* 睡廊活劇 *


 部屋着用の緩いTシャツを被ってから、再度短い髪の毛を拭く。タオルの端から落とした目線で、優斗は今日も確認していた。室内の異変に気づいていないわけではない。見慣れてしまっただけだ。
 脱衣所の敷居に垂らした帳が熱気で揺れる。その向こうに、足首があった。この一ヶ月間、優斗が風呂場から出てくれば大抵眼にするものだった。足は、文字通り足首までしかかたちがない。それから上は、風景に溶けてしまっているかのように姿がないのだ。
 一ヶ月前にはなかった現象だった。はじめて眼にしたときの優斗は、突如現れたはっきりした足のかたちに驚き、我が家へ勝手に人がはいってきたのかと暖簾を上げた。しかし姿はなかった。
 何度も帳を退かしたところで、足首までしか見えない。元々霊や宇宙人のたぐいを信じない優斗は、はじめて見た摩訶不思議な現象に気が動転した。声くらいは上げたかもしれない。しかし、大きく感情を表に出さなかった。怪奇現象を信じないプライドと、男としての威信を失いたくなかったのだ。
 足首はいつも優斗の入浴後、暖簾越しに現れて廊下をうろつくだけだ。気づけば闇のなかに消えている。風呂上がりの幻覚だと決めつけてしまえば、それで解決するくらいリアクションのない足だった。一ヶ月もそうした日が続いている。見慣れてしまった今、優斗は確認するだけでその存在を疑問視することはなくなった。
 考えても仕方がない。結論がつかないのだ。
 異様な足のかたちに声をかけたこともあるし、感触を調べたくて手を下ろしたこともある。しかし何の答えも導かれなかった。足だけの存在に開く口はなく、優斗が追いかけようとした瞬間に姿を消す。逆に不自然な足のほうが、優斗の行動を怖れているようで、気持ち悪さはすっかり失せた。しょせん足首だけなのだ。
 しかも、血管が見えるほど皮が薄い足は、かたちやサイズからして明らかに女のものだった。風呂に上がった優斗の後ろをついてくる足は、こちらが追えば逃げ、部屋に入ると立ち止まる。玄関からキッチンにつながる廊下しか行動範囲がないようだった。
 まるで男の家に入るのを恥じらうような足だけの不法侵入者に、優斗は最近別種の興味を持っていた。
 廊下を出入りする前にだけ下を向いて、皮膚の薄い足を値踏みする。ペティキュアなどの彩色を使わない生白い足は、常にがに股気味だった。よく見れば、指先にいくつもマメの痕がある。どんな類の女なのかを判断する際に、こうしたささいな情報は優斗の中で有利に働いていた。
 以前、付き合っていた女が言っていた。
 ヒールって、脚がきれいに見えるものだけど、見えないところはボロボロなのよ。
 そうして、彼女がシーツに隠した足先には絆創膏がいくつも貼られていたのだ。素足のきれいな女だったから、イタズラ好きの子どものような傷だらけの指先が興味深かった。あれ以来、マメの痕が足先に残る女は妙にそそられる。
 足だけしか見せない、目の前の女がそうだった。足首をあわせて足先を広げる立ち姿も印象的だ。バレエをしている人間に見られる立ちかただった。それに気づいたのは、昨夜改めてレンタルショップで借りた映画を観たからだ。今もディスクは手元にある。一ヶ月前にも借りた代物で、バエレダンサーが関わっているサスペンスものだった。
 今夜も懲りずに同じフィルムを再生する気だった。優斗の推理が正しければ、この映画を観てから足が現れるようになったのだ。タオルを肩にかけて、脱衣所の暖簾をくぐる。女の足先を避け、優斗は廊下を歩いた。その後ろを黙ってついてくる足のかたちチラと見る。部屋に入れば、ドアの前で彼女は立ち尽くした。絶対に自ら敷居を跨がない。それは見慣れた光景だ。
 優斗はリモコンを見つけた。テレビの電源をつけて、ディスクを入れたままのデッキを再生させる。短期間で二度観れば、フィ映画の場面展開は覚えてしまう。オープニングの曲が流れているのを耳で確かめて、優斗はもう一度廊下を見た。足首だけが、どこかで見た絵画のように不自然な姿で留まっている。
 ソファに投げていた仕事用鞄を、優斗は手にして中身を開いた。ガサガサとビニール袋を引き上げ、さらに商品を出す。テレビの中で、レオタードを着た美しい少女たちが踊りはじめていた。彼は、手にした白いトウシューズを彼女に見せつけるように持ち上げた。
 足首から下だけしか見せないが、霊だろうと妖怪だろうとただの女だ。そして、優斗の購入物は廊下に佇む足首の商売道具であるはずだった。彼は今夜の帰宅を楽しみにしていた。家に入ってすぐ入浴したのは、手の内にあるものを彼女に見せたかったからだ。反応を楽しみにしていた。
「おまえのために、買ってきたんだけど」
 クラシック曲が液晶テレビのスピーカーから流れている。佇む足に反応はなかった。望んでいないものだったのか、元々聴く耳がないのか。しかし、優斗は彼女が五感を備えている確証を持っていた。風呂場のドアが開く音に合わせて、足首はやってくるのだ。せめて聴力はあるだろう。
 トウシューズ自体は、おののくほど高価なものではない。仕事帰りの道に、たまたまバレエ洋品を揃える店があったのだ。金を出すことよりも、背広の姿で女物のシューズを買うことのほうに勇気を使った。サイズもいくつかわからないから無難な大きさにした。重要なのは、彼女にシューズを履かせることではない。
 佇む足が戸惑っているのならば、この夜はまだ使い道がある。足首だけの異様な存在が、足のみで優斗の家にいるのではないと彼は推測していた。足首から上が、単純に隠されているだけなのだろう。
「このシューズ、おまえに似合うと思うんだ」
 あやすような声をかける。足首だけの女が、優斗を嫌ってるわけでもなく恨んでいるわけでもないことを知っている。過度な執着があるのならば、この一ヶ月の間にあの足首は何らかのリアクションをしたはずなのだ。
「おいで、」
 優斗は気持ちを込めて、名のわからない足だけの女を手招いた。猫を呼び寄せるようだ。
 そう我ながら思ったと同時に、足首が廊下の敷居を跨いだ。歩幅に迷いがあるのを優斗は見た。しかし、彼女は部屋に入ることを選んだのだ。
 はじめて部屋を訪れた足に、優斗は妙な感動を覚えた。意志疎通ができたことに胸が弾む。足の甲が明るい電灯の下で、立ち止まった。部屋の強い光を浴びても足首から上は現れない。優斗は順序を踏んで近づく。まず、シューズを彼女の足下に置いた。
 足首に力が入ったと思えば、その下から指が現れた。はじめて見た女の指に、優斗は目をみはる。足と同様に細く皮膚の薄い指がシューズをつかんで、足のすぐ横まで引き寄せた。
 優斗は背をそらして腰を落とす。後ろにはソファがあった。座って彼女の動作を見ながら、ひとつの確信を得る。彼女は足首だけの存在ではない。
 シューズを履くために彼女がしゃがむような仕草をした。途端に、白い綿のようなレースが現れる。ドレスのようだった。幾重に重ねられた白地のスカートの中に、細い太股が見える。視界は増えていた。今は彼女の膝の位置まで幕が開かれている。
 透明人間になる布を膝から上に巻いているような感じだった。ファンシーな発想に、優斗は我ながら苦笑する。片足のトウシューズが、つま先立ちになった。さらに少し見える部分が上にあがった。スカートの先が円を描いている。
「おまえの踊りが見たい」
 脚の動きが立ち止まった。躊躇うような素振りをしながら、もう片方のシューズを履こうと身を屈める。天女の衣が剥がれるように、女の容姿が見えてくる。とても細い女だ。バレエを常日頃親しむような筋力がついている。かわいい性格の女である気がした。いまだ女を透過して見える映画には、たくさんのバレエ少女たちが集まっている。彼女は画面内の処女たちと同じ衣装をまとっていた。まるで、映画の中から飛び出してきたようだ。
 この映画を観てから、彼女の足首が現れた。優斗の家で主張をはじめたのだ。彼は手を伸ばした。腰まで見えてきた彼女が、シューズを履き終えて身を起こす。立ち上がる前に、優斗の手を見つけたのか、彼の手をふれた。
 ひやりとした感触が、ゾッと背筋に電流を走らせる妙な感覚を与えていた。優斗は冷たすぎるだけで生身と変わらない触り心地を離さないようにつかむ。
「きれいだよ」
 くいと引き寄せる。抵抗はなかった。純白のドレスに、小振りの胸が現れる。肩より上が見えるまで後一歩だ。優斗は手を離す。彼女は体勢を整えた。
 バレエの音楽が、もう一度鳴り響く。首から上がない女は、足先でちいさくステップを踏んだ。広くない部屋で、彼女は頭を使って踊る。しかし首から上は見せず、胴体だけで舞うのだ。その様子はシュールだが、顔は最後まで出すことを渋るのだろう。
 なぜなら、目の前の娘はおそらく、映画のなかにいるような類の女ではないからだ。目の前で美しく舞っていても、舞台の上に立てる人間はかぎられている。どこかが不格好なのだろう。顔か踊りか頭の悪さか。それでもかわまないと、優斗は思うまま肘をついた。
 彼女の舞台は、優斗が整えてやればいい。そして、舞い終えた彼女を誉めるついでに、キスのひとつでもすれば顔くらい見せてくれるだろう。花が舞うようにステップを踏む、女の足首を彼は見つめた。スカートが跳ねる。優斗の買ったトウシューズがとてもよく似合っていた。



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