレガントさにかけるものの、底の滑り止めがしっかり機能している。今冬でダメになるかもしれないと思いながらも、三度の冬を乗り越えてくれた。
 白い天然の絨毯を踏み歩く音を奏で、彩音は観覧車前の柵に着いた。鉄の柵は黄色だ。厚く塗装されているようで、彩音の腰よりも低い。ところどころ染みのように色が欠け、中の鉄が見えていた。彼女は指を滑らせ、濡れていないか否かを確かめた。濡れてはいないようだ。
 クルリと振り返って、鉄の柵に腰をかける。景色は何度見渡しても、綺麗という言葉が本当によく似合った。だが、側の観覧車や柵といった人工のものをよく見れてみれば、ペンキが剥げているものばかりだ。思いの他、お年の召した遊園地なのかも、と、彩音が心の中でつぶやく。よくよく考えてみれば、はじめてここを訪れたときから一〇年以上経っているのだ。あっという間だ。年月の流れは、容赦がない。
 それでもこの遊園地は相変わらずの風情で佇んでいた。ペンキが剥げていようとも、変わらないものがあることに彩音はホッとした。
 静かな情景は、ギィ、ゴトンの物音で、ちいさな風を呼び寄せた。彩音は音のする方向に首を向けた。
 観覧車のゴンドラが不自然に動いたのだ。彼女は少し身構えた。前回来たとは、最後まで一人きりだったと記憶していたのだ。今朝は誰か先客がいたのかもしれない。
 それは杞憂だった。
 ゴンドラから出てきたのは犬だった。金に似た色合いのゴールデンレトリバーだ。彼の登場に、彩音の瞳が大きくなり、その表情は明るくなった。彼はすぐ人間を見つけると、彼女の見せた顔と同じ仕草をして駆け寄ってくる。彩音が、腰を掛けていた鉄柵から身体を起こした。
 犬は好きだ。自分で飼うまでには至らなかったが、主人と散歩途中の犬を見ると、彩音はいつも顔をほころばせていた。残念なのは、彩音自身が動物の毛に弱い点だ。家で飼うことになれば、自分の気管支を犠牲にしなければならないことは確実だった。彼女はそれを本当に残念に感じていた。
 だから、近づいてきたゴールデンレトリバーに、彼女は腰を屈め両手を広げて歓迎した。彼は、喜んで彩音の身に飛び込んでくる。抱きつくように触れば、温かさが皮膚を伝った。雪の露を払いのけた毛並みは心地よく、撫でると彼は大きな尻尾を勢いよく振る。
 その口から、何かがポロリと落ちた。犬がうれしさのあまり口を開いたのだ。彩音は、この犬が何かをくわえてきたことをその時に知った。もっと撫でてほしいと彼女のブーツにまとわりつく彼を制し、雪の絨毯に落ちたものを拾う。
 一輪の小花だった。凍える冬には似合わない鮮やかな紅色たちが、細い茎に集まって咲いていた。一吹きの風で儚く消えてしまいそうな可憐な花だ。
 彩音はこの花の名を知っていた。エリカだ。花の見た目に比べ、冬でも咲くことのできる植物だった。この種は厳しい土地でも、しっかり根付いて花を咲かせる。人の手がなくても、咲く花だった。
 しかし、周囲には花が咲くような植物は見当たらない。なぜ、この犬が艶やかな生花をくわえていたのだろう。彼女が意図的な何かを感じたところで、金色の犬は唐突に出入り口へ顔を向けた。彩音が触り直そうとした手をすり抜ける。彼が雪の大地を駆けだした。彩音を見向きもせずに、足跡だけを残して瞬く間にちいさく消えていく。
 動物なのだから仕方がない。彩音は身を起こして一息吐いた。あのゴールデンレトリバーは、何かに呼ばれたのかもしれない。首輪があったかどうかは、見落としていた。しかしあの毛並みならば、飼い主がいるのかもしれない。
 ならばせめて、もう少しだけでも触っておきたかったな。そう彩音は思った。彼女に残されたのは、ちいさな一輪のエリカだけだ。
 一人で情景を楽しんでいたところで出くわした、かわいい侵入者の跡を目で辿る。次第に孤独感が染みてきた。
 この景色はいつ見ても、ものすごく好きだと思えた。けれど、同時に猛烈な寂しさがわき出てくる。綺麗な景色は、綺麗なままだった。彩音の心に関係なく、ただ綺麗なままでそこにあった。彼女の目の前で広がっていながら、彼女を置き去りにして、彼女のことなど気にも留めずに、ただ綺麗なままだ。
 ただ、綺麗なだけの場所だった。
 彩音は孤独だった。痛切に、誰かに会いたいと彼女は思った。前回もそう思って、この遊園地から離れたのだ。自分の居場所ではないと、気づいてしまったからだ。彩音は花を胸にあてて空を見上げた。
 私には結局、この一輪のエリカしかない。



 水音を彼女は耳にした。
 身体をモゾモゾと起こせば、カーテンから薄い光がもれている。月の光ではなく、路地に点る人工灯だ。それ以外は夜目がまだ利かない。彩音は、何度か目を瞬かせた。すると、止まった時間が動くようだ。
 肌に触れる空気が、ぬるく湿っている。六月の雨の夜だった。隣には、毎夜と変わらず娘が眠っている。被っていたタオルケットが、暑さのせいか身から半分ずれている。娘のめくれたパジャマに、彩音は反射的に手を出して整えた。お腹をだして寝れば、前のように風邪を引いてしまう。
 ポツン、ポツンと外壁の向こうで雨がたてる音がしていた。見渡せば二間のちいさな部屋だ。それが、彩音の現実だった。
 彼女はなんともいえず、娘を見下ろした。タオルケットを掛け直した手が、無意識に眠る彼女の指を探していた。手を握る。眠り姫の皮膚は無防備で温かい。
 あの夢の情景を、彩音は忘れていなかった。前も、同じようにこの時期に見た夢だった。あのときは、隣で眠る彼女がおなかの中にいた。彩音が今までの人生の中で、一番悩んでいた時期だった。息をするのも苦しかった。ひとつの生と死を、この手で選ばなければならなかったのだ。
 その中で、夢を見た。ちいさな雪原の遊園地だ。そして、花を拾ったのだ。彩音は、その夢から目覚めた年の十二月、娘に恵理花と名付けた。
 十二年ぶりに訪れたあの場所は、変わり映えなく佇んでいた。変わる素振りさえ見せず、ただただ綺麗な場所だった。しかし、十二年前より少しだけうらぶれた感じが、あの場所が時をとめた夢の中の場所ではないと教えていた。もしかしたら、どこかにあるのだろう。彩音たちが自力では行けないだけで、どこかに存在しているのかもしれない。
 十二年前も、ずっと居たいと願った場所だった。誰も彩音を傷つけず、悩んだり苦しんだり、とてもつない大きなものを決断する必要も、背負い込む義務もなかった。彩音しか、そこに生きるものの存在がなかったからだ。花を拾い、夕暮れまで幸せな気持ちで、静かな遊園地を散歩した。暖色を帯びた空を見て、彼女は目を覚ました。あの空を目にして、綺麗なだけでは寂しいことに気づいてしまったのだ。
 今思い返してみても、生きる日々の現実は相も変わらず、虚しいことや悲しいことがたくさんあった。唯一の娘は支えになるだけのものではなく、毎日のように言い合いをしているし、憤ることも泣きたい気分になることも少なくなかった。様々なことが目まぐるしく起こり、頭痛の種は解決した分だけ増えていく。それが、彩音の十二年駆けた日常だ。お世辞にも美しいといえる生活ではない。
 しかし、凍るような寂しさは不思議と一度も感じたことはなかった。それが心からの救いだった。そして、その原動力が、結局のところ彼女だったのだ。
 母親は握る手を、見つめた。熟睡しているはずの恵理花が握き返した。その感触があったのだ。彩音は、降りやまぬ雨の内で微笑んだ。
 そして、この子の母親になれてよかったと思った。



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