* My only season * |
石造りの強硬で高い建物たちの隙間から、白いまん丸の月が見えた。朝から昼を跨ぎ降り続いていた雨は、大気に漂うくすみをすべて取り払っていたようだ。街灯が多々に灯る都会で、星は強い輝きを放つものたちしか地上に存在を伝えていない。ローマという、世界で名だたるイタリアの首都は、中心部に近づくほど空気も悪く、夜の星は大概が正体を失っていた。 なつみは、一回りした季節を踏み歩いていた。曲がったばかりの大通りは、真っ直ぐ進めば古代の城壁にぶち当たる。ローマの中心部には、いまだ背高い塀が張り巡らされ、あちらこちらに遺跡の欠片が土地を占拠していた。なつみがはじめてローマを訪れたのは、学生時代だ。古代、中世、現代の人工建築物が共存する街を見て、自分が歴史の上に成り立っているという、当たり前のことに気づかされた。それは彼女にとって、言葉を失うほど衝撃的な出来事だった。 しかし、この街に住むようになってからは、世界遺産の街がすっかり彼女の身に馴染んでいた。今は有名な教会や遺跡、ミュージアムが少ない住宅街に住んで、不自由なく生活できている。 彼女が海外に住んだ理由は、訊かれれば多く答えられたものの、どれも確実さに欠けていた。なつみはイタリア以外の欧州国を旅行したことは何度もある。だが、数あるヨーロッパの街を訪れ、強く衝撃を受けたくらいで住んでみようとまでは思わないものだ。 彼女自身、自分なりのこの街に住む理由を見つけようとしては、考えを何度も白紙にしていた。いずれ、この街を離れ時間が経ったときに判ることだ。幼少時代から、転校を繰り返していた彼女なりの哲学だった。答えはいつも、現在進行形の状態で「絶対」とはいえない。どれも過去になってから、善し悪しに気づくものだった。一辺倒な考え方になることだけは避けたくて、最近はそうしたことを考えないようにしていた。 晩秋の夜空は、一皮むけたような輝き方をしている。それは日本もイタリアも変わらない。今夜の空も、月が煌々と輝いていることになつみは気づいていた。夏が終わった空で、日本人が月見をするのは必然のようにも感じていた。日本の情緒がどうしようもなく好きだと、彼女は海外に住んで思い知ったのだ。帰国する日も遠くないだろう。なつみは、自分のことながら薄々とそう感じているところだ。 濡れたままの石畳の道に、一筋の風が通った。石畳の多い街は底冷えが厳しい。なつみは厚手のジャケットを着ていたが、寒気に逆らえず身震いを起こした。マフラーも巻いて外出すべきだったのかもしれない。そう、彼女は外出前の判断を悔やむ。冬のローマは、隙をつくるとすぐに身体が冷えてしまうのだ。暖かいであろうアパルタメントの室内を想う。大抵のアパルタメントがそうであるように、なつみの住居も共同暖房である。暖房が稼働している時間帯はあらかじめ決められており、家人がいなくてもその時間内は部屋が暖められている仕組みになっていた。 「ナツミ、寒い?」 少し心配したイタリア語が、なつみの脳内で自動的に和訳されていた。隣を歩くのは、家主のアンナだ。心配性の彼女に、なつみはかかさず「寒くないよ」と、彼女にわかる言語で答えほほえんだ。同じ背丈のアンナを見れば、息が白い。ローマの雨上がりは特に寒い。空気が急速に乾燥するからなのだろう。 アンナは、なつみの言葉に安心して前方に視線を戻した。彼女も同様に、厚みのあるジャケットをまとっている。上げたジッパーにかけた老眼鏡がトレードマークだ。 なつみは彼女の家で長い期間を共に過ごしていた。欧米では一般的な、部屋の間借りというスタイルで住まわせてもらっている。アンナは、なつみの家主でもありながら、親子ほど年齢が離れている数少ない友人となっていた。 彼女との出会いによって、なつみはイタリアの地に足が着いた。そういっていいほど、アンナとの出会いで異国の生活は一変した。彼女と暮らすことで、西洋の価値観や習慣をすんなり受け入れられるようになったのだ。 そして、ベースとなる言語の習得も自然になった。不思議なもので、言語は学ぶという意識で向き合うよりも、慣れるという捉え方で使うほうがうまく身になってくれるのだ。今やなつみの話し癖は、アンナとそっくりとなってしまっていた。子どもが母親の口振りを真似るのとまるで同じだ。 アンナはイタリア人だ。日本人のなつみとは、生活習慣も考え方も違う。積み重ねた文化が、あまりにも異なっているのだ。なつみが言語の取得に苦労したのは、日本在住時代にイタリア語の勉強をまともにこなしたことがなかったことと、イタリア語は英語と似ている部分が少ない点にある。それ以上に、欧米人の物事の捉え方の差異に彼女は気がついていなかった。その導入口を、現住居に引っ越すまで掴めず、なつみは疲弊していた。アンナは、そんななつみに手を差し伸べた。彼女がなつみにとって、イタリア語の玄関口になったのだ。 アンナと一緒の家に暮らしてすぐ、なつみはおもしろいことに気づいていた。アンナの考えていることを、なぜかすべて言い当てることができるのだ。はじめて会ったときから、どこかパズルのピースがかみ合ったような不思議な感覚があった。それは、今確信に変わっている。アンナのほうも、それに近い感触をなつみに持っているようだった。 二人はある領域で、とてもよく似ていた。 路地に入ってから見えなくなっていた月が、歩調に併せてゆるりと現れた。なつみが見上げれば、真っ白な満月が空に点灯している。クレーターのくぼみまで映す鮮やかな白だ。瞳が奪われていた。 「わあ、見てナツミ」 アンナが、唐突になつみの名を呼んだ。 「今夜の月は、信じられない。まん丸で、真っ白で、すごくきれい!」 彼女も同様に空を見上げていた。なつみは「うん、本当だ」と、声にした。先にその月を見つけたのは、なつみだった。この月を見つけて、アンナがとても喜ぶような美しい月だと、真っ先に思ったのだ。 「私は、夜空を見上げるのが好きなの。いつも月を探すのよ」 少女のように、瞳を輝かせてアンナは空を見上げていた。彼女がそう口にしたことで、なつみには、白い月が一層美しくかたちどられていった。彼女の言葉は魔法だ。月のながめかたが合わさっていくようだ。 「本当に、こんな白くてきれいな月、」 「恋してしまうわ」 アンナが、なつみの言葉に重なった。本当に恋してしまうと、なつみは思った。情緒を重んじる彼女は、琴線に触れる色彩に出逢うと、必ずなつみを呼んで詩的な言葉を紡いだ。その感性を、なつみはとりわけて好きだった。何度もマリーに恋してしまうと思うのだ。 大通りに続く道を、月に向け歩いていく。なつみはその月を見ながら、そう遠くはない彼女との別れの時を、ふと想像した。本音をいえば、アンナを母国につれて帰りたい。しかし、そんなことはなつみの独断でできるはずがない。 名残惜しく感じながらも、自分の意志で母国を選ぶときが訪れるのだろう。なつみの胸に、母国で挑戦してみたいことがかすかに芽生えている。だからこそ、アンナと別れる時は必ずやって来るのだ。 「本当に、白くてきれい」 アンナが、独り言のように繰り返した。なつみは月をながめた。こうした夜の散歩は、はじめてではない。アンナに誘われて、いろんな夜を共に歩いていた。今夜も、その中の一風景だ。 けれど、なつみはこの風景を忘れないと思った。母国でも見られるまん丸の白い月だ。少ない星の瞬きだ。しかし、見えない星々は、同じように空の彼方で満点の光を放つ。日本に戻っても、このことを忘れることはないだろう。 そしてアンナを想う時は、八時間遅れの月を探すのだ。 |
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