* スカイピクニック *


 日光がガラスの壁に当たって瞬く間にこぼれた。未波はコンビニエンスストアの内角で雑誌を片手に、腕時計を覗いて溜息をつく。水曜日は、一時限目から未波が厭う数学Bだ。時刻は九時五分。彼女が通う私立の女子高では、すでに授業がはじまっている。
 数学担当の先生は遅刻にうるさく、彼女は電車を一本乗り遅れた時点で一時限目を捨てることにしていた。宿題が出れば友人に聞けばいい。科目の単位取得についても、毎度欠かさず計算しているのだ。数学は後四回欠席扱いになっても、単位への影響を受けない。
 未波は、二時限目前の休憩時間を待っていた。校舎に堂々と向かえるのは、授業の合間に設定された一〇分休憩中だ。そもそも遅刻の常習犯である彼女にとって、授業中の校内を歩くことへの躊躇いは持ち合わせていなかった。だが、中途半端な時間に教室へ辿り着いても、トイレにこもって授業終了まで待つのが関の山だ。遅刻やサボタージュは未波にとってはじめてのことではなく、授業のやりくりも心得ている。
 だからこそ、今はどこかで時間つぶしをするに限るのだ。彼女は微妙な頃合いに痺れを切らして、立ち読んでいた雑誌を閉じた。菓子コーナーへ戻って、もう一度陳列内容を確認する。棚の両サイドに揃うお菓子の種類は多い。入れ替えも激しかったが、未波の好きなものは高校に入学してからも変わらない。目星はすでにつけていた。
 薄焼きせんべいに、エチケット用も兼ねたミント味のタブレット。お菓子選びの前提として、チョコ系は外していた。今日の最高気温は特別高いと、天気予報が伝えていたせいだ。実際に朝の時点で、体感気温は昨日に比べ明らかに上がっている。鞄の中でチョコレートが溶けてしまうことだけは、未波としても避けたかった。
 店内は微弱な冷房が効いているようだった。衣替え週間の初日に新しい夏服をおろしている未波だが、寒さ対策に脱ぎ着の楽なカーディガンを羽織っている。どれだけ寒かろうが、どこへ向かうにもうざったくて仕方ないジャンパースカートの冬制服よりも、夏服のほうが着心地と見映えはいい。しかも夏服は、都内の女子高生の中でも好評だった。白が基調の涼しげなセーラー服だ。未波だけでなく、多くの女生徒が極力夏服を着て通学していた。
 夏服に切り替わった頃は、外へ出向くのが少しだけ楽しい。しかし、そう思えるのははじめの二週間が限度だ。人気のある制服の型に少し誇らしい気持ちになるが、向かう先は規律ばかりがうるさい女の園だった。長い通学時間と密閉率の高い電車、それに単調な授業を思い出すだけで、簡単に未波の足が遠ざかる。クラスの担任教師は、すでに未波の遅刻癖を咎める気はなくなっているようだ。未波にとってはありがたいことである。
 一方で彼女のルーズさを、内部の大学進学を目指す同級生たちは陰で卑下していた。女子の陰気さを、未波は中学時代からよく知っている。表向きは愛想が良いクラスメイトたちが、陰で何を思っているのか、未波はすでに友人づてで何度も聞いていた。嫌いな人種の陰口を気にするほど彼女の神経はか細くなく、友達づくりで人をよく選んでいる。仲の良い先輩も多いせいか、最近ではクラス内で恐れられはじめていることも知っていた。恐れられているくらいのほうが、気持ち的に楽だ。クラスは今のところ、前よりも居心地が良い。
 もう一度雑誌棚に戻って、ファッション誌でも読もうか。未波は飲み物とお菓子代を頭で計算しながら、肩からずり落ちた鞄をかけ直す。合皮革のよれた黒鞄の中は、宿題に使った教科書とノート、筆記用具しか入っていない。通勤列車で社会人に迷惑な顔をされてまで、大きな鞄を持つつもりはなかった。
 雑誌を買っちゃうと、学食のお金がなくなるもんなあ。
「ミナミじゃん。おはよ」
 右にある飲料コーナー側から聞きなれた声がして、未波は考え事から離れて振り向いた。同じようにセーラー服と紺の指定カーディガンを着た女子高生が立っている。去年一緒のクラスだった菜摘だった。今は進路の違いでクラスが離れている。気の知れた友人だった。物事の捉え方が似ている相手で、遅刻常習犯であるところも一緒だ。
「あ、ナッちゃん、オハヨウ」
「つか、今日けっこう来んの早くない?」
 菜摘がそう言いながら、ミネラルウォーターを持って未波の隣に立つ。菓子棚に向いた。今日の彼女は、愛用の眼鏡を外してコンタクトレンズにしているようだ。見た目が大人しそうな顔立ちなので、誰もがはじめの印象にだまされる。菜摘の奔放さは先生たちにも一目置かれているところで、学年関係なく味方がいた。生徒会に入っていることもあるのだろう。未波は彼女の外見と中身のギャップがとても好きだった。
「うん、でもまだ授業やってんじゃん。入るの気まずいし、暇でさあ」
「だよねえ。そっち、一時限目は?」
 会話がはじまった中でも、菜摘はマイペースにポテトチップスの袋やチョコ菓子を手にしていく。
「数学。つうか、それってお互いさまじゃね? ナッちゃんは、一時限目出んの?」
「出るわけないじゃん。今日は朝から古文、体育、英語エーゴの最悪コンボだよ? 一番出る気しないって。今日は四時限目が終わるまで、屋上でごろごろしようと思ってさ」
 未波が通う高校校舎の屋上は、常時立ち入り禁止で鍵がかけられている。しかし、いくつかある校舎の中で唯一上がっても許される屋上があった。あまり知られていない場所だ。図書室奥にある中二階の会議室窓から、屋上へ出られるのである。
 それを見つけたのは、一年生だったときの未波と菜摘だ。テスト前週間の頃だった。当時の二人は、他の友人数名とお互いの得意教科を補う名目で、図書室へ出向いていた。しかし、屋上を見つけたことで勉強会が台無しになったのである。そのときから、ともに勉学を励むことは諦めていた。未波と菜摘が揃えば、遊ぶことしか考えなくなってしまうからだ。共通の友人からも一緒の勉強会に参加することを禁止されるほどだった。
 学年が上がってから一度も訪れていなかった場所に、未波は懐かしい響きを感じて口を開いた。
「屋上かあ。でも、なんでよ突然、こんな早く来る必要ないじゃん」
 何時間屋上にいるつもりなのか。未波が訝しげに訊き返す。菜摘は、だって、と、棚から目を離して、未波に向き直った。
「空が青いんだもん」
 店内に朝の日光がチカリと瞬いた。未波は梅雨明けを伝える報道を思い出した。
 だから今日はこんなに身体が軽いのか。自宅を出て最寄り駅に向かうまで、未波は頭上に広がる青い空を見ていたのだ。通勤列車の人ゴミに埋もれて、すっかり忘れてしまっていた。
 コンビニエンスストアの窓から見える青の色合いは、あのときよりも濃く染まっている。未波は好きなチョコ菓子を手にとった。こうした晴天の日は、教室という檻に籠もるよりも大切なことがある。オトナたちはそれを忘れているのだ。
「ねえ、ナッちゃん。私も連れてってよ」
 屋上という響きが恋しい。中だるみの水曜日を、空の色で染めたかった。おそらく、菜摘もそう思っているはずだ。
「いいよー。一人より二人のほうが楽しいし」
 両手に食べきれないほどのお菓子を抱えた菜摘が、未波の思いに答えるように笑っていた。



... back