* プレイス *


 あの子と仲良くしないほうがいいとか、あの子はあんまり好きじゃないとか、あの子は不潔な感じで近寄ってほしくないとか、毎日聞かされるグループのちいさな発言を芹花は曖昧な微笑で受け流していた。
「芹ちゃんは、そういうのない? 前、けっこうあの子に懐かれてたじゃん」
 クラスの友達にそうやって言われても、芹花は言葉を窮さない。
「うーん、そうでもないよお」
「芹ちゃんって、そういうのおおくない? ほら、前もノート見せてたじゃん」
「そうだったっけ? あんまり覚えてないや」
 当たり障りのない微笑みというのは、誰も傷つけることはない。そして誰の記憶にも留まらないことを知っていた。四人だけでおさまる雑談は未舗装の十字路で途切れ、二人と一人と一人に別れる。芹花は振り返ることもなく道の向こうにあるマンションを目指した。
 土曜日の特別授業は、月に一回ある。母親は「私の頃は土曜日授業なんて当たり前だったのよ」と、芹花に聞かせていた。最初はうざったい規則だったが、学校に行けば友達に会える。昼食を家で食べて、また遊びに出ればいい。
 太陽光が暖かい集落は平坦だ。一年半前、この土地に引っ越してきた。そして、中学へ上がる少し前にまた引っ越すのだと聞いている。期限付きの居場所。芹花は友達のつくり方を心得ていた。来年の春、芹花はここを離れる。まだ友達たちには言っていない。
 どの土地にいても友達になってくれる子は好きだ。それぞれ集落なりの秩序があって、学校、学年、クラス単位でコミュニティーに癖がある。それは芹花にとって魅力的で、おもしろいと感じれば溶け込むのは容易かった。別に人見知りではなく、人に流されるのも嫌いじゃない。
 この土地にいる友人たちは皆良い子たちだ。転校してきた芹花に親切で、他の子が芹花を軽いいじめ対象にしようとしていたときも、ちゃんと救ってくれた。芹花ちゃんのことが好きだから、あの子に言われても無視なんてしないよ、と、てらいなく言ってくれるグループだった。転校生という弱い身分で、こうした枠組みに入れることは大切だ。ただでさえ知らない土地に事前知識もないまま住まわされるのだ。親のようにわかっていて住むわけじゃない。子どもたちは強制的に決められた学校へ収容される。
 芹花は恵まれていると思う。だから、彼女たちの愚痴や悪口も微笑んで聞いていた。本当は『そういうの』自体が好きじゃない。でも、言えなかった。芹花は言える立場にいない。
 ……わかっている。わたしはみんなに守られている。
 白黒がはっきりしている母親は、「陰口とか平気で仲間はずれするような女は年齢関係なく嫌いだ」と言う。海外に長いこと住んでいたこともあるくらい、理知的で精神が強い母。何度もママのようになれればわたしも楽なんだろうな、と芹花は思う。でも、そのやり方をしてしまえば、クラスで芹花は確実に浮いてしまう。ただでさえ転校して二年も経っていない身なのだ。毎日頭ひとつ浮かないよう努力をしているのにもかかわらず、母の助言は仲間はずれにされるアドバイスだった。学校という組織は、そんな気楽なものではない。芹花は学校を選べない。
 それに、彼女たちは陰口や軽い仲ははずれのような発言をする程度で、陰湿さはこれっぽっちもなかった。悪い子たちではないのだ。陰口なら女の子の大部分が雑談の一環で言っている。彼女たちは、それが誰かを傷つけていると知らず無意識で言っているだけなのだ。無邪気さのあらわれだった。
 ……それに、本当に悪い子たちだったら芹花のピンチを救わないもん。
 ランドセルを背負って、俯きがちにマンションのエントランスをまたいだ。ひんやりした内部と対照に、セミロングの髪が妙に熱い。太陽の熱を吸収してしまったのだろう。芹花はロックを開錠するための鍵を所定位置に差し込んだ。自動ドアが開いた。
 今日は母親がいる曜日だ。日曜日は父親が家にいる日。芹花は火金土が友達と遊べる日になっていた。月水木は塾と習い事が毎週はいっている。土曜日は学校がないと、午前中は勉強時間にあてられる。今日みたいに特別授業がある日は金曜日に出される宿題が少なくなるからいい。
 四階にある玄関のドアを開けた。
「ただいまあ」
 靴箱の上にある置時計を見た。学校がある日の土曜日の時刻。母親の「おかえりー」という声がリビングのほうが聞こえる。帰宅時間が明確な日は、帰ってきた瞬間ご飯が食べられる手筈になっている。ランドセルを自室において、リビングに行く。
「すぐにご飯できるからね。手、洗った?」
 おめかししている母親がキッチンに立っていた。繁華街に出るのだろうという、軽いよそ行きの服装だ。
「まだ。お昼はなになの?」
「オムライスとサラダ。昨日のごはんが残ってたから」
 好物の名前に芹花は少し嬉しくなって、洗面台へ手を洗いにいった。四人がけのダイニングテーブルに着いて食事がはじまる。母のおめかしで、口紅だけは後回しにされているようだ。
「お昼食べてからデパートへお買い物に行くけど、芹ちゃんもついてくる?」
 オムライスより多く盛られたサラダを食べる母親の台詞に、芹花は一瞬だけ戸惑った。
「う……ううん。今日はいい。友達と約束してるから」
「あらそう、約束してたのね」
 繁華街に行く誘いは魅力的だったが、芹花の秩序が勝った。母親は続けて、「今日はなにちゃんなの?」と問いかける。
「亜衣香ちゃん」
「ああ、芹ちゃんのあとに転校してきた子?」
「そうだよ。二学期にきた子。三時前に亜衣香ちゃんち行くって約束してるの」
 ケチャップを追加しながら話す。今日遊ぶ相手は一人だ。渡辺亜衣香と遊ぶときは基本的に一対一だった。亜衣香が芹花たちの放課後遊びにほとんど付き合わないのだ。彼女が転校してきた頃は、皆で一緒に駄菓子屋さんへ行ったりスーパーで買い食いしたり公園で遊んだりしたのに、今では芹花が一人で亜衣香の家までわざわざ通っている。
「そうなのね。陽が暮れるまでには帰ってきなさいよ。ママもそうするから」
「うん。なんかお菓子持っていっていい?」
 いつも亜衣香の家へ行くと、なにかしらの飲み物が出される。芹花はいただくばかりがあまり好きではなかった。もらうのも好きだが、あげるのも好きだ。
「いいわよ。あったかしら? なかったら、途中のスーパーで買ってきなさい。レシート出してくれたらお金出すから」
 母親はそうした芹花の考え方に理解を示していた。お小遣い外の予算で、芹花は駄菓子屋さんではなくスーパーに寄ろうと思った。
「はーい。パパは今日何時?」
「早いんじゃないかしら。飛行機が時刻どおりに着けば、七時くらいかしら。したら、ご飯は外食になるかもしれないわね。芹ちゃん、七時前までには帰ってきてほしいかも」
「うん」
「それにしても、梅雨だっていうのに晴れてばっかりね。まるで夏がきたみたい」
 母と別れ、折りたたみ傘とバッグを詰めた自転車をこいだ。途中でスーパーに寄って、小分け袋にはいったクッキー箱をひとつ買った。
 ……これなら亜衣香ちゃんも、文句はないよね。
 芹花はそう思うが、そもそも亜衣香が芹花へ文句を言ったことなどひとつもなかった。彼女も芹花と同じで、人の悪口を言ったり仲間はずれにしたりする感覚が嫌いなのだ。と、芹花はそう思いこんでいた。彼女に関しては同じ年に転校してきた仲間として、ここに住む学校の友人たちとは一線違う気持ちで接していた。
 去年の二学期に転校してきた亜衣香を率先してグループに加えようとしたのは芹花だ。転校してくるということ、学校に馴染むための労力、それを何度も味わってきた芹花は、転校という行為をはじめてしてきた亜衣香に辛い思いをさせたくなかった。同じことをしてきた身として、何かお手伝いをしたいと思ったのだ。
 それが同情や節介だと考えたことはなかった。一目会ったときに、友達になりたい、と思ったのも確かだ。自分にはない端正な顔立ち、知的な瞳、物静かだけれどお話好きな口元。
 彼女の家に近づくにつれ、下校中一緒だった友達に言われたことを思い出す。
『亜衣香ちゃん、こないだ芹ちゃんの陰口言ってたよ』
 はじめそう言われたときはびっくりした。前日は彼女の家で遊んでいたし、それどころか教室内でも定規を貸してくれてお話もして笑っていた。
『芹ちゃんがうっとうしいときがあるんだって。お節介だし押し付けがましいとか。そういう言い方ないじゃん、あっちのほうがなんか付き合い悪い感じなのに。うちは芹ちゃんの味方だからね』
『そんなやつ、もういいじゃん。芹ちゃんも付き合うのやめなよお』
『渡辺さんって、たまにヘンな目つきするよね。見下したみたいな。実は性格悪いんだよ』
 確かに亜衣香はマイペースなところがあった。亜衣香にたいして反発心が日に日に大きくなる友人たちの会話に、芹花は頭をフル回転させながら曖昧に微笑んだ。どうすればいいのか考えた。このグループ内で、醜いことが起こってほしくない。芹花はそのためならば、どれだけでもしっかり発言できる。
 ……でも、本当に亜衣香ちゃんはわたしのこと、どう思っているんだろう。
 迷惑なのだろうか。もしかして最初から、全部迷惑だったのだろうか。学校というくくりで当たり障りのない生活をするために、転校直後は芹花のお節介を受け入れた感じなのだろうか。今はいくらか馴染んだから、もう芹花は邪魔ということなのだろうか。
 友達の悪い噂は信じたくない。本当ならば、芹花に面と向かって言ってほしい。いつか正面きって亜衣香に訊いてみようと思う。でも、今すぐには無理だ。けれど、早いうちにすべきだった。現に亜衣香はグループの中で確実に嫌われつつある。
 どうすればいいんだろうと何度も思う。彼女が芹花のことをお節介だというならば、友人たちに「そうじゃないよ、亜衣香ちゃんはイイ子だよ!」と反論することもお節介にあたるのだろうか。仮に、本当に亜衣香が性格の悪い子だとすれば、逆に亜衣香を擁護する芹花も空気の読めない子として仲間はずれの対象になる可能性は高い。
 保身は大事だ。でも、友達も救いたい。……けれどそれ以前の問題で、その友達が芹花を心の底で嫌がっていたとしたら?
『めんどくさい子に付き合うの、やめたほうがいいよ』
 確かに、あのグループの友達が言うとおりだ。
 ……そうだとしても、わたしは亜衣香ちゃんを信じたい。
 さっき家で一緒にご飯を食べた母親は、一人娘の芹花に常日頃言っていた。
『芹ちゃんには、なにをしても怒らないし、自由にやってほしいの。ただ、自分のすることと言ったことだけは、ちゃんと責任をとりなさい』
 ……もし亜衣香ちゃんが性格の悪い子だったとしても、それ自体は、きっと亜衣香ちゃんが悪いわけじゃない。わたしが傷ついてたとしても、亜衣香ちゃんと友達になった私が悪い。亜衣香ちゃんは悪くない。わたしがぜんぶ悪いんだ。
 下校中に聞いた、友人たちの亜衣香にたいする認識を、芹花は自転車に乗っている間にかき消した。
 ……お菓子もちょっとリッチでおいしいのを買った。もし、わたしのことが嫌いだったとしても、このお菓子で少しは芹花が来てくれてよかったかもって思ってくれたらいいな。
 家のガレージに自転車を留めて、芹花はしゃんと背筋を伸ばした。「わたしは亜衣香ちゃんの友達だ」と心の中で確認する。玄関の呼び鈴を押した。亜衣香ではなく、彼女の母が出てきた。
「あ、芹花ちゃん。亜衣香、中にいるわよ」
 笑顔のおばさんに、芹花はホッとする。お邪魔しますと言う前に、亜衣香の様子を訊いた。
「亜衣香ちゃん、なんかしてましたか? 約束するとき、なんか悩んでいたから……あの、」
「そうなの? お昼ごはんのときに、後で芹花ちゃんが来るからって飲み物の用意とか漫画とか出してたから、……あら、もう気にしないで」
 芹花の少し下がった眉毛と目じりを見たのか、おばさんが微笑む。芹花は家に入ることが許されたような気がした。
 皆、悪い子じゃない。性格がバラバラなのは当たり前だ。その中で陰口や鬱積があるのも当たり前だ。うまくいかなくなるときが起りえるのも当たり前だ。芹花はいろんな土地でいろんな人間関係を学んだ。
 ……みんなが仲良くて悪口もなくて、うまくいくようになるためには、わたしがまず友達を信じなきゃダメだ。
「芹花ちゃん」
 リビングで亜衣香の呼ぶ声がする。普段どおり、友達と知らない人でも同じように接する表情。亜衣香は終始知的で静かな感情しか見せない。だから、芹花でも彼女の本音はときどきわからない。今はもっとわからない。
 わからなくても、今日は大丈夫だと思ってお菓子を渡した。すぐに、お茶の用意をすると母親を呼ぶ。亜衣香の後ろ姿を見ながら、この土地にいるまでは、亜衣香の家へ遊びに通おうと思った。亜衣香が芹花に面と向かって嫌いだと言わないかぎり、きっと友達だ。亜衣香が友達だと思っていなくても、芹花が信じているかぎり友達だ。
 ……それで、この土地を離れる最後の遊びは、ここの家に来たいんだ。最後は亜衣香ちゃんのそばで、静かにこの土地へ別れを告げたい。
 それが果たされますように。
 キッチンで目があった無表情の亜衣香に、芹花は心に願ったそれを笑顔にかえた。



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