* スピードスター * | |
休日が不定期極まりない生活には慣れっこだが、ぽっかりなにもないオフというのは久しぶりだった。システム手帳に書かれてあった「クライアントと会う日」が、翌週へ移動になっていたことをすっかり失念していたのだ。右下に貼り付けられていた付箋紙に、「22日に移動!」と走り書きされていたのをスルーしていた自分に呆れる。付箋紙の意味がない。 八重子は暗がりの中で、意味もなく室内を眺めていた。曖昧に得たオフを弄んで、気づけばすでに夕刻だ。なにかをしようと思ってはいたが、結局やる気が芽生えずだらだらと貴重な休暇を無駄にしてしまった。あたりが暗くなり「後悔」という言葉がよぎるようになると、ますます気力は失せる。一日はぼーっとしていてもあっという間に過ぎる。 頭の冴えない一日だったのは、きっと空色のせいもあるはずだ。重いグレイは八重子の心に共感していた。覆われた色彩はいまだに雨が降るんだか降らないんだかよくわからない。そのどんより具合に外に出るタイミングを逃したのは、一日を無駄にするひとつの要因になっていた。結局、今日は雨は降らないのかもしれない。八重子は家から出ることもなく、お互い牽制しあうように同じ場所で停滞していた。 あと数時間で、日付が切り替わるのだ。今更なにをすればいいのかわからない。 「忙しい」、「じっくり考えごとをする時間がほしい」、そんなことを昨日まで周囲に愚痴っていた八重子であったが、いざ唐突に願いが叶ってしまうと情けないことになにをすればいいのかわからない。 ……いや、オフがあったらしたいことくらい、多忙な仕事の合間に色々ちゃんと思い描いていた。 それが実際オフになったらなったで、さっぱりその「したかったこと」を全部忘れてしまっている。昼に起床した時点からその状態で、だから最初に今日のことは今日考えようと考えなおしたのだ。しかし、見上げた掛け時計の針の進みは速い。自分の知らないうちに誰かが時計の針を狂わせたのか、と妄想までしたが、不規則な生活を送る八重子の体内時計がずれているだけなのだろう。光を遮断する雲もいけない。 そして、一日腐っていたことに愕然とする。 なにか、かたちを残したい。残り数時間くらいで達成感を得られるもの。ちいさいことでもいいのだ。今から家の掃除と洗濯をするか。……昨日一昨日していたから、今日はいいだろう。じゃあ、料理。……一人分つくる気はないし、献立を立てて買い物に行くのが苦痛だ。友人から借りた本を読む……もう全部読破していたはず(こんなことなら、もっと借りておけばよかった!)。 もういっそ、久しぶりにテレビをつけて俗な世界に没頭する……というのも、八重子からすればなにかしたことにはならない。ならば、今までストップしていたゲームの続きとか? 最近ゲームもつまらないし面倒になってきた。だったら、女子力アップにメイクの練習? キャラではない。そもそもそういう世界とは無縁なのだ。八重子は常に自然体でいることが好きだった。 ならば、自分を表現できるものについて考えたい。やっぱり今度の仕事の構想を……となると、いつもと変わらない。 やりたいことがない。したいこともない。これではさっきと堂々巡りではないか。 灯りをつけていない部屋は沈黙している。家は家主の心を鏡のように反映させる。八重子が数時間前からほぼソファーに寝そべったまま黙り込んでいるのだから、室内が静かなのは当然だった。 世間一般ではそろそろ夕食時だろうか。なんだかんだで昼食もろくに食べていなかったのだが、夕食も別段食べたいと思わない。でも、このまま腐っているのもよくない。明日は朝からまた忙しくなるのだ。 ……だったら、明日に響くとマズイし、今日はさっさと寝ようかな。 八重子は心の中で、この一日に見切りをつける。その瞬間、インターホンの音が部屋中に響き渡った。この世で一人きりになったような暗い状況から、一気に現実へ引き戻されたようだ。しかし、八重子はそれを迎え入れる気は失せていた。知ってる人間なら、勝手に中に入ってくるだろう、とソファーにだらけたまま玄関のほうをじっと見つめる。 思った通りに扉を開ける音がした。近づく物音を八重子は聞いた。 「八重子! 八重子? いないのか? って、うわ!」 やかましい声は、仲の良い男友達だ。八重子は微笑んだ。 真っ暗の部屋を自分の名を呼びながら無駄にパチパチと全開に電気のスイッチをつけながらやって来た夏樹は、リビングの方で半分廃人化してる八重子を発見して壮大に怯える。 「おっ、おま、いるなら返事しろよ! ってか、女子が鍵空けっぱとか物騒すぎるだろ」 呆れ声に八重子は平然と返した。 「って言いながら入ってきた夏樹さん。どうしたの? アポなしで」 「え? あー、近く通ったから。で、八重子は……一日腐ってたかんじだな」 ずばりの指摘をされて、八重子もそのことにはなにも言えず、少しむっとしたまま夏樹へ同じ言葉を繰り返した。 「夏樹もなにかあったからここに来たんでしょ。いつもは連絡してから来るくせに」 「……どうせ、俺は友達にドタキャンされましたよ〜だっ!」 ふてくされたように言い退けた夏樹に、八重子は目を細めた。 「そっちのほうが最悪じゃん」 「最悪だけどいいの! ここ寄って八重子もいなかったら、マジ最悪だったけどな。で、そっちはもう夕飯食った?」 その心の入れ替え方はさすが夏樹だと感嘆しつつ、首を横に振った。 「じゃ、気分入れ替えに外で飯食いに行こうぜ。って二人じゃ面白くもねえしなあ」 沈黙の間に巡らす思考は同じものだったのだろう。 「もう一人、一日腐ってそうなやつがいるじゃん」 悪戯っぽく八重子が笑むと、夏樹も同調して携帯電話を取り出した。 「な。いっつもテレビばっか見てるヤツがな」 リダイヤルから速攻でかけると、数回のコールでつながった回線に呼びかけた。 「勇介さ、今ひま?」 八重子は夏樹の表情を見遣りながら様子を窺う。彼がすぐ嬉しそうに夕食の誘いに出ると、八重子は安心したように視線を窓の方に戻した。 勇介のことだから、用がないかぎり誘いを断ることなんてそうないし。 用件は済んだはずなのに、会話が続いている。男二人を止まらない声は、この後のちょっとした騒がしさを思う。 今さっきまでの腐り切ってた気分が嘘のようだ。 独りでいると抜け出せない暗い世界は、誰か一人出逢うだけで嘘みたいに替わっていく。色彩を鮮やかに取り戻す。そこにあるどんより空に被さる厚い雲でさえも、無機質感を抜け出して鮮やかなグレイに見える。 心ひとつで、何もかも変わるのだ。 「早く来いよ〜」と、言う夏樹から勇介の台詞が連想できて八重子も笑った。さっきまでの憂鬱もついでに全部笑い飛ばせるような気がした。夏樹の声に、八重子も身体を起こして立ち上がる。 簡単な用意をして、スニーカーを履く。彼らは気の知れた友人なのだから、異性といって気負う必要はない。外に出ると、孤独を諦観するような夜空がある。でも、少しだけ角度を変えて想像してみればいい。 「雨は結局、降らないんだろうなあ」 「そうね。そして明日は晴れるんでしょ」 二人で約束の場所へ歩いていく。その天上の雲を切り裂けば、かならず満天星が煌めいている。
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