* 桜満筒 * |
ドアを開いた佳菜は、すぐに部屋の中を見渡していた。 一番乗りなのね。心の呟きは、声の代わりにため息となった。手前の通路で知り合いの美術担当と挨拶はしたこともあり、時刻も場所も間違ってはいないのだろう。佳菜が現状をそう片付けながらドアを閉める。もとより壁に掛かる時計の針は、集合時間の半刻ほど前をさしていた。参加メンバーの誰も到着していないということは、当然としてあり得ることである。 会議室と称された室内は、幅のある机のほか、床にさまざまな用具が通り道を狭めている。長机とパイプ椅子が存在していなければ、ただの物置部屋だ。今日は新しい舞台の打ち合わせを詰めることになっていた。いつもの佳菜は、その集合時刻をぎりぎりに駆け込むタイプだ。 今日は三〇分も早く着いてしまった。行きがてら寄り道しようと決めていた店が、たまたま臨時休業していたせいだ。他の買い物をすることも考えたものの、時間は限られる。さらに軽度の花粉症持ちでありながら、花粉予防薬を飲み忘れてしまったことが、佳菜を集合場所へ直行させる大きな原因にもなった。マスクを買うことも考えたが、化粧をしていることからあまり気が進まなかった。 どちらにせよ、早く着いたところですることもない。佳菜は部屋に入ると、テーブル脇の椅子にバッグを置いた。花柄の肩掛けで、先日買ったばかりのものだ。殺風景な部屋に色に映える。卓上には、資料や本などの物が散らかったままで放置されていた。プリントアウトされた資料を一部目に通せば、自分たちと関係ないものであるとすぐ知れる。佳菜は仕方なくテーブル上を整理することからはじめることにした。 テーブルは大きなものを数台あわせており、会議室の名どおり部屋を陣取っている。紙や本ばかりが広がる中で、佳菜の視線はひとつのところに留まった。その先には、カラフルな筒缶が転がっている。雑然とした部屋の雑然としたテーブルに、ピンクの頭がついた缶は少し不気味な印象だった。視力があまり良くない佳菜には、書かれてある文字が見えない。しかしかたちからして、どう考えてもスプレー缶のようである。 佳菜は場を少し移動する。大きな字で商品名が書かれていたが、佳菜にはそれが何かは検討がつかなかった。転がるスプレー缶を、彼女は暇から生まれた興味で手にとってみた。思いのほか、そのもの自体は軽い。ネーミングから何かは想像できないものの、どこかに用途が書かれているはずだ。詳細事項は、すぐに見つかった。 ……桜の匂いの消臭剤、と、明記されている。 消臭剤や芳香剤といった類にあまり詳しくない佳菜だったが、桜の花の匂いがする消臭剤というものは聞いたことがなかった。どちらにせよ、たかがスプレー缶である。何一つおもしろいポイントはなく、途端に興味を失う。そのタイミングで、ドアが開いた。 佳菜が何気なく眼を向けると、伊達眼鏡をかけた長身の女性が中に入ってくる。すぐに眼が合った。劇団で先輩にあたる咲子だ。 「あら、おはよう。今日は佳菜ちゃん早いんだね」 朗らかに声をかけてきた咲子は、佳菜が持っているものに気づいたようだ。彼女は続けて、それはなあに、と、訊いてきた。目立つ色合いに、早速興味をもったらしい。佳菜は、近づく咲子にスプレー缶を手渡した。 「なんか、桜の……」 咲子も佳菜と同じように、真っ先にラベルを探す。 「ん、消臭スプレーじゃん。ほんとだ、桜って書いてある。……桜の匂いの消臭剤って珍しいんじゃない?」 そんなことを言いながら、ピンク色のキャップを開けた。そして躊躇いなく、咲子は自分の顔の間近でスプレーを押す。シューという独特な音を立てて、かすかなもやが噴射された。 「……確かに、桜っぽい匂いがするのかな」 彼女は微妙な感想を述べて、促すように佳菜にスプレー缶を返した。 それに倣い、佳菜も間近で消臭剤の匂いを嗅いでみることにする。そもそも桜の匂いはどのようなものだったか。という以前に、桜に香りなんてあっただろうか。 消臭剤が正しい桜の匂いかどうかよりも、桜がどういう匂いを発するのかに重きが向いていた。しかし咲子と同じように噴射しても、いまいち匂いを感じることができない。花粉症のせいで嗅覚が鈍っているのかもしれない。 佳菜は、シューシューと何度もスプレーを押した。すると、次第になんとなく花の匂いがしてきたように思えてくる。つかみにくい不思議な芳香だ。花の匂いというより、食べ物の匂いをなぜか髣髴とさせる。 スプレー缶ひとつで、困難な壁にぶち当たったかのように固まる佳菜の耳に、再びドアの開く音が聴こえてきた。 「うわ、くさっっ! なにコレ!!」 開口一番の呻きは、女座長の真奈美の声だ。その言葉で、佳菜は自分が部屋に桜とおぼしき匂いを充満させていたことを思い知る。知らない間に、噴射しすぎていたらしい。眉を寄せてしばしドアの入り口で立ち止まっている真奈美は、犯人が後輩の佳菜だとすぐに気づくだろう。 佳菜は無意識に助けを求める困った顔で咲子を見る。咲子は真由美の押さえ役だ。しかし、そんな佳菜のことは露知らず、彼女は「そうだ真由美、今年も花見しようね」と、楽しそうに二人を交互に見て微笑んでいた。 |
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