* 白と翠、 * | |
「13℃くらいで底冷えするだなんて、じゃあこっちはどうなんのよ」 呆れたように携帯電話を切った母親の声で、芽衣紗は愛子の声を思い出した。 『メイちゃんのところ、どれくらい寒いかなあ?』 ハキハキした台詞にはドキドキとワクワクが籠もっていて、芽衣紗もつられるようにどれくらい寒いかウキウキと答えた。ここは凍えるほど冷たい風に文句が出そうになる日々が続いている。しかし、愛子の手にかかると話は別だ。生まれ故郷が妙にステキな感じに見えてくる。 母親が台所へ戻ると、窓越しに強い風の音が響いた。外は快晴だが気温は低い。日光は学校がある間に十分浴びていた。冬休みになってまで外へ駆け出したくはない。 一息をついた芽衣紗は、こたつに肘をついて窓の外を眺めていた。愛子とは昨夜も携帯電話でお話をした。この半月あまりで愛子は「そっちは寒い? どれくらい寒い?」というのがすっかり口癖になっている。南の島で暮らしている愛子に、この寒さを説明するのは少し難しい。この土地は海が随分遠い内陸で、海風の強い場所に住む愛子の知らない風が吹く。冬になれば雨より雪が多い。 先ほど母親が話していたのは愛子の母親だった。芽衣紗の母と愛子の母は姉妹関係だ。台所で緑茶を淹れる芽衣紗の母親は元々雪に縁のない島で生まれ育っていた。本土の中でも、海のない内陸県に嫁ぐとは夢にも思っていなかったそうだ。 窓の向こうの空では、動きの速い雲があちらこちらに散らばっている。今は風以外に強い音はない。時々スピーカー越しに町内放送が流れる程度だ。この時期は、焚き火に気をつけましょうとか防雪対策とかインフルエンザ対策とか、そういう放送が多い。 この県境に近くて緑が豊富な集落へ、今夜はイトコの愛子がやってくる。 それどころか愛子は本土に脚を踏み入れることすらはじめてらしい。昨夜の彼女のテンションはすごかった。荷物を詰めながら電話越しで興奮気味に話す愛子が少しかわいかった。芽衣紗はすぐ隣で聞いているように耳を傾けていた。声を聞くだけで、彼女の仕草や笑う表情が簡単に思い浮かべられる。まるで傍にいるように感じられる。 愛子は、生まれたときからとても身近に接する相手だ。けれど、会えるのは年に一度しかない。いつも芽衣紗が夏休みを利用して彼女の住む沖縄へ行くから会えているのだ。毎年の八月のほぼ全日を祖父母宅で過ごす芽衣紗にあわせて、愛子もその間は一緒の部屋で日々を暮らしていく。 今年の夏休みは、一人で特急列車と電車を乗り継いで羽田空港まで出て、そこから那覇空港へ降り立った。荷物はほとんど母親が郵送してくれるから、沖縄に行くときはいつもバッグとポシェットひとつだ。今回は一人帰省だったこともあって、とうとう自分用の携帯電話も手に入れた。もうずいぶん大人になった気分だ。 芽衣紗の携帯電話はまだ制約があって、家族とのやり取りにしか使わせてもらえないが、この機械があるだけで同級生の皆より少し優越感があった。愛子も芽衣紗の携帯電話の存在を知って、散々ただをこねたようだが、それもようやくこれを機に実ったらしい。こちらに来ることで、自分専用の携帯電話をようやく買ってもらえたと喜んで電話してきた。 ただ、芽衣紗のように一人で赴くことは沖縄の親戚たちに強く反対されたようだ。都会の猥雑や人ごみの多さに慣れていない彼女が、はじめての関東を一人で渡りきれっこない。第一、モノレールに乗ったことはあっても、本場の鉄道に一度も乗ったことがないのだ。愛子は渋々内地一人旅を断念した。 「はい、お茶」 コタツで冬休みの課題を広げる娘に、母親は湯のみをそっと置く。愛子が来ると宿題どころではないから、彼女が来るまで大方片付けておいたほうがいいと言われていて、そのとおり三分の二をすでに終わらせていた。いつもの冬休みにはない快挙だ。 「お母さん、お菓子食べていい?」 「そこの、最後の一問が終わってからね」 芽衣紗の言葉に勉強状況を覗いていた母がきっぱり答える。最後の一問は少し大きな余白があって、芽衣紗の一番苦手としている図形の文章題だ。嫌々先延ばしても宿題であるからには逃げられず、仕方なく芽衣紗はエンピツを動かした。とりあえず、計算式を片っ端からつくって解いて、一番あっていそうなやつにする。そのやり方では、数学になったときに大変なことになるよ、と、同じ地元に住む高校生の従姉に言われているが、芽衣紗は聞かないふりをしていた。来年から芽衣紗も愛子も中学生になるが、数学なんて難しい響きはまだピンとこない。 今夜はじめてここへ訪れる愛子には夢があった。 小学校を卒業するまでに、ホンモノの雪を見るというちいさな夢だ。彼女は沖縄の家で、ヨチヨチ歩きをしていた頃からひとつの本に執心していた。絵のたっぷり詰まった薄い本。全頁に描かれていたのは、雪景色である。 愛子は雪という事象にまるで恋をしているようだった。海なし県で生活する芽衣紗が海に焦がれるように、愛子は雪に焦がれて芽衣紗の家へ行きたがった。同様に、エメラルドグリーンの海がある島にたくさんの親戚を持つ芽衣紗は、学校の友人たちにとても羨ましがられている。友達の中には、まだホンモノの海を見たことのない子もいるくらいだ。愛子も、この年越しは内地でホンモノの雪を見られることをクラスメイトに話して羨ましがられているらしい。 生まれてから毎年沖縄の海で遊べている芽衣紗と違って、愛子は生まれてからまだ一度もちゃんとした雪を見たことがない。二人は会うたびに、一年くらい自分たちの住む場所を交換したいよね、と、氷ぜんざいを食べながら祖父母の家で愛子の本を見ていた。 『もうほんのちょっとでもいいからさあ。雪の降るときにメイちゃんちで過ごしてみたいねえ』 呪文のように語っていた愛子の願いは、今日とうとう願うのだ。 やっつけ仕事で余白を埋めて算数ワークを閉じる。残り四ページで難関の宿題が終わる。その前に甘いものを補給すべくコタツを抜け出す。いそいそと戸棚を空けた。母親が昨日街のデパートで買ってきてくれた銘菓のラスクを一袋取って、コタツに戻る。食べていると細々と台所で動いていた母親もラスクを取ってコタツへ腰を落ち着けた。隣で袋を開ける母を見る。 「お母さん、あした雪降るかなあ」 愛子の夢の大切な条件。年末年始に芽衣紗の家で過ごすことができても、雪が降らなければ意味がなかった。愛子の母親は、とんでもなく寒い時期にわざわざ行って風邪を引かないかと心配しているようが、当の愛子はその寒さをむしろ楽しみにしている。そもそも寒くなければ雪にはならないからだ。 「そうねえ。明日は夜から天気が悪くなるらしいから、降るんじゃないかしら。まあでも、降らなくてもスキーに連れてってあげるわよ。それでいいじゃないの」 当然のように雪が積もっているひとつ向こうの山のことを思い出して、芽衣紗は手折ったラスクの欠片を口に放り込んだ。確かに山にはスキー場があって、積雪量は見事なものだ。父親は愛子と芽衣紗をスキーに連れて行ってやると約束してくれている。しかも、そのやさしい父親は、今夜仕事帰りにわざわざ空港まで寄って愛子を拾ってきてくれるのだ。父親には感謝しなければいけない。 ……でも、それならいっそついでにここに雪も降らしてくれないかなあ。お父さんの力で雪まで降らせてくれたら、ホッペにキスでもしてあげるんだけど。 父親に無茶な注文を心の中で訴えながら、芽衣紗は煎茶をすする。 「ここに雪が降らないと、意味がないのね」 黙った芽衣紗の思考回路を読み取ったように、母の言葉が続いた。それに芽衣紗は強く頷く。 おそらく母親は、芽衣紗よりも雪を待ち遠しく想う愛子の気持ちを理解している。この土地の雪をよく知る母親も、毎年初雪になると童心が返ったように、玄関のドアを開けて降る真っ白いものを確認した。母はこの土地に嫁いで随分経っているはずだが、いまだ初雪を見るとワクワクするといっていた。その輝いた瞳を父は愛しているらしい。芽衣紗にはちょっとわからない。 それでも、生まれてこの方雪で遊ぶことが当たり前の芽衣紗であっても、今回については愛子に感化されて妙にソワソワしていた。今年の初雪なら、とうに終えている。積もるほどの雪はまだ来ていない。外は午後の半ばで翳りを見せているが、天候は晴れ。あの空をグーンと飛んで、愛子はひとまず東京に降り立つのだ。 「愛子が乗る飛行機ってなん時に着く?」 「だいぶ後よ。お父さんの仕事納めにあわせてるから。こっちに着くのは、かなり遅いんじゃないかしら」 愛子が発つ時間は聞いているから、夏に沖縄へ行く所要時間を逆算して考えると、こちらに着くのは夕食時間をかなり過ぎた頃かもしれない。駅まではおそらく母親が車を走らせるのだろうから、夕食も遅い時間になるだろう。二枚入りのラスクの一つを、母親が差し出して立ち上がる。 「愛子ちゃんとパパが帰ってくるまでに、やることやんないと」 母親の独り言を聴きながら、もらったラスクを胃の中におさめて芽衣紗も立ち上がった。算数の課題のラストスパートを前に、自分の部屋へ向かう。二階の自室にはすでに愛子用の布団が用意されている。ここで年末年始、この前の夏と同じく双子のように愛子と暮らすのだ。 芽衣紗の携帯電話には、新着メールが届いていた。 これから飛行機に乗るよ! 待っててね! 本文にそう書かれてあって、芽衣紗はわかっていてもワクワクした。今夜とうとう愛子が来る。前から決まっていたことだけれど、こうやって連絡が来ると、やっぱり嬉しくなる。 芽衣紗は壁に貼られた日本地図を見た。地図の中でも、沖縄とここは海を越えてだいぶ距離がある。夢と現実の距離が刻一刻と縮まっている。機上の愛子に返信をして、芽衣紗は携帯電話を学習机の上に置いた。 そして、日本地図の前に立って左手をつける。起点は沖縄本島。飛距離を伸ばすように、左中指の爪先に右手首の縁をあわせる。指を伸ばして、ぺったり地図上に手のひらをつければ見事、芽衣紗の住む県に薬指が終着した。父親似で同級生より少し長い自分の手指を誇った。 地図から離れて携帯電話を握り締め、芽衣紗は階段を駆け下りる。 もう少しで、愛子が来る。早く来ればいい。そして、愛子の見たがっているホンノモノの雪、早く降ればいい。 母親に、もっと静かに下りなさい、と、リビングに入った瞬間に言われたけれど、芽衣紗は聞こえないふりをしてコタツへ滑り込んで算数ワークを開く。あと少し。外で吹く風は相変わらず強く、その勢いで雪をつれてきてくれることを芽衣紗は頭の端で願った。
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