* きみの願いごと * | |
何気ない一言や笑顔が、意外とその人の素だったり本音だったりするんだよ。 だからこそ、些細な一瞬を逃さないで、ちゃんと受け止めようと思ってる。 「夏樹、夏樹、」 肩を叩かれ、驚いたように夏樹は顔をあげて振り向いた。至近距離に八重子の付け睫毛が見える。 「おわっ!」 「ッ、ビッ、ビックリしたじゃん顔近くて!」 「なんだよ。オレのせいかよ」 呆れ顔で答えれば、反射的に身体を引いた彼女が眉間の皺を緩ませる。違うけど、と、呟いて視線を向けた先に夏樹も目を下ろした。テーブルの上に置かれた本は分厚い。声をかけられるまで、八重子の存在に気づかないほど夏樹はそれを集中して読んでいたのだ。 「それ、なに? 読んでんの?」 隣の椅子に座らず、八重子は背を曲げ物珍しく問う。夏樹が文字の多い書物を読むことはほとんどない。いつもメンズ雑誌や音楽、スポーツ系の雑誌ばかり広げているからだ。カバーまで綺麗にかけられた本は夏樹の性格から不釣合いだと、八重子は思って興味がわいたのだろう。 「あー、ちょっとな」 「専門書なんでしょ? なに? なんなの?」 細かい字で内容はわからないのだろう。他ページを開けばさまざまな図が補足として載っている。曖昧におさめようとして本を閉じた夏樹に、八重子はがぜん興味が増したようだ。 「ちょっと、」 そう言いながら手を伸ばしてくる。言葉の続きは動作で補われた。取り上げられてしまった本を、夏樹は制す余地なく見つめる。 「おい」 「別にエロ本とかでもないんでしょ」 重い本を抱えながらページを何枚も開く。八重子は立ったままなので、座っている夏樹は困ったまま彼女の顔を見上げていた。 「なにこれ?」 表記されている図に、彼女は首を傾げた。見慣れない記号がどのページにも広がり、それに補填する文章は暗号のようだ。文字を記入する書き込み欄もある。八重子は夏樹と逆で、理数が不得意なのだからわからなくて当然だ。 「いいから、返せよ」 夏樹が手を伸ばすと、専門書というより参考書の類に近いと彼女も気づいたのだろう。視線をあわせて来た。 「あ、これ、気象記号ね。天気予報士でもなんの? そりゃ夏樹には無理でしょう」 「勝手に決め付けんな。八重子、ちゃんと見ろよ、気象のこと以外もあるだろ」 気象図を分析する趣味はない。しかし、正解を自らの口でいうことは憚られる。八重子はようやく内表紙を開いた。ああ、と、嘆息が漏れた。 「船舶免許3級。え、あれ? 夏樹まだ取ってないの! 前に取るって意気込んでたじゃん!」 痛いところを突かれて、夏樹は大きなため息をついた。バツ悪そうに深々と椅子にもたれる。八重子も腕が疲れたのか、本をテーブルに置いた。 「だから、言いたくなかったんだよ」 「ああ、なるほどね」 「そうだよ」 八重子は苦笑しながら、空いた椅子を引く。夏樹の性格を熟知している彼女が、肘ついて本のカバーをコツコツと指の背でノックした。 「今度は本気?」 「まあな」 夏樹の応答に八重子は茶化さず、もう一度分厚い参考書を手で寄せる。 本当は夏樹自身も、船舶免許を取得すると宣言していたことを忘れていた。この免許の話題が持ち出されたのは一年以上も前になる。八重子たちいつもの面子も一緒に盛り上がっていたが、すぐ話は廃れて購入していた参考書も夏樹の部屋の奥で埋もれていた。船舶免許が欲しいと思っていたのは本当だ。しかし時間や勉強意欲を理由にして、あっという間に想いもどこかにいった。 その忘れていた気持ちが、一瞬で呼び戻されたのだ。数日前のことだった。ささいな一時だったが、夏樹の心におおきな波を寄せた言葉で、あれは丁度、海岸線を走る電車の中だった。 ―――海、行きたいなあ。 人はまばらで、遊衣が夏樹の隣に座っていた。長いこと目をつぶっていたから、寝ているものだと思っていたのだ。脈絡のなさに、夏樹は独り言だと思った。 『夏の海が、見たいんよね』 彼女は目を開け、窓越しに広がる海岸線に視線を向けながら繰り返した。その言葉が、夏樹の脳裏を鮮やかに色を染めた。 『前やった、川でバーベキューみたいなのかよ?』 それを海バージョンでやりたいのか? そういうニュアンスで訊くと、表情を変えない遊衣は、うーん、と、曖昧に唸って、こう言ったのだ。 『それもいいけど、もっと広い海の……地球の大半は海なんだって思える感じのがいいかもしれんね』 表現し辛そうに応えて、小さな吐息を吐く。抽象的な言葉だったが、夏樹にはわかるような気がした。遊衣は海の見える町で育っている。海には郷愁が籠もっているのだろう。だだっ広い平野で育った夏樹とは海に抱く気持ちも違うのかもしれない。 『ちゃんとした海、見たいんよ』 電車から見える海の風景とは違う。遊衣はその言葉を最後に彼女は目を閉じた。電車がレールを渡る音ばかりが響く、静かな午後だった。夏樹は、彼女が見つめ続けていた海岸線を見やって真剣に考えたのだ。遊衣は願望を主張することが少ない。八重子たち女友達の中では、特に聞き役に徹するほうだ。人に聞かせるための独り言を口にすることはほとんどなかった。 だからこそ、夏樹は遊衣の小さな願いを想った。そうして、行き着いた自分なりの方法と答えがこれだ。 「また飽きちゃうんじゃないの?」 八重子は本を人差し指ではじいて、意地悪っぽく尋ねてくる。 「まあ多分、今回は大丈夫。って、断言できないけどな」 夏樹は答えた。この想いだけは殺したくないから、この免許だけは取っておきたい。これは希望なのだ。彼女のためでもあって、自分のためでもある。 「取ったらさ、八重子とかみんな一緒に大海原へ連れてってやるよ」 そうして宣言した。途端に、八重子が呆れた笑みを浮かべる。こいつは取る前からなに言ってんの、と、思っているのが顔にでている。 「じゃ、その約束、忘れないでよね」 彼女は本を置いて立ち上がった。そして、飲み物を買ってくる、と告げて部屋を離れる。夏樹は気を引き締めて、分厚い本を手元に戻した。 すぐ近くのドアが開かれた。振り返れば、八重子ではなく遊衣だ。すぐ夏樹を見とめて、八重子が座っていた椅子を引く。 「なっちゃん、なに読んどんの?」 遊衣が挨拶よりも先に訊いてくる。先刻の八重子とまるで同じ台詞だ。 どいつもこいつも物珍しそうな表情をするよなあ、と、苦笑しながら夏樹は表紙を見せた。 「船舶免許3級合格マニュアル」 口に出してみせると、遊衣は……察したように微笑んだ。 「ありがと」 ささやかだけれど、大切な想いを忘れないでいてくれて。そう感謝の中に込められ返された言葉に、夏樹もつられて笑んでみせた。 「取ったら、海行こうな」
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