* 独白(或いは私室)【第2話】 *


 私の家は、母親が経営する喫茶店の二階にある。
 閑静な住宅地へ入る手前にあって、営業日はかならず人が訪れる。駅からほど近い大通り沿いにあり、この付近では待ち合わせ場所にベストといえる喫茶店ではないだろうか。
 近年は改装を行なって、木材を基調とした暖かみのある店内に生まれ変わった。センスが利いたカフェの装いになってから、客層も少し若くなった気がしている。
 その中でも、姉を目当てにして訪れる人はいくらかいるようだった。姉はとても容姿に恵まれていた。幼い頃から姉のかわいらしさを褒める人は多く、それは妹である私のささやかな自慢にもなっていた。
 彼女は外見と中身に大きな溝ができてから、不可解な傷をその肢体に負うことが多くなってしまったが、それでも彼女の整った顔は一種の眼福になっているのだろう。深入りしなければ、きれいなおねえさんでしかないのだ。
 ガタンゴトンと音を立てる眼下に、見慣れた風景が流れている。
 私は息を吐いて、揺れる窓から覗く高台からの街並みを見つめていた。毎日見てもありきたりの景色だ。高架レールを進む電車は、高校と家の狭間で私を運ぶ。
 ホームルーム後の教室で、友人たちとおしゃべりがすぎたせいか、空には暖色が薄く重なっていた。車両内はいくらか混んでいて、携帯電話で時刻を調べれば、帰りの通勤ラッシュがまもなくはじまるところだ。一日はあっという間に暮れていく。
 電車がホームに滑り込んだ。私は自動ドアの前に立って、開く瞬間を待つ。友人たちの中で、私と同じルートをたどって通学する仲間はいない。学校の最寄り駅でいつもルートを分かつ。
 おかげで、電車に乗っている時間は、いつも考えごとをするのに最適だった。家に入れば、考えないほうが良いことも多くある。家族が平穏に暮らすことは、私にとっても第一条件となっていた。
 ホームを降りると、乗車時より風が涼しく感じられた。階段を降りて、改札口を通り抜ける。併設するスーパーを覗こうと思ったが、家にあるはずのライムミントゼリーを思い出して、まっすぐ帰ることにした。
 姉の詩帆に、喫茶店で出すデザートのひとつをくすねることができないか、と、今朝も昨日と同様のお願いをしていたのだ。
 会話が通じるときの姉は、昔とあまり変わりがない。それでも、私の頼みごとを覚えているのか半信半疑だったわけだが、昨日はお願いしたとおりの品が取り置きされていた。だから、今日も間違いなくしてくれる。
 夏が終わる前に、喫茶店のメニューとして提供されるようになった、新作のゼリーだ。ライム果汁にミントのエッセンスを使った洋菓子で、柚子のシャーベットも添えられてある。
 ゼリー系のデザートは私の好物で、少し割高ながら早々喫茶店の人気メニューに上がっている一品だ。内部関係者の私でも、今回マスターが提案したゼリーは、素直に美味しいと感じられる代物だった。
 その喫茶店の経営者である母親も、娘が商品をくすねていることについて、叱咤することはなく黙認している。
 そして姉は、久しぶりに妹からお願いごとされたことが嬉しかったようだ。昨日は帰宅後からライムミントゼリーを食べ終えるまで、喫茶店の仕事を放り出して、子どものように私のそばにくっついていた。ニコニコとほほえむ姉が見られることは、私にとって嬉しいことでもある。
 さわやかな味わいのライムミントゼリーを思えば、自然とおなかが空いてきた。
 地上へ降りる階段を小走りに抜けて、家までの道を歩く。今日の通学バッグは、ふだんより少し重い。再来週は高校の学力考査が実施される。定期テストにあわせた勉強をそろそろはじめなければならない。
 駅の出入り口から三分もかからず、私の家が見えてくる。インテリアの利いた喫茶店が一階にあるせいで、我が家の見栄えはとてもよかった。
 私の家に友人が集まることは年に数度あるものの、姉の状態を考慮して一度も家内へ招いたことはない。それに私の友人たちは、いつも家より喫茶店に興味を持ってくれるのだ。だから友人が集まる際は、毎度母親に頼んで喫茶店の席を提供してもらう。
 店内改装をしてからは、中学時代の友人が自主的に利用することもあるようだ。高校の友人たちも、一度来てみたいと話している。私の友人は自営業の家庭が多いものの、喫茶店を併設する家は私の他に知らない。
 喫茶店と住居は併設だが、家に入る玄関は別のところに設置されている。それでも私が帰宅するときは、あえて喫茶店のドアを開けるのだ。客の方にじろじろ見られるのは少し不愉快だが、ガラス越しのドアの向こうで姉が手伝っているのかどうかを確認することが、私にとって密かな楽しみとなっていた。
 彼女が喫茶店で働く姿は、本当にふつうの女性にしか見えない。不思議なことに、喫茶店を手伝っている彼女は、おかしなことをする発作を一度も出さなかった。その代わりのように、ふだんより表情の動きは乏しく、事務的にものごとを行なう。
 姉のことをよく知る私からは、自分の心情を最小限まで打ち消しているようにも見えていた。母の家業を手伝う姉の瞳は、どこか人形のようなのだ。ときおり、喫茶店にいることが不本意なのではないかというくらい冷たい目をしている。
 そのことに、まだ誰も気がついていないことが、私にはとても不思議だった。家族以外の人間を見るとき、話すとき、顔は笑っていても、目がその人を映していないような、違和感のあるものになっている。私は、そうした姉の目を好きになれなかった。両親を見るときの姉の幼い瞳も嫌いだった。
 しかし、私を見るときの目は違う。生き生きしているのだ。私や人間以外のものを見つめるときの瞳が、一番本物のような気がして、とても好きだった。彼女が生きている人のように見えるのだ。
 私は、外からあの喫茶店を眺める瞬間が一番好きだった。この家の内情を知っていながら、まるで理想的な家族に見える。そして、姉が喫茶店から私を見つけたときの姉の目が、一瞬でキラリと輝きを放てば、途端に嬉しくなるのだ。
 大半がガラス張りの喫茶店の前に立つ。秋分の日を過ぎて、ドアは開けられたままになっていることが多くなった。木材の白いペンキと観葉植物が、間接照明と相まって室内にやわらかい印象を与えている。板でかたどった階段を数段上がれば、背の高い女性が外へ顔を向けた。
 ほら、そこで笑いかけたのが、姉の詩帆だ。
 今日も彼女は喫茶店にでていた。私はホッとする心地を得て、喫茶店の中に入る。キッチンカウンターの細い通路までまっすぐ進み、白地に花柄のワンピースを着た彼女の前まで行き着けば、その瞳に光がこぼれた。
「真琴、おかえりなさい。今日は、帰ってくるのが、遅かったね」
 奥にあるカウンターキッチンのそばで姉がほほえむ。
 両親ともあまり話さない姉は、唯一私にたいしてだけ気持ちよくしゃべる。血を分けた姉妹だからなのか、もともとの性格を多少ひきずっているのか、彼女は相変わらず私に過保護で、ひどい仕打ちは一切してこなかった。私も姉にはとかく弱かった。
「ただいま。今日はちょっと友達と話しこんで、遅くなっちゃったんだ。でも、明日は土曜日だし、お昼ご飯までには帰ってくるよ」
 私立高校に通う私は、土曜日も授業がある。しかも、二年に進級してから苦手な科目が揃う時間割だ。
 土曜日となれば渋い顔をするようになった妹の私に、姉は同情してくれる。彼女に曜日の観念はないが、土曜日というものは一週間に一度訪れることを知っている。
「真琴の、嫌いな土曜日。でも、真琴と、お昼ごはん食べられるから、好きよ」
「うん。明日は昼に帰ってきて、その後は予定もないから」
 そう答えれば、姉が嬉しそうな表情をする。
 明日はテスト勉強をはじめる前の準備に時間を割いて、残りは姉の側にいようと思っていた。日曜日は友人たちと出かける予定がある。
「一緒に、いられるね。また、お勉強するの? 真琴は、いつも、がんばっているね。あたし、それを見ているのが、すごく好きなの」
 彼女はいつも、私をまっすぐに見つめている。私の存在を認めてくれる言葉を、打算なく口にしてくれる姉が大好きで支えになっていた。
 彼女は思い出したように「あっ、」と、声をあげる。
「ライム、ミントゼリー!」
 喫茶店の奥で立ち話をしていたものの、姉の声が少し大きかったのか、店内にいた母親がすぐに現れた。姉は母の姿を見つけ、萎縮することもなく冷たい瞳に戻る。
 そばに来た母親は姉にたいして諫めることはせず、手にしたプレートをカウンターに置いて私を見た。喫茶店のマスターの表情をしている。感情的にならない人で、この人が腹の中でなにを考えているのか、訝しく思うことも度々あった。父親のほうが、明らかに姉や私に気を遣っている。
「おかえりなさい」
 そう母親に言われて、無機質な「ただいま」を返す。母親はすぐ姉へ向き合った。
 母親と姉は背が高い。父親と三人して同じような背丈をしている。家族の中で、私一人だけが彼らより頭一つ分身長が低かった。
 私は中学時代、もしかしたら拾い子なのではないか、と、真剣に悩むくらい、一向に伸びない背を気にしていた。
「詩帆ちゃん、疲れてない?」
 彼女はコクンと頷く。子どものような仕草をする姿に、私は自然と視線を下ろしていた。
 どこか一人置き去りにされた気分になる。姉がおかしくなってから、感じるようになった一種の不安だった。二人とも私より背が高いのもいけない。
 金曜日の夕暮れは、客の出入りが少なくなる。母親は人の動きを知っていて、長女にやさしく言葉をかける。姉は返答のほとんどを仕草で示すだけだ。
 早く荷物を置きに行きたかったが、姉がゼリーの取り置きを思い出しているせいで動けなかった。姉をいちいち不安にさせるようなことは避けたい。
 私は、本当に詩帆姉さんのことを想っている。
 しかし、同時に淡い嫉妬も胸の内に秘めていた。それは単純に姉妹だから、という理由だ。親の愛情を享受する姉が正直羨ましかった。
 あたりまえのことだが、両親は私以上に姉のことを大切に扱っていた。社会に出すことは難しいほど、精神状態が良くない姉だ。どれだけ調子が良さそうに見えても、またなにかのきっかけで暴れることも否定できなかった。 
 姉は喫茶店の手伝いをしているものの、業務内容はメニューやお水を出すこと、品物を提供する程度が限界だった。刃物を使うことは禁じられ、客からメニューを聞き取りにいくこともできない。知らない人の言葉を上手に理解できないのだ。彼女は自身が必要だと思わないものを、ことごとく受け入れない性質になっていた。
 一方、次女の私も、家で暇を弄んでいれば、母親の号令がかかり店の手伝いをさせられる。姉と立場が違って、小遣いをもらう代わりになんでもやらされた。高校生になってからは、店の番をしたこともある。
 私は、親にとって扱いやすい人間なのだろう。
 両親にとって、最優先事項は詩帆姉さんに関することだった。自分たちで守らなければならないのだと固く決意していた。そして私にも、次女としてそのことを強要していた。
 彼らにとって、私という存在はそれ以上の価値がないようにも感じていた。姉が気をおかしくしてからというもの、親は私と接するとき、『姉』というフィルターを事前に通す。正面きって接してくれた記憶は少ない。
 私は所詮、詩帆の妹でしかないのだ。娘の一人がああなった以上、あの人たちに私のことを気にかける余裕はない。それは次女の私もわかっている。
 だが、そうは言っても、私も娘の一人として認められたい。
 親を振り向かせるため、私は勉強を手段にした。それ以外、自分にさしたる特別な能力は見あたらなかった。姉のように容姿が良くて、絵を描くのが上手であれば、もっと別の道へ邁進できたはずだ。しかし私にはそれがなかった。
 中学校に入ってから、私は意識して人一倍勉強するようになった。女子で名門とうたわれる私立高校にも、公立校から編入した。難関と言われる少数募集の高倍率入試を合格し、今でも学年十番以内の成績を維持している。
 しかし、これは結果的に逆効果となってしまった。第一志望の高校に合格したときは、両親も確かに喜んでくれた。それも皮肉なもので、好成績が続けばあたりまえになってしまう。
 私は、とうとうあの人たちの中で、とても頭が良い子、という扱いになった。自分たちがいなくても大丈夫だ、と、我が親らしい解釈をしてしまったのだ。そして、現在の半放任状態がずっと続いている。
 昔から両親は、私たちの自主性にまかせる教育をしてきた。ただ、最近は一層、私の進路やプライベートに干渉してこなくなったと思う。良い成績を取ることで喜んでくれるのは、結局のところ姉だけだ。
 一時は親の無関心に勉強の意欲を失くしていたが、出来の良い妹を喜ぶ姉の姿を見て、私は腐りかけた気持ちを立て直した。
 それに、勉強は今やかっこうの暇つぶしとなっていた。机に向かっていれば、母親から店番を頼まれることはない。姉も土日は店の手伝いをしないのだから、家で暇を憂う前に、姉の相手をするか机へ向かうことが習慣となっている。
 私のもとから親の関心が離れるにつれ、その比重は姉へ向かう。その愛情を横流しするように、姉は私に寄り添った。一方通行にも見える家族関係だが、そうなったことで姉の精神はさらに安定するようになった。
 個人的な不満はあるが、これが自分の家庭での立場だと割り切れば、すべて許せるような気がした。とても窮屈ではあったが、私が我慢することで皆の均衡がはかれる。  学生身分の私は、あくまで親に扶養される身であり、姉を助ける力はないのだ。自分のことで精一杯の部分もあった。
 おそらく、一番苦しい思いをしているのは姉なのだろう。そう思えば、独りよがりに不満をぶちまけることはできなかった。私は自分の立場をよくわかっていた。
 姉の精神状態は、薬だけで治らないものだと医者に言われている。カウンセリングは、常に過呼吸との戦いだった。母親は長女が毎度苦しむ様を見て、無理な治療を行なうことを拒否するようになった。姉と母が拒めば、多数決で患者の勝利だ。
「おかあさん、お客さん来たよ」
 ドアからの物音に私が振り返れば、若い二人の客が店内の空席を見つけ座ろうとしていた。母親は姉と対面していた顔をすぐに広い空間に向け、手早くキッチンカウンターにあったメニュー表を取った。
「行ってくるわね」
 その言葉で母は、私たち娘の視界から消えてしまう。母親は元来動いていることが好きな人間だ。私が姉を見れば、焦点があった。
「真琴、ライム、ミントゼリー」
 片手を口許にあて、内緒話をするように抑えて言う。鈴のように涼やかな姉の声だ。私は目元をゆるめて頷いた。
「どこにあるの?」
「昨日と、同じところ。おうちの、冷蔵庫のなか。柚子の、シャーベットも、ちょっとあるの」
 答えた姉は、動こうとする私についていく素振りをする。ライムミントゼリーは家のリビングで食べることになるのだが、姉は手伝い中の身の上だ。それにも関わらず、彼女は仕事を放り出して私のそばで間食する様子を見ようとする。
 昨日の二の舞に陥りそうだった。昨日はそのせいで、いつもよりスピードを速めてゼリーを胃に押し込み、姉を喫茶店へ戻したのだ。
 今日は、そうした失敗を犯さないと決めていた。
「姉さん、ちょっと待って。私、先に着替えたり用意したりするから、ゼリー食べるときにまた呼ぶよ」
 姉を留めれば、彼女は不思議な表情をした。妹の制する意味がわからないのだ。理論が通用しなくても、納得させなければならない。
「一緒に、行ったら、ダメなの?」
「先にリビングには行かないよ、姉さん。自分の部屋で少しすることがあるの。ライムミントゼリーは、あと十分後くらいに食べるから、そのときにまた下降りて姉さんのことを呼ぶよ」
「それで、ひとりで、食べるの?」
「ううん、食べないよ。姉さんが取り置きしてくれたものだもん。絶対に呼ぶから、姉さんはお母さんのお手伝いを続けててほしいんだ」
 心配ごとを解消すると、姉はようやく頷いた。母がこちらに来るのを観葉植物越しに見留める。
 私は姉に、また呼ぶからね、と、念を押す。そして、言い忘れていた「ありがとう」を伝えた。彼女は、嬉しそうな笑みでもう一度頷いた。
 それを見れば、姉がとても愛しくなる。
 姉は私にとって、自らの存在を認めてくれるかけがえのない人だった。このまま彼女が安定する環境でいてほしいと痛切に願う。
 誰かがこの枠から外れてしまえば、全部壊れてしまうほどの脆さを、私は日常の中で薄々感じていた。寸でのところで持ちこたえている家族なのかもしれない。それでも、姉のためならば現状維持でもかまわない。
 私はこのかたちがベストだと思っていた。両親もそう思っていたに違いない。



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