* 冬のドルチェ * |
最後の問いに対する答えを書き終え、尚希はシャープペンシルを置いた。安堵の息を吐き出せば、無意識に張っていた肩の力が抜けていく。 課題提出期日より二日も早く終えた事実は、心のゆとりをより一層広げ、そればかりか解答を見直す気力も奪っていった。自力でこなしただけ、もう十分だろう。化学の授業で配布された課題は、これで片がついたことにする。来年の大学受験対策を意識して手渡されたプリントの枚数に、取り掛かるまでは軽い憂鬱感を引きずっていたものの、終えてみればたいしたことはなかった。基礎の化学式さえ覚えていれば解けるものばかりで、暗記ものが得意な尚希には有利な内容といえた。 提出期日は明後日と、時間にまだ余裕はあったが、尚希は暇のある今日中に課題を片付けておきたかった。野球部というハードな部活動を選択している以上、有効的に時間を活用したほうがいい。後回しにしていると、授業直前に誰かから課題を写させてもらうパターンに陥るのが関の山だからだ。 それに尚希は、独力でこなすほうが確実に身になることも経験から理解っていた。勉強もスポーツも、小さな積み重ねから結果につながっていくことを考えれば、結局は同じだ。机に向かって黙々と問題を解くことは、部活の習練よりもはるかに面倒ではある。しかし、尚希は不思議と手を抜く気になれなかった。テスト前以外は予習復習を一切しない性格でもあるのだから、出された課題くらいはせめて自分の手で仕上げなければ、という妙な義務感も付随していた。 どちらにせよ、高校の野球部に入部してから時間の使い方が格段にうまくなっている。尚希は、そんな小さな満足感に浸りながら外を見た。帰宅部を選んでいたら、ぎりぎりまで課題に見向きもしなかったはずだ。 冷ややかな空気が、闇に染まる窓を滑った。ガラス戸の先に映る景色は白い。夜の暗さを背景に、降る雪の色は鮮やかに映えている。 雪の類の中でも、ぼた雪と称される、積もるための雪だ。それは、数時間前から途切れることなく、今も降り続いている。この雪のせいで、部活動は暮れも経たない間に切り上げられ、大半の野球部員が家路を急いだのだ。 夜半前の住宅街は平穏を象っている。帰宅してから外に出ていない尚希でも、積雪量はすでに数センチの域を超えていると判断できた。家の近くに広大な面積を有する田園があるが、この降り様では、一面が真っ白なキャンバスとなっているのだろう。敷き詰められた白は、かすかに光を内包している。それを雲が反射して、夜を一層曖昧にする。紺よりも薄く広げられた空は、そうして真冬だけの特別な色彩をつくるのだ。 尚希は、この雪を厭んではいなかった。積もる雪ならば尚更だ。冷えた窓が暖かい室温を押し下げる原因になっていたとしても、厚いカーテンで外界を遮断する気にはなれなかった。 枠にはめられたガラスはかすかに曇り、室内を鏡のように映している。それは黒を背景にして、色濃い部分へ雪が落ちる。 雪降る様は、尚希にとって今でも不思議と見飽きないものだった。幼い頃は、それこそ寒さを気にもせず窓を開け放ち、手をかざしたものだった。 首都に近く、ベッドタウンとして機能しているこの街の積雪量はさほど多くない。だからこそ、雪は物珍しい事象のひとつで、子どもたちは降り積もった雪を総じて喜んだ。翌日雪のせいで大好きな野球ができなかろうが、水はけの悪いグラウンドに後日悩まされようが、そんなことは軽く吹き飛ぶほど、雪は特別な存在だった。今も変わらず、雪景色は尚希にとって好ましい風景のひとつだ。その景色ひとつだけで、思い浮かぶ記憶は少なくない。 中でも一番焼きついているのは、物心がついた頃に見た真っ白な雪原だ。雪原といっても、豪雪地帯や北国で見たものではない。家の近くにある、だだっ広い田園で見たものだ。 埼玉県でも比較的有名な田園風景は、半分以上が畑に替えられているものの、開発されることなく県の財産として残されていた。一二〇〇エーカーにも渡って遮るものがない光景は、ここら地域に数多の自然の恩恵を与えてきた。 他の地域から来た大多数の人間は、都心近くにまだこんな景色が残っているのかと、あまりののどかさに驚くものだが、この地に生まれ育った者にとっては親しみを通り越した、退屈なほどあたりまえの風景だ。自転車で田園のほうへ向かえば、カブトムシやクワガタは探さなくても大概出逢えたし、四季を感じる花々やさまざな鳥の往来が今も姿を変えずに巡っている。 しかし、あたりまえの風景が、あたりまえではなくなった瞬間があった。それが、雪原に変わったときだった。彼方まで白銀で覆いつくされた大地は、快晴の朝に照らされ、きらめいていた。尚希は、そのときに雪をはじめて見たわけではなかった。しかし、その風景をはじめて眺めたあのときの尚希は、まるで知らない場所のようだと驚きに震え立ち尽くしていた。突き抜けた白と蒼のコントラストに圧倒されたのだ。 そして、思った。汚れもなくどこまでも真っ白な新雪を、誰よりも早く踏んで自分の足跡をつけたい。足跡がつけられたら、どれだけ嬉しく誇れる気持ちになるのだろう。それは、幼心に浮かんだ純粋な願いでもあった。 しかし、見た目は真っ白な雪原でも、その下にある土地は大人が管理する畑や田んぼであり、そのような無体は叶わなかった。大人たちに叱られることを覚悟して足を踏み入れたところで、雪に隠れた溝に嵌るか、どろどろになってしまうだけだろう。 そのことを幼い頃から知っていた尚希は、願った気持ちを公にせず、空き地や公園に積もる新雪で晴らした。誰よりも早く足跡をつけるために、雪の積もる頃合を見て外を飛び出すこともあった。特に、はじめて夜に家飛び出して踏んだ雪の跡を覚えている。 あのときからずいぶん時は過ぎたが、今も変わらない風景がある。 尚希は窓から目を逸らし、課題プリントを片づけることにした。明日のうちに自分の机の中へ突っ込んでおけば、提出時にプリントを探し漁らずに済む。妥当な判断とともに、椅子に座ったまま手を伸ばして、ベッドに投げ出してあった通学用のナップサックを引き寄せた。軽い中身に、化学の課題のほか必要な教材を詰めていく。その動作の最中、尚希は漠然と思っていた。そろそろ、来るころだ。 この雪に、何かを思い起こすのは、自分だけではないと知っている。 その思いのとおり、机からカタカタと振動する音が聞こえてきた。携帯電話のバイブだ。着信は、見なくてもわかっていた。他校に通う、ひとつ上の幼馴染に違いない。 数コール分の振動に目を留めて手に取るときには、尚希の頬は意識なく緩んでいた。 『尚希、今ヒマ? 新雪踏みにいかね?』 濡れても気にならない時分は、スニーカーを履く。嫌なときは、親が雪かきのときに使うゴム製の長靴がベストだ。降る雪が重い夜は、決まって傘を差して、近くの空き地まで足跡を重ねていく。 しんしんと降る雪にたたずむもうひとつの傘が、尚希を見つけて笑顔を向けた。 「おー、草介……ってなにまだセーフク着てんの?、そんなんで寒くね?」 「いや、ホッカイロ張ってんだよ背中に。予備にイッコあんだけど、尚希いる?」 「いる。つか、今日の雪スゲーな!」 「マジ。この時間じゃ人もいねーし、これ踏みがいあるって絶対!」 「……だな 」 久しぶりに見た草介の屈託ない表情に、尚希の肩の力も抜けていく。幼い頃から変わらず冬だけが放つ感覚を、彼はその胸一身によみがえらせた。 |
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