* sacred rights *


 朝の階段を駆け上がる。片道二〇分の距離は、小学四年生になったばかりの恭香にとってまだ長く感じられるものだ。それでも以前に比べれば身体が慣れてきている。帰宅後も夜まで一眠りすることなく過ごせるようにもなり、去年からだいぶ身長も伸びた。
 三階に着くと一呼吸で息を整えて、一番奥の教室へ向かう。同級生の声があちらこちらに反響する廊下はとても賑やかだ。ゴールデンウィークを過ぎて暖かい日和が続いていて、この時期から恭香の好きな季節がはじまるのだ。夏になる前には自分の誕生日もある。ひとつ大人になれるのは嬉しい。
 窓から見える景色は青々としている。それを眺めながら歩いていると、女の子が一人急ぎ足で通りすぎて行こうとした。恭香よりも少し背が高く、トレードマークのツインテールでクラスメイトと知れる。平野三緒だ。ランドセルに手提げバッグを持っているのだから、彼女も登校してきたばかりだろう。朝礼にはまだ少し時間がある。
 ふいに彼女が歩調を緩めた。もう急ぐ必要はないと思ったのかもしれなかった。
「おはよう」
 気さくに挨拶されて、恭香はすぐに三織と視線をあわせた。少しドキドキしながら言葉を返す。
「お、おはよう」
「先生もうすぐきちゃうよ」
 彼女は簡潔な言葉で向き直る。自分と連なって教室へ行ってくれるわけではないのだ。そう悟った恭香は間髪をいれず投げかけた。
「あの、きのう、」
 一歩先を踏みしめた三織が振り返る。引き止めたかったのは、わずかに期待していたからだ。
「楽しかったね」
 恭香の一言に、彼女が首を傾けた。顔にクエスチョンマークを乗せたまま、教室の入り口に差し掛かる。
「きのう? 遊んだっけ?」
 恭香はひとつ間おいて首を振り、少し視線を落とした。
 その返答は覚悟していたのだから、ショックは受けない。でも、やっぱりそうだよなあ、と思った。心がまた諦観に染まっていく。三織は開かれたドアの手前で、改めて恭香を見た。恭香は気づいて彼女を見上げる。
「あ、クラスいっしょだった? 気づかなくてごめんね」
 ……恭香はもう一度首を横に振った。
「いいの」
 そうして、視線を床に落とした。

 板の木目は、波紋を描いてゆらゆらと広がっている。

 木漏れ日が恭香の肌に濃淡をつけた。太陽の薄い木陰の中央で、ようやく視線を上げてランドセルを下ろす。
 放課後に家へ帰らず、ここを訪れたのははじめてだった。今日も起立、礼で終わった教室から一番に外へ出た。朝に声をかけてくれた三織は、恭香の存在を忘れたように仲良しの佐伯明日香と話していた。三織だけではない。恭香にクラスメイトたちは声をかけない。いじめに受けているわけでも無視されているわけでもないが、なんとなく恭香そういうポジションになっていた。小学校に入学したときからずっと似たような状況だったのだから、自分はそういうものなんだと思ってしまっている。
 仕方のないことだと思っていた。でも、四年生になってから友達の絆というものに憧れを持つようになってしまった。
 同じクラスに三織と明日香という、学年一仲のいいコンビがいるせいだ。幼稚園に入る前から仲良しだったということは密かに知っていて、普通の友達関係とは違う妙な連帯感というか、言葉に言い表せない強い絆がいつも見え隠れしていた。
 三織のほうは、男女構わず誰にでも話しかける元気な性格だ。朝に恭香へ挨拶してくれたほど気さくでもある。その一方で、明日香は少し引っ込み思案な女の子だった。一歩後ろに下がって歩こうとする明日香に、三織はかならず手を繋いで歩調をあわせる。
 恭香は、明日香にシンパシーを感じていた。
 はじめて四年生の教室に入ったとき、一番最初に目についたのが明日香だった。そのときは三織がそばにおらず、彼女は一人あてがわれた机に座って窓の外を眺めていた。恭香は声をかけることも近づくこともしなかったが、なぜか自分と似ているかもしれない、という印象をもった。それは今も変わらない。実際に名前からしても、恭香と明日香、キョウ(今日)とアス(明日)みたいなものなのだから、似ているに違いないのだ。
 ただ大きく違っていたのは、明日香には最初から三織という親友がいたことだ。恭香は小学校三年生に至るまで、そうした子に巡り会ったことはない。……でもきっと、明日香との違いはそこだけだと恭香は思っていた。だから、三織ともいつかは明日香みたいに仲良くなれる気がしていた。三織が明日香のような子が好きなのであれば、雰囲気と性格の似ている自分も同じように好きになってくれるかもしれない。
 無理のある期待だとわかっていても、恭香はそう信じたかった。今朝、三織が声をかけてくれたのは本当に嬉しかった。しかし、それがただの偶然であることも……期待する一方でわかっていた。まして、放課後の遊びで彼女の姿と接していても、それは見せ掛けでしかないと薄々気づいていた。
 それでも、三織と一緒に遊んでみたかったのだ。
 だって、なってほしいものになってくれる、と、恭香に言ってくれた。その好意は本当に嬉しくて、毎日のようにここへ足を踏み入れている。春休みまでは色んな子でお願いしていたけれど、今は三織が多い。特にこの一週間は、三織のままで出てきてくれる。
「きたよ」
 この恭香の一言が、はじまりの呪文だ。一本の太い幹の後ろから、ツインテールの少女がピョンと現れた。
「こんにちは、恭香ちゃん。今日はなにして遊ぶ?」
 三織が笑顔で言った。それを見て、朝のことを思い出した。
 ……ああ、あたしは、なにをしてるんだろう。
 恭香はそう思った。途端に虚しくなった。
 視線を地面に落とす。木漏れ日がゆらゆらと揺れている。黙っていると、顔を覗かれた。
「恭香ちゃん、どうしたの? ぼく、なんかしっぱいした?」
 不安そうな問いかけが聞こえた。恭香は首を横に振ることができなかった。三織は「ぼく」なんて使わないのだ。素が出てしまっている。ますます三織との差異を感じた。
 これは恭香が、そうさせているのだ。
 本当は目の前のものが、女の子でもないと知っている。まして、人間でもないことを知っていた。
「しっぱいなんか、してないよ」
 目の前のものが、心配性で不安症なのは知っている。だから安心させるように言って、かれを見た。三織のかたちは、恭香の目を見て柔らかく微笑んだ。
「よかった」
 かれはやさしい。
 放課後も遊べる友達がいない恭香を、見つけてくれたのはかれだ。
 一ヶ月前の春休みが終わる頃、この森のそばで一人ボール遊びをしていたときに出会った。それは一目で人間ではないとわかる風貌だった。あまりの異形に、最初は脚がすくんで動けなかった。この世にいちゃいけないものなのかもしれない。本能的に恭香は思った。もう自分は終わりかもしれない、そういう変な感覚まで覚えた。
 でも、かれはとても臆病そうだった。物腰は柔らかく口調もやさしかった。木の枝にかかってしまったボールを取ってくれた。悪いものじゃない。そう思いなおした恭香は、息を吸って言ったのだ。
 友達のかたちに変わってくれるなら、いっしょに遊んでもいい、と。
 かれは、それを律儀に守っている。恭香のわがままに応えてくれる。三織でいようとしてくれる。
 もしかしてあたしは、ひどいことをさせていた?
  「ごめんね」
 気持ちを整理するより先に言葉が落ちた。同時に涙もこぼれた。
 ……そうだ。ひどいことをさせてたんだ。
 恭香ちゃん! と、名前を呼んで狼狽するかれに、唾を飲み込んで言った。
「も、もとに、もどっ、て、いい、よ」
「やだよ」
 即答だった。強い拒絶に恭香は顔を上げた。視界はぼやけていた。
「だって、……恭香ちゃんの目、あのとき、すごくこわがってた」
 とても深い色の瞳が、恭香を映して真摯に答える。最初の日のことだ。
「だから、また見たら、するよ。だって、ぼくは、」
「ち、がうの! ご、めん、ごめ、」
 かれの告白を制して、恭香は泣いた。そんな話は聞きたくない。そんなことは言わないでほしい。罪悪感と悔いが押し寄せる。
 確かに、かれの言うとおり、はじめは恐いと思っていた。だって、人間じゃなかったのだ。恭香の知っている動物にもいない。明らかな異形だった。未知のものに慄くのは恭香だけではない。子どもだけでなく大人もパニックになるに決まっている。かれはおそらくこの世のものではないのだ。
 けれど、恭香は出会った日からいいひとだとわかった。今は恐くない。毛むくじゃらでも角や牙が生えていても、何よりも恭香の気持ちを察してくれる。友達のいない恭香に、姿を変えてまで友達の代わりを徹してくれる。そのことが恭香にとって、かれの本来の姿を見て見ぬ振りする行為に値していたとしても……かれは許してくれる。謝らないでいいよ、大丈夫だよ、と背中を撫でてくれるのだ。
「ぼくは、だいじょうぶだよ。恭香ちゃん、」
 その言葉に何度も頷いて、かれの手をとった。涙が引っ込むまで、大きく深呼吸をする。
「恭香ちゃんは、やさしいね」
 乾きはじめた目でかれを見る。
「遊ぼう」
 恭香の言葉に、三織のままの姿のかれが大きく首を縦に振る。
 もうどんな姿でもいい。
「今日も、明日も、ずっと、いっしょだよ」
「うん」
「だから、あのね、」
 かれがじっと見つめてくる。だから、恭香も同じように真っ直ぐに見返す。そうやって、しっかり視線をあわせたのははじめてだった。ずっとどこか心の中で、かれを認めたくなかったのかもしれない。でも、もうわかった。かれは三織でもないし他の友達に姿を変えても、かれはかれだ。
 瞳の彩はただの黒ではないと気づく。人間とは違う。とても深くやさしい紺色だ。星が瞬く美しい夜の色だ。
「ほんとうの、名前、教えて」
 面と向かう恭香の勇気に、かれは頷く。そして、木漏れ日の中で本当の名前を教えてくれた。



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