* 輪郭のかなた *


『お姫さまは、そうして王子さまに助けられ、』
 優しく包む聖母のような声が響く。この話が好きなのと、年上の従姉が聞かせてくれた童話は、いつも幸せな完結に彩られていた。どんなに辛くとも最後はうまくいくと、幼い心に何度も刻みつけたものだ。
 風のように流れる言葉に、目をつぶるといつも鮮やかな幸せの映像が広がっていた。疑いもなく幼い自分は、その頃特有の無垢さを抱いていた。得るだけ失っていくものがあることも、生きてく術も必要なかったくらい、幸せの範疇は無限だった。
 何もかもが永遠だと思っていた。好きな人が傍にいれば、必ず幸せになれると思っていた。それが、好きということなのだと思っていた。
 幸せを包む愛しい声は一息をついて、いつも最後のくだりを読んだ。

『二人は、末永くしあわせに暮らしました』


「……こ、……八重子」
 遠くで聞こえていた声が、間近に響く。揺すぶられる感覚に八重子は真っ暗な視界を開けた。
「八重子、起きた?」
 意識は混濁したままだが、女性の声はとてもよく聞き慣れたもので、無意識に小さく頷いた。自らの腕を枕にしていると気づいた八重子は、右腕がぴりりと痺れる感覚に顔を上げた。間接照明の光が視界を狂わす。眉間に皺を寄せてテーブルを見れば、レポート用紙や飲食物が散在していた。
 そうして、自分が知らぬ間にテーブルへ突っ伏して寝ていたことを知る。寝落ちは珍しい、と、自分のことをぼけた理性で片し、自分の頭の重さで血行が悪くなった右腕をさすった。
 起こしてくれた女友達は、ローテーブルから離れてもう一人と部屋を片づけている。自分が起きていた時は、後一人いた記憶があったのだが、現在部屋に残っているのは勇介と双葉だけのようだ。八重子は時計に目を移した。針の廻りようは、自分が思ったより眠っていたことを教えてくれる。
「これ、おいておくよ、」
 黙々と物音だけをさせていた二人のところで響いた声に、八重子も目を向ける。疲れのせいかまだ緩慢な思考と動作しかできない八重子は、いつもならあり得ない静けさと、二人の妙な空気にようやく気づいた。息の詰まるような慎重さで顔を逸らす。
「双葉、」
 勇介の躊躇がちに名を呼ぶ声から、八重子は顔を背けたままぞくりと肌を震わせた。二人へ配慮するように、窓からこぼれる月の光に目を向ける。本能が完全な覚醒を抑えている。空間内の静謐は沈黙ではない。見えないものを感じていた。八重子の眠っている間に、二人の間で何かがあったのは確かだった。
 ただ、八重子がいない方がいい場面であれば、双葉は自分を起こしはしなかったはずだ。今はもう彼らの中で完結していて、その余韻だけが、この空間に残ってしまっているのだろう。
 それは八重子もよく知っている雰囲気で、自分でも嫌になるくらいよくわかる切ない重みだった。見えないところで、今も二人の間では耳に届かない言葉が飛び交っているのだろう。勇介の小さな吐息が聴こえた。そして半ば諦観するように呟く。
「あとは、俺がやっとくから」
 頷く双葉は躊躇う素振りもみせず、バッグを肩にかけ勇介に背向く。そして、八重子に近づいた。まだ眠さの拭えないふりをして双葉を見上げる。彼女の表情は穏やかだった。視界の端で勇介が片付けを続けている。
「終電だから、帰るね。また明日来るよ。メールする」
 普段と変わらない双葉に、八重子も無言で頷く。それを見届けた双葉は勇介を一瞬だけ見留めて、玄関の方に向かった。一間をおいて勇介がそっと双葉を追った。
 わざわざ送りにまで行く勇介に、双葉は自分の残像を見たような既視感を抱く。妙な不安に掻き立てられて、八重子は静かに玄関が見える死角へ移動した。ピーピングトムの自分に苦笑しながら、それでも見ておきたかった。
 玄関灯が注ぐドアの前では、二人が黙ったまま向かい合っていた。ただならぬ関係であることを誇示しているかのように見えた。しかし、端から見れば特有の色香はない。幸せの結末には至らなかったことを教えているようだ。
 それは、八重子自身にも憶えのあった……ただ思い出したくなくて、二人の姿を凝視した。
 振り返った双葉は、勇介に何かを伝えようと顎をかすかに動かす。しかし、すぐ視線を落とした。八重子の姿を見留めたらしく言葉を飲み込んだ。勇介を突きぬけ、双葉が八重子を見る。八重子は微笑む彼女から動けなかった。
「んじゃ、明日、」
 普段どおりの表情でドアを開けまた閉じていく双葉と、それを見送るしかない勇介の顔が、後ろ姿だけで悟れる。八重子は時間を取り戻したように、玄関から背を向けて息をついた。
 なぜこのシーンに親近感があるのか、気になってしまったのか。その風景は自分もよく知る場面のひとつなのだ。気づきたくないことに気づいて、無性に哀しくなった。自分も一緒だ、と、哀しすぎて、瞳を閉じた。勇介の気持ちがわかって、自分のことのように辛かった。


 八重子が自分たちの一部始終を見ていたことに、勇介は気づいていた。
 双葉があそこで引き留める間もなく八重子を起こしたことは、自分たちの微妙な関係を見せてしまうことに等しかった。しかし、双葉なりの気遣いと打算があったのだろう。それにいつか、必ず気づかれてしまうことだった。だから勇介は八重子の覗く姿に、何も言わずリビングへ戻った。
「なんで、一緒に行かないの?」
 少しおいて久しぶりに発された彼女の声だ。冗談交じりのような言い方に、勇介はさすがにムッとしながら八重子を見た。
 そんな生半可なもんじゃない。そう返す前に、八重子の悼むの目とあう。勇介は咄嗟に瞳を伏せた。今の言葉は、何より八重子自身が自分に問いかけたかったものだ、と、瞬間的に悟ってしまったからだ。
 願うことなら追いかけて行きたい。そう、双葉を想う気持ちが表情に浮き出てしまったのかもしれない。それ以上に、八重子の素直な感情が、彼女自身も同じ何かを抱いていると教えていた。それを言うならおまえもだろ、と、言い返そうとして、それこそ自爆行為だ気づく。勇介は寸でで耐えた。カーテン越しの月を見やりながら苦笑する。
 最後の一歩を踏み出せないその諦観と、悲痛なまでの静かな情熱が今は虚しい。結果論でいくのならば、この恋はただ痛いだけだ。それでも想うことをやめられない。
「……なんで、うまくいかねーのかな、」
 つぶやけば、弱音のような一言だと思った。嘲笑したくなる。幸せというカテゴリーにはほど遠い。双葉も自分も、過剰なほどに人を傷つけることを畏れている。
 すでに、見えないところで傷口を深めているからこそ、双葉は勇介を受け入れない。
「ゆうちゃん」
 呼ばれた声に振り向くことなく、適当な返事を返す。
「うちらでくっつく?」
 見上げる八重子は皮肉めいた言葉を投げる。勇介は眉を寄せた。八重子と同じような表情をして、彼女のそばに腰を下ろす。至近距離に顔を近づけても、八重子は怯まず体育座りのままだ。くちびるをあわす代わりに、間近で問い掛ける。
「……ムリだろ?」
「無理だよ」
 間髪を入れず、八重子の言葉が部屋内に響いた。その強く凛とした声に、勇介はすぐに顎を引いた。彼女が視線を落とす。勇介は、八重子の気持ちが自分ととてもよく似ていることに気づいた。
 八重子と勇介がこの場で仮に抱き合っても、傷の舐めあいにしかならない。愛にはなれない。あのぬくもりにはどうしても勝てない。勇介も八重子も嫌になるほど知ってしまっている。
 愛するならば、選ぶものはただひとつだけだ。それだけが事実だった。その真実に、過去も未来も、必然も偶然もなかった。
 あなたじゃなきゃ、ダメなんだ。
 八重子は、抱えていた膝を解き放った。
「無理なんだよ……」
 勇介はくちびるを噛む。八重子と自分のために放てる言葉が、もう見つからなかった。窓から零れる不完全な光の波に目を細め、彼はただ頷く。夜の暗がりに、二人のかすかな影が揺れていた。



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