* みずいろの世界 *


『明日から梅雨前線が関東地方にも達する模様、との気象庁の発表で、』

 実際は難解な情報が流暢な言葉に変換され、部屋へ響き渡る。昼時間にかかわらず、鈍った空は室内へ人工灯を点すように仕向けていた。
『夕方から場所によって、小雨が降る予報となっております。ついに、ジメジメした梅雨の到来ですねぇ、……さん』
 天気キャスターが参ったような表情でスタジオのアナウンサーに言葉を返す。続いてゆく会話の後に現れるのは、新たな如何わしい事件や事故の惨劇の数々だ。
 それらをぼんやり見つめながら、由加里は欠伸をする。低血圧の身体を労わるように目を瞑れば、テレビの声は雑音と同じになった。どれも自分には関係のない情報だ。彼女は、手にしていたリモコンを持ち上げる。ボタンひとつで、即座に世界はかき消された。溜め息が空気と雑ざる。
 寝起きからずっと流れ続けている、一種の音がある。
 脳裏から離れないこの音は、もはや幻聴と等しかった。ここ数日でひどく疲れがたまっていたのは否めない。昔から疲れがたまると、由加里の精神と肉体どちらかになにかしらの危険信号が点るのだ。ひどいときには自家中毒を起こして動けなくなる。今回はそうなる前に幻聴が起こった。しかも、この手の不調のきたし方ははじめてだった。
 頭痛を促すでもなく、主張するような激しい音でもない。彼女を惑わしているものは、単調な自然の音色だ。だからこそ、たまらなく心を乱し不安にさせていく。
 由加里は、窓越しの空を見やる。天気予報のとおり、どんよりとした雲が空にたむろっていた。しかし、肝心の音の正体を見出すことはできなかった。雨は降っていない。
 ならば目覚めを促した、この幻聴は一体何なのだろう。由加里が脳裏で騒ぐのは、雨の音と酷似している。妙な不安に掻き立てられる。ストレス過多の良くない兆候だとしても、こうした音は聴いたこともない。
 答えない雨音は、途切れることなく耳の中で流れ続ける。意識を逸らそうとしても逸らし切れない。家の中に雨が降っているような錯覚に陥るのだ。完全に幻聴のようだった。
「ダメダメ」
 深いところへ引きずり込まれる前に声を出した。憂鬱へ向かう気分に喝を入れて、着替えようと由加里は立ち上がる。部屋の隅のほうへ寄せておいた、昨夜の内に取り込んでいた洗濯物の山から、適当に着る服を見繕った。そして、また鈍色の景色を確認する。天候の良くない日は家に引きこもっていたい性分だが、今の調子では心が使いものにならなくなってしまう。この調子で月曜日を迎えることだけは避けたかった。
 心の中に降り続ける雨音は、闇に近い不安だ。身体が憂鬱で錆びつく前に、出かけなければならない。独りでいると、ろくなことを考えないのだ。
 雨の幻聴を振り切るように、由加里は家のドアを開ける。外に出ても、雨の音はついてきた。


 智実が繁華街へ赴いたのは、女友達から連絡をもらったからだ。
 ――今日ひま? ちょっと人のプレゼント買うのに考え込んでて、付き合ってくんない?
 この手の気軽なメールは、用事がないかぎり断らない。もともと家に留まることが苦手な智実には有難い申し出だった。だから、すぐ了承した。昼前の待ち合わせ時刻に友人と会い、プレゼントを購入した後は、お礼においしいパンケーキを奢るという言葉に甘えて、洒落た喫茶店に落ち着いた。
 ガラス張りの外から、アウトドアな智実でも少し気が滅入るほど濃い灰色の空が見える。これから梅雨に入るのだから、こうした天気が何日も続くのだろう。メニューを頼んだ友人も窓へ視線を向け、傘忘れちゃったんだけど、雨降ると思う? と、雑談をはじめる。智実は会話の途中で、もう一度外を見やった。
「あれ……?」
 偶然、目に留まった姿があった。曖昧な天気の日に、家を出るようなタイプではない人物だ。しかも人混み嫌いで智実より歩く速度は速い。休日の繁華街は彼女にとって敵に等しいはずだ。智実は彼女の性分を並べながら目を凝らす。やはり彼女であることを確認した。
 誰かと待ち合わせかな、と、考えてみても、人波に流されるような歩き方だ。人ごみを避けない様子が、少し気になった。彼女らしくない。
「ゴメン、ちょっと用事、思い出した」
 とっさに、即席の嘘を口にしていた。
「そうなの? 時間だいじょうぶ? 付き合ってくれてありがとね」
 文面どおりに受け取った友人に、申し訳ない気持ちを抱く。しかし、立ち止まっては後悔する気がしていた。
「パンケーキおいしかった。本当、またすぐ会おう、ゴメン、」
「いいよ、私もこの後、別の用事があったんだし。またメールでね、」
 そういわれたことに頷いて、彼女は足早に喫茶店を出る。ウインドー越しに軽く手を振る友人に智実もまた、手を振り返す。雨が落ちてしまう前に、早く見つけたい。人でごった返す通りをかきわけた。


 人の濁流を逆らう人間の気が知れない。
 冷ややかに由加里が思いながら、都心で最も賑わう通りに身を任せ歩く。男と張り合えるほど背の高い由加里には、些細なことも自然と目についてしまうのだ。妙に他人との間隔が近くなったのは、逆走者が現れたせいだ。人の肌をわずかな隙で避ける由加里は、めんどくさいのが来た、と、思った。こんなにうざいくらいの人をかきわけて、よくやるよ。そう冷ややかな感嘆をした直後、ぐいっと片腕を掴まれた。突然、にゅっと生えてきた手に由加里は驚いた。体勢を崩しかける。
「見つけたッ」
 大声が腕の先から発される。知っている声だった。迷惑そうに向けられた何人もの視線に、由加里は慌てて腕を引きずる。どうにか路面店の連なる脇に寄った。人ゴミにはいつまでも慣れず、川を乱す労力も嫌いなのだ。見事にとばっちりを食らっていた。
「なに、こんなとこで!」
 今思えば逆走の張本人はこれだったかもしれない。智実は悪びれず答えた。
「だって、由加里がいると思わなかったんだもん!」
「私も、智実がいるとも思ってないよ。びっくりしたー。そっちは?」
「用事があって。それで、ちょうど暇になったところだったんだよ。あんたは? このあと誰かと会うとかある?」
 雨が今にも降りそうな天気は相変わらずだ。インドアな由加里が外出するのに不釣り合いな天気だからこそ、そうやって聞いてくるのだ。由加里は簡潔に、気分転換、と、応えた。
「珍しいね。じゃ、どこ行く?」
 行動を共にすることは暗黙の了解らしい。暇をもてあましていた由加里はそれに異議を唱えることもなく、「智実の行きたいとこでいい」と、返す。智実は行きたいところを探すように「うーん」と唸りながら、また人の川に沿って歩きはじめた。
「でもまぁ、よかった」
 ぽつりと呟いた智波の言葉に由加里は、なにが? と、訊き返す。
「由加里に会えて、よかったって」
 安心したように言うから、由加里は苦笑した。
「そんな、飽きるくらい会ってんじゃん」


 智実が空から舞い降りてきた滴を顔面に受けて、冷たッ、と、驚きを口にした。
「とうとう降りはじめた?」
 由加里は智実の反応に空を仰ぐ。彼女がくらったのは第一号らしく、その後からぱらぱらとまばらに雨が落ちはじめる。このままふらついても風邪を引くだけだと、手前にあった地下鉄の出入り口のところまで避難した。雨、地下鉄前、と、くれば、ここで解散になるのがいつものパターンだ。
 しかし、由加里は釈然としていなかった。今まで智実と一緒だったことで意識しなかった、自分の雨音がここで智実と別れることでまた降り出してしまいそうな気がしたのだ。外の雨にも重なってますます精神的に落ちてしまいそうだ。
 離れがたい。嫌だ、と、素直に思ってしまった自分自身に困惑する。だからといって、寂しい、もうちょっと一緒に居て、と、率直に気持ちを伝えられない性格だった。強がる自分との葛藤に、由加里は歩く速度が落ちていた。
 思いがけない感情と格闘している由加里をよそに、智実は改札口で立ち止まった。じゃあ、と、次の言葉を繋げるように由加里を見上げた。
「どっちの家、行く?」
 その台詞はあくまで自然だった。しかし、由加里は絶句していた。心の内をあっさりと覗かれたような気分になった。しかし、平静を装う。
「したら、……うちでいい?」
「いいよ。途中でコンビニ寄ろう」
 智実はさも当たり前のように答えて、券売機へ向かった。翌日は互い朝から仕事がある。いくらアクティブな智実でも、日曜日の夕刻からわざわざ他人の家へ行くことはしない。帰宅するのが面倒になるから、と、以前彼女は言っていた。だが、今日の智実は労力を厭わない。
 それよりも、由加里は感心していることがあった。
 智実は、たまに自分の一番求めている言葉を口にしてくれるのだ。
「智実って、エスパー?」
 彼女の横に寄り、真面目な顔して訊く。ふざけた質問に、振り返った智実が「えすぱあ?」と復唱して笑った。
「えすぱーってなによ。……ああ、うん、誰にでも使えるってわけじゃない、けど」
 意図に気づいたのか簡単に答え、視線を料金甲板へ戻す。やはり智実は、由加里の真意になんとなく気づいていたらしい。表情にでてたのかな、と、由加里は少し照れた。しかし、気づいてくれたことが嬉しい。
「由加里、ちょっといいにくいんだけど」
 久しぶりに満たされた気分になって、切符を買っているはずの智実の声に快く耳を傾ける。
「なに?」
「家、うちんちにしてくんない?」
 さっきとは全く違ったしどろもどろした言い方で由加里を見る。
「なんで?」
 相手は沈黙してしまったが、すぐ覚悟を決めたように落とした視線を戻した。
「ないの」
「は?」
「だから、由加里の家まで行く金がないの!」
 静まり返った瞬間に、状況を理解した由加里は爆笑した。
「あ、あんた、お金下ろしてないの?」
「だってキャッシュカード忘れてんだもん!」
 智実はもうこの際とことん笑わせてやろうと、自らの所持金の全額を見せて、さらに由加里を笑わせた。
「もう、なにやってんのよ、ほんと」
「いっそ私らしくない?」
 智実は自信気に言う。彼女のおかげで、億劫な感情はすっかり吹っ飛んでしまっていた。
「ほんとよ。お金なら少しくらい貸すから」
 由加里の言葉に、智実は理不尽なお礼を返す。
「どうも、でも小額だからオゴってよ」
「なんでよ。わざわざそっちの家に行くんだから、倍返しに決まってるじゃんか」
「手作りの夕飯付きでも?」
 下手にでる智実にも由加里は当然と頷いて、穏やかな微笑みを見せた。



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