* なつのこども * | |
昭和が終わる寸前に建てられたマンションのドアは重い。紗幸は体当たりをするような勢いで、クリーム色のドアをぐっと押した。 ママには、ちょっとおそとにいってくる、と、伝えている。いつものように、どこまで行くの? だれかと約束してるの? と訊かれたから、ちょっとだけだよ、と、答えにもならない返しをしながら短い廊下を走ってサンダルを履いたのだ。ママはパパよりも心配性ではないから、こどもひとりで外へ遊びに行くことを容認してくれる。パーッと感情のまま動きたい性格の紗幸にとって、ママは味方だ。 昼下がりの夏は暑かった。共有廊下に出ると、さんさんと降り注ぐ日光が眩しい。猛暑が続いて、おともだちはみんな冷房から離れたくないようだ。一昨日までいた、山奥のおばあちゃんちが少しだけ恋しくなった。 あそこは町全体がエアコンをかけたみたいに昼間も涼しい。夜は逆に寒いくらいで、夜のたびにママかおばあちゃんの布団のなかに潜って紗幸は眠った。近い歳の子がいないぶん、ちょっとはさみしいかな、とママは思ったようだけど、紗幸は気にならなかった。スポーツや勉強で忙しくしている親戚のおにいちゃんとおねえちゃんが暇なときはかまってくれたし、ひとりで遊んでいても、おばあちゃんちは不思議と楽しいのだ。きっと大好きな虫や植物に囲まれていたから、ひとりでも楽しかったのだろう。 小学校に入ってはじめて体験する夏休みは、お盆を過ぎてもまだ続いている。宿題はおばあちゃんちへ滞在する前に、母娘で勢いよく終わらせていた。だから、こっちに戻ってきてから毎日がへんに暇なのだ。二学期からなにか習いごとする? と、相談を持ちかけるママには、お習字がしたい、と言っておいた。最近は漢字がとってもおもしろい。 漢字の楽しさを教えてくれたのは桜子だ。生まれたときからずっと一緒の同い年、あたりまえのように幼稚園も小学校も一緒に入学した幼なじみだ。桜子は年中さんのときから近所の習字教室に通っていた。だから、字はクラスで一番きれいだったし、漢字も成り立ちもよく知っていた。家の中で遊ぶときは、お絵かきのついでに桜子から漢字をいろいろ教えてもらっていた。 紗幸は蒸し暑い廊下を大股でゆっくり歩く。一歩、二歩、三歩、四歩。桜子のいた306号室から紗幸の家である302号室まで、一番少ない歩数で行くやり方をいつも二人は模索していた。ぴょん、ぴょん、とジャンプして行く方法も試したけれど、一番大股で行くほうがいいようだ。去年に比べて少ない歩数で行けたことをこの前ママにお話したら理由を教えてくれた。身長が伸びたからよ。ママが説明する「歩幅」という単語の意味はまだちょっとわからない。 桜子の家だったところのドアに着いた。紗幸のところと同じクリーム色のドアだ。でも、ずっとついていた「馬宮」という苗字のプレートはなくなっていた。夏休みがはじまって三日目に外された。桜子の家族が県外へ引っ越したからだ。 生まれたときからいつも一緒だった親友と離れて、紗幸は泣かなかったかというと、やっぱりちょっと泣いた。引っ越しのお話は小学校に入学した直後からひとつの可能性として聞かされていた。そういう下地があったから、桜子がいなくなる心の準備は自然にできていた。あとは、引っ越したといっても隣の県だから、会おうと思えば会える。住所も電話番号も聞いた。どちらかがケータイ電話を持つようになれば、毎日メールだってできる。前向きなお話は、桜子ともしたしママも何度もそういってくれた。だからそんなにさみしくはない。 桜子の家のインターホンへ、がんばって手を伸ばす。最近ようやくなんとか中指だけ、ジャンプしなくても届くようになった。ハイタッチのように一瞬強く押すと、ピンポーンという音が鳴る。そのあとは静かだ。もう一度押してみた。ピンポーンと鳴って、誰も出てこない。 ちゃんとわかっている。桜子はもうこの家に住んでいない。でも、紗幸は玄関ドアに近づいて片耳をくっつけた。クリーム色のドアはひんやりしている。目を閉じて息を止めた。耳を澄ます。廊下の反対側でセミが鳴きだした。 ちゃんとわかっている。おうちのなかにひとはいない。でも、紗幸は耳を離すとドアに備え付けられている新聞受けを押してみた。ちいさい小窓だけど、紗幸の年齢ならまだなんとか片腕が入る。だから、いつものように入れてみた。思ったよりもなかは涼しいけれど、ほしいものはなにもない。手を抜いて、今度は身を屈めて新聞受けの先を目で確認する。薄暗くとても静かだ。紗幸はドアから身体を離した。 ……やっぱり桜子、いないんだあ。 わかっていたけれど、確かめて思った。今もインターホンを押したら桜子かおばさんが出てきてくれる気がしてならないのだ。 ……わかっているのに、どうしてそうやっておもっちゃうんだろう。いまは桜子がおばさんといっしょにおでかけしていて、おうちにいないんだって、おもっちゃう。 共有廊下に物音が響いて、紗幸は俯けていた顔をそちらへ向けた。開いていたのは自分の家の玄関ドアだった。そこから、ひょっこりとママの顔があらわれた。 「さゆちゃん?」 ママはきょろきょろすることなく、そう言いながら右に向いていた。まるで紗幸の行動を読んでいたようだ。目があって、紗幸より先にママが微笑んだ。 「さゆちゃん。外暑いけど……いまから、ママとセミ取りに行く?」 「セミとり! いく!」 紗幸はママの言葉に、目を輝かせて駆け出した。待って、ちょっと準備しようね、というママの声に、目の前で立ち止まった彼女は顔を上げて大きく頷く。そして、ママの手をつかまえて部屋のなかへ戻っていった。 クリーム色のドアは、紗幸の明るい声とともにゆっくりとした重みで閉まる。 二学期は、まだはじまらない。
| ... back
|