* リップサービス *


「うう、なんか寒くない?」  前かがみになる半袖のハツキに、茶髪のメイコが肩をすくめていた。
「衣替えだからって、上着持ってこなかったあんたが悪いんじゃない」
 一週間続いた曇りが明ければ、月は半分に欠けていた。昼時はまるで夏が訪れたように暑かったが、いまは涼しい闇に包まれている。
「今日、朝あったかかったんだよ!」
「まだ夜は寒くなるじゃん」
「だって、そこまで考えてなかったの!」
「バカだねー」
「すっげームカツクんだけど」
 夏制服の衣替え週間がはじまって三日目のハツキは、二歩後ろを歩いていたメイコを振り返って睨む。メイコは予備校の教室を出る前に、一枚長袖を着付けていた。
 紺色のカーディガンは夏のセーラー服にあう。二人の通う私立女子高校で一番自慢できるものは、毎日着付ける夏服だった。夏は制服を着て高校に行きたくなるのだから、着るものは重要だ。冬服は個性が埋没するどころか、野暮ったくて重いだけで学校に行く気も萎える。今時ジャンパースカートの制服は流行らない。
 その冬服だが、どうやら来年あたりに制服が一新するかもしれないという情報が、生徒会に在する友人を経由してハツキの耳に届いていた。それが本当ならばありがたい。可愛いものに変わるのならば、意気込んでセーラー服仕様に変えなくてもよくなる。冬服は嫌いなのだ。
 今のところ寒くても半袖のセーラー服は譲れない。とはいえ、ハツキは予想外の初夏の寒さに勝てなかった。黒の学校指定鞄を肩にかけ、両手で腕をこすっても鳥肌は消えない。熱を発しても、たちまち身体から抜けていくようだ。予備校帰りの道は明るさに乏しく自動販売機もない。温かいものが飲みたいなら、走って帰宅するのが一番だった。
 目の前のメイコが、歩調を緩めてバッグを見やっている。
「ムカつかれてもねえ。そうだ、バッグにジャージあったかも。着る?」
「うーん、ジャージかあ」
「それよりポニーテール落として、髪で首覆っちゃうとかさあ」
「ええー、ポニテの跡残るし」
「じゃ、我慢しろよ」
「するよ。してんじゃん。でも寒いんだもん!」
 ハツキのために自らのバッグをあさっていたメイコは、うんざりした顔で歩きながらチャックに手をかけた。寒い寒いと傍に寄ってきたハツキが、その腕に両手をピトッとくっつける。
「ハツキ邪魔」
「メイちゃん、あったかーい。手、おてて触らせて」
「なんだよ、もう」
 黒鞄を閉めた片手がハツキの前に差し出された。メイコのやさしさを両手で嬉しそうに包む。途端に彼女は顔をしかめた。
「冷たッ!」
「ね、ね? 私のキモチわかった? 寒いんだよお」
「ちょっと手だけって言ってたじゃん」
「腕のところもあったかーい。ほっぺ、ほっぺ!」
 目をきらきらさせて乞うものではない。無邪気な幼なじみのおねだりにメイコが立ち止まって、慣れた手つきでハツキの片頬に触れてくる。ハツキは目を閉じて享受した。温かくて安心するのだ。しかし、その指が時々ハツキを攻撃する。メイコはすぐにハツキの皮膚をつねりだした。
「イヘッ!」
 わかっていても、驚いたように目を開くハツキに、メイコは不遜な笑みで見据えていた。
「ひどッ! メイコひどい! サイテー!」
 視点はメイコのほうが少しだけ高い。ハツキの顔でムカツクと主張する。
「ふーん、だ。走って帰れよ」
「おまえほんとムカツクなー」
「でもほんと、風邪引くよ」
「いいよ、もう」
 むう、と、妙な声を発して黙り込んだハツキがとぼとぼ歩く。ムカつかれても、明日はムカつき返す。一緒にいれば日に一度どちらかがこうして悪ふざけをするのだ。昨日はハツキが悪ノリして、メイコを怒らせた。互い何かを試しているように繰り返す。
 おそらく、本当に互いを試しているのだ。
 ハツキは俯いて歩く。メイコが隣を歩いているのは知っていた。寒さに耐えるため、黒の鞄を抱きしめる。中身は予備校で使う教材以外はいっていない。テスト週間はまだ遠く、教科書とノートは高校のロッカーと机の中に全部突っ込んでしまっている。メイコが見たら、叱るくらい乱雑に押し込まれていた。メイコはハツキの教室をまだ見たことがない。下校時に迎えに行くのはハツキの役割だからだ。
 メイコとハツキは、二年に進級してクラスが変わった。それは二人にとって、はじめての経験だった。小学校五年生のときに出会ってから、高校一年になるまで一度もクラスを違えたことはなかったのだ。周囲には奇跡と称されたが、二人にとってはそれが当たり前だった。
 しかしクラスが違ったところで、登下校はほぼ同じで通う予備校の講義も同じだ。一緒にいても飽きないから傍にいる。けれど、二年になってから互いの感情を試すようになってきていた。
「ねえ、ハツキ、」
 耳慣れた声に呼ばれて顔を向ける。外灯の近くで、一軒家の多い住宅街は食べ物の匂いを忍ばせた。先に家に着くのはハツキだ。メイコにとって、この通学路は少々遠回りになっている。
 その彼女が、再度バッグの中をあさっている。ハツキはその様子に足を止めた。背筋に風が当たって、ビクッと身が動いた。
「どしたの。ちょー寒いんだけど……」
「あんた、くちびる荒れてるよ。すっごい気になるの」
 寒さで粘膜も逆立ったのだ。そうとしか思えず、ハツキはくちびるを噛んだ。メイコはそういうことを気にする女子だった。
「帰ってリップ塗るもん。寒いから荒れてんだよ」
「あったリップ。いま塗るよ。ほらハツキ、顔上げて」
 メイコが保湿リップクリームのキャップを抜いて、ハツキの肩をつかむ。胸を弾ませたハツキは、気を引き締めてくちびるを噤んだ。幼なじみのメイコは無邪気だ。人の気を知らないで、リップクリームをくちびるに近づける。
「少し口開けてよ」
 ハツキは言われたとおりにして、ギュッと目をつむった。リップクリームの感触が下くちびるのかたちに沿って緩く動く。それはすぐに離れ、ハツキは上くちびるを重ねてこすりあわせた。甘い香りがくちびるに乗った。
 目を開ければ、メイコが自分のくちびるにリップクリームを塗っていた。用が終われば、パチン、と、蓋を閉める音がする。
「ハツキちゃんと間接キスだー」
「バッ、バッカじゃないの!」
「なに声あげてんの。いまさらじゃん」
 呆れた声に、ハツキは鞄を持ち上げて顔を埋める。意識しなくても俯いてしまった顔を、メイコが少し困った顔で覗き込んだ。ゴメン、と、ちいさくつぶやく。
「メイコ、なんか言った?」
 くぐもったハツキの声に、メイコは顔を横に振る。聞こえていても、その意味に気づいてもメイコは知らないふりをするつもりなのだろう。
「なんにも。ハツキ、家だよ。また明日、朝ね!」
 メイコの声にハツキは顔を上げる。彼女が言ったとおり、自宅に着いたのだ。こうなれば、ハツキは帰路を進むメイコを門扉前で見つめるしかない。
「明日ね! 気をつけて帰ってよ!」
 その言葉に、彼女は少し振り返って軽く手を振る。消えていくセミロングの茶髪姿が恋しい。誰も聞かないことを知っていて、ハツキは一言つぶやいていた。

 ……ほんとメイコの、バカ。



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