* スタートライン *


 孝祐が願っていたとおり、当日は快晴だった。運動会に吹く緩い秋風は、正午へ導かれる日光の鋭さをまろやかに解消する。地域によって運動会は春に行なわれるところもあるというが、おれの小学校は秋でよかった、と孝祐は密かに思っていた。涼やかな空気を切って走るのが一等好きだ。観戦中も暑さにイラつくことはないし、汗をかいても秋風がさらりと肌を拭ってくれる。
 それに、運動会を秋にしようが球技大会を春にやろうが、海外赴任中の父親は息子の勇姿を見に来ることはないのだ。父親が孝祐の晴れ舞台に登場したのは幼稚園までである。小学校へはまだ一度も足を運んだことはない。再来年は中学校へ進学するから、今の調子だと父親が海外へ行っている間に卒業式を迎えてしまうのだろう。
 母親から弁当をもらって登校すると、孝祐は友人たちを見つけるよりも先に前日セッティングした自分の椅子を目指した。児童はまだまばらで、朝の風は少し肌寒い。競技を繰り広げるグラウンドの外円に沿って整然と並べられた椅子たちは、一種のモニュメントのようだ。これが美術館に展示されていたら、タイトルはそのまま「運動会」だろう。母譲りに少し洒落たことを考えながら、孝祐は自分の学習椅子に座る。すぐに友人がやってきて、全員が揃うまで雑談が続く。
 いつもと違う、ということは楽しい。今日はグラウンド上で各クラス簡単な朝礼がはじまった。保護者も入場許可がでたのか、一気に集まってきた。孝祐は数日前に配られた運動会のパンフレット(児童用)と校舎についている中央の大きな掛け時計を見比べた。あと少しで開会式だ。
 保護者席を眺めると、母親らしい姿を見つけた。毎年、彼の母は保護者席の最前列を陣取って、小型ビデオカメラをまわしている。バッチリ息子の勇姿を取って編集し、正月にしか帰ってこない父親へDVDを郵送しているのだ。今回も間違いなく同じことをするのだろう。孝祐も暇ができた時間に、母親のところへ寄ってみるつもりだ。
 整列集合の点呼がして、孝祐は友達と入場口のほうへ向かっていった。


 かけっこで一等賞を取れば、来年の運動会はパパが来てくれるかもしれないわよ。

 低学年の頃は、運動会前になると母親にいつも軽い調子で言われていた。でも、今やあれは母親なりのガッツの入れ方だと知っている。事実、三年生くらいまでは本気で父親を呼び寄せるために走ったのだ。四年生になって一等を取ったくらいで父親は運動会に訪れないと悟った。
 毎年、運動会前に「去年一等を取ったのにお父さんが運動会を見に来ない」理由を訊いていたが、母親は「急なお仕事が入ってしまって」とか「どうしても断れないお仕事のプロジェクトの最中で」などと上手にかわしていた。それは全部嘘だ。
 嘘というか、いつも忙しくて父親は日本に帰省できないのだ。孝祐も、父親が運動会を観に行きたくても行けないと嘆いていたことをよく知っている。暇があれば帰りたいようだが、高い交通費と片道十八時間がそれを難しくさせている。一度、去年のゴールデンウィークに一週間帰省してきたことを、母は「奇跡」と称していた。そのときの家族旅行はとっても楽しかった。
 あの一時帰国が奇跡であれば、父親が運動会を観に帰国してくるなんて奇跡以上の奇跡である。孝祐は母親との運動会にまつわるやり取りに、もうムカツクことはできなかった。父親の仕事の都合をとやかく言ってもどうしようもないのだ。それでも一応、今回も運動会前に父親が見に来ない理由を訊いた。去年に比べてだいぶ考えがドライになった息子に気づいているのかいないのか、母親は去年と同じ茶番を繰り広げた。もはや今年の孝祐は、自分のために一等を狙っていた。
 とはいえ、今まで別に父親を呼び寄せるためだけに一等を取っていたわけではない。単純に走るのが好きでもあった。孝祐は今のところクラスの中で一番脚が速い。一学年3クラスごとしかない学校なので、タイムで言えば学年だと三位以内、全学年でも一〇本の指に入っている速さだ。
 しかし、孝祐の気持ちとしては、タイムで競うよりも仲間たちの中で実際に争っているほうがまだまだ楽しかった。体育でタイムついでにクラスメイトと競うも好きだが、5レーンを使って他クラスの奴らとも競い合いたい。すると、運動会はかっこうのイベントなのだ。
 運動会のいい点は、勉強の時間を潰して練習や準備をするところだ。放課後の合同練習なども楽しい。一ヶ月ほどこのイベントのためにグラウンドへ出る回数は増えていた。勉強より体育着を着るほうが孝祐は好きだ。しかし、勉強が嫌いなわけでもなく、できないわけでもない。すでに塾には通っており、中高一貫校の受験も決めている。クラスメイトの中でも、孝祐は家で勉強をしているほうだろう。だからこそ、グラウンドに出る機会が嬉しいのかもしれない。
 今年も運動会は時間を大幅に押すことなく、午前中のプログラムの大部分を終えていった。何度もこの学校で経験しているので、おおきく段取りが変更されていないのはパンフレットを見ればわかる。午前のプログラムで一番盛り上がる競技は、昼休みに入る前の高学年混合一〇〇メートル走だ。男女別で、クラス中の一番早いメンバーが集まる。孝祐はもちろん選抜されていた。一番やる気に満ちる理由は、学年別ではなく五六年の混合である点だ。五年生には不利な種目だが、逆に燃える。むしろ、このハンデを楽しむ者が種目に参加しているといっても過言ではない。
 孝祐はこの他にも、午後は運動会メインにあたるクラス対抗メドレーリレーに選抜されている。一組、二組、三組で一年から六年まで最も速い男女二名ずつが六チームを編成して競うという最も花形的で盛り上がる種目だが、孝祐はやはり昼前の一〇〇メートル走のほうが重要だった。他に学年全員でやるダンスとかなんとかあったが、はじめのほうに組まれていたこともあって、終わってしまえば内容もすっかり飛んだ。今は走ることしか念頭にない。
 真昼に差し掛かるグラウンドは日差しを真っ向から受けているものの、秋風がとおり抜けると気持ちいい。この野外らしい程よい熱とさらさらした風の中で、速さを競うのは誇らしいことだ。集合のアナウンスが聞こえて、孝祐は持ち場から離れた。種目を把握している友達に軽く激励される。やはり一番速く走れる男は優位に立つ。運動ができることは男女問わずカッコイイ対象だ。
 走りには自信がある。おそらくどのレーンにあてがわれても一等を取れる自信があった。高学年の男女がそれぞれ予行練習をしたとおりに並んでいく。この種目が終われば昼休みだ。一〇〇メートル走者以外は、これが終われば弁当の時間だと思って浮き立っている。特に午前最後の競技は見ごたえがあって、しっかり観戦する児童や保護者が多い。孝祐も去年まで憧れながらじっと見ていたものだ。速ければ速いほど、カッコイイものなのだ。
 アナウンスと曲が流れて、男女走者が競技グラウンドの中へ入っていく。女子からはじまり、男子で終わる。孝祐は男子の最終走者となる。学校では、この種目とメドレーリレーにだけなんとなく暗黙の了解があって、最終走者付近の数列は一番脚が速いとされる児童たちが並んでいる。孝祐は四年生まで半信半疑に思っていたことが、真実であると今回知った。つまり、孝祐と一緒になって走る面子は、高学年の間でトップレベルの脚の速さだということだ。確かに隣のクラスで一番速い奴が、孝祐の左隣で出番を待っている。孝祐はますます気合が入る。
 予行練習では使われないスターターピストルが、第一走者の近くで片腕を上げた。パンッという力強い音がして、女子部の第一走者が走り出す。快活な曲とともに歓声が少しずつ生まれ、孝祐は集団とともに立ち上がった。もうすぐ出番だ。曲も女子たちの走りも気にならない。目指すもの、欲しいものはただひとつ。それに照準を定める。
 あっという間に女子がすべて走り終えると、男子の部がはじまった。歓声は一際大きくなる。高学年の走りの力強さは、児童の中にない男らしさがあった。孝祐も去年までこの種目を惚れ惚れと見ていた一人だ。混合のリレーと違って、男の中の男しか走らないように感じるのだ。特に兄弟を持たない孝祐からすれば、一つ年上の児童でも体格がよければ男らしく見えた。速く走れることは男の勲章みたいなものだ。
 今年は、とうとうその位置に自分がいる。単純に嬉しかったし、結果を出さなければと思う。でも大丈夫。かならず結果は出せる。前々走者が走り出した。孝祐も準備をはじめる。出だしが肝心だ。最後の走者だけ、もう一度スターターピストルが鳴る。ゴールのときにも二度鳴る。午前のプログラムが終了する最後の見せ場なのだ。皆の視線が集中する。
 注目されるのは一瞬だ。走りはじめてゴールに着くのも、一〇〇メートルならば一瞬ともいえた。しかし、出だしは肝心だ。空気が孝祐の頬を撫でる。合図の声がすると、世界はピストル音を待つばかりとなった。パンッと音がして、孝祐は勢いよく飛び出した。
 白く引かれたレーンを無心で走る。無心でも、両隣から走者がでてきていないことはわかっていた。間違いなく今回も一等だ。最大限まで加速した脚ですぐそばのゴールへ駆ける。絶対に勝てる。確信したすぐそばで、何かがすっと孝祐の前へ飛び出した。色合いですぐにわかった。赤トンボだ。わかったときには、赤トンボが一番にゴールを通過していた。パンッと、一等を知らせる音が鳴り響く。
 赤トンボはすでにそのもっと先へと身を滑らせて、運動会などものともせずに消えていった。隣のクラスメイトに肩を叩かれて我に返る。孝祐は無事、この度も一等を取った。有言実行だ。席に戻るとバッグを持った友達に、ダントツの速さを褒められた。腑に落ちないまま孝祐も弁当の入ったバッグを取って、放心したように仲間たちと昼食を摂った。
 早々と食べて、母親が陣取る場所へ足を運んだ。
「孝祐、今回もやったじゃない。午後のリレーも楽しみにしてるわよ」
 ニコニコ顔の母親を見て、孝祐はようやくゴールで生まれたモヤモヤするものが、悔しさであることに気づいた。
「お母さん。でも、トンボに負けた」
 途端に口惜しい表情を見せた息子に、どういうこと? と、母親が不思議そうに問いかける。しかし、詳しく説明する気にはなれなかった。
 自分より先にゴールしたトンボ。フォームはとても綺麗だった。すっと、まるで風のように飛んでいった。
 先を越されたことより、自分にはないしなやかな動きをしていたことが腹立たしかった。すまし顔で、孝祐など相手にしない素振りで淡々と身体を滑らせ走る。自分もあれくらい綺麗に走りたい。速ければ速いほど、美しいのだ。
 速くて美しいものになりたい。新たなライバルを見つけた孝祐は、新たな目標を設定する。それはもう一等では物足りなくなっている証拠だ。
 あのトンボのように、しなやかに軽やかに走る。彼の脳裏は母親や現状をそっちのけにして、早くも来年の運動会のイメージを描いていた。



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