* L'orizzonte *


 町の高校は小高い山の中腹にあって、登校中に勉強意欲を消失させるような見事な激坂があった。自転車通学の生徒も、この坂を前にすると全員が徒歩で自転車を押すことを選ぶ。意地で登ろうとするのはやる気が漲っている新入生くらいだ。それも、夏休みが終わる頃には無駄な抵抗をやめる。
 その代わり、下校時に疾走できる坂は一転して最高の爽快感を呼び起こす。
「まだ帰ってないかあ」
 放課後の風紀委員会活動を終えて自転車置き場を覗いた杏里は、そう呟いて校舎裏から離れた。一度出したちいさなキーをポケットに戻す。
 時刻は五時になろうとしていて、空の色も暮れる準備をすっかりはじめている。秋が来たと思っていると、すぐに冬となってしまうのが北の四季だ。十月はじめでこの通り、日光が隠れれば一気に寒さを感じる。それでも生まれてからずっとこの土地に住む杏里は、この冷たい空気を嫌ってはいなかった。この夏は特に雨の日が多すぎた。からっとした秋の空気は、湿り続けた季節と気持ちに渇を入れてくれる。
 親友の結花は肌が乾燥して悪いとこの時期を嫌がっているが、それを除けば秋は良い季節だと彼女もわかっているようだ。山も海も食べ物が豊富だし、彼女の好きなおばあちゃんの干し柿だって収穫は秋だ。美味しいものの話になってしまうのは、杏里のお腹が空いているからだろう。当然のように学校で午後を過ごしたため、お昼ご飯以降まだなにも食べていない。
 家に帰ればなにかしらの食べ物はあるだろう。しかし、それでも杏里には先に行くべきところがあった。結花の自転車がまだ残っているということは、展望台で海を眺めているに違いないのだ。彼女は昔から海が好きだ。杏里の委員会終了を待つときは、そこにいることが多かった。
 校門を出た杏里は、そびえる激坂を見る。道端を木々で覆われたここから、町の集落が少しだけ見えている。でも、そちらへは背を向けて、帰宅路とは反対の上ののほうへ脚を進めた。数分歩けば、この地区で最も見晴らしの良い場所へ辿りつく。一本の激坂の終着点だ。
「杏里!」
 後ろから声がして「あれ?」と彼女は思った。その声は結花のものではないか。すぐに振り向くと、急な道を小走りで上がってくるロングヘアの女子高校生がいた。間違いなく結花である。
「結花ちゃん、展望台じゃなかったの?」
「校舎にいたよ。杏里待って、友達と喋ってた。なんか、思ったより早く委員会終わってんだもん。展望台行く?」
 荒い呼吸を数度繰り返して、結花がそう言いながら止まっていた杏里の前に立つ。二人は引き返すことなく、自然と上を目指した。
「展望台に結花ちゃんがいると思ったから。校舎にいるより多いし」
「そうだけど。メールでもしてくれればよかったのに」
「あ、そだね。それで展望台行くの?」
「勝手に脚が向かってるし、いいんじゃん? お腹空いてる? お菓子ちょっと持ってるよ。さっき友達からお土産でもらったから」
「食べる。……いないね、ひと」
「独り占めじゃん。って二人占めか」
 高台の天辺は芝生で整備された公園のようになっていて、給水場のような施設が地下に埋められていた。その端にはコンクリートで建てられた展望台とベンチがあって、見晴らしの先には海がある。空は海の色と対比をはじめていた。二人きりだった。
 杏里と結花は展望台から数メートル外れたベンチに座って通学バッグを置いた。いたずらな風が制服のスカートをふわりと浮かせる。手で押さえる杏里の横で、かまわず結花は鞄からお菓子の袋を取り出した。郷土土産かと思ったが、有名菓子会社が地方ごとに限定で出している土産菓子である。
「ここはさえぎるものがないから、やっぱちょっと寒いね」
「うん。はい、取って」
 そう言いながら、結花は袋ごと杏里に菓子を渡す。食べないの? と、聞けば、さっきくれた友達と一袋食べたということだった。彼女はベンチの上に立ち上がった。コンクリート敷きの展望台からでなくても、海はよく見える。
「……この季節の海が一番好きだなあ」
 はっきりとわかる水平線を目で辿る結花を見上げれば、短いスカートの中から桃色のパンツが見えた。
「結花ちゃん、パンツ見えてる」
 そういうと、スカートを両手で押さえながら杏里を見下ろす。
「もう、見ないでよ!」
「見えちゃったんだもん。って、なんかこれ、おもしろい味」
「うん。どうしてこの味が採用されたのか謎すぎるー。つくった会社のひと、働きすぎて味覚壊れたんじゃね? っていう」
「それ、いえてる。でもマズくはないねえ」
「マズくはないけど。さっきも友達と話してた」
 いっこチョーダイ。そう言う結花にひとつ差し出す。彼女は口に放り込んで、もう一度天を仰いだ。つられて杏里も見る。
 水平線が明確な色彩で区切りをつけるのは今だけだ。夜になれば、すべてがまた境界をなくして曖昧な闇になる。夕焼けは西の太陽を海の裏側へ押し込める合図だ。幼い頃は、時々ここが杏里たちの遊び場になった。水平線が溶ける寸前にこの坂を下りることが母親たちとの約束ごとだった。時計の針よりも、日暮れの空のほうが子どもたちの営みに忠実だったのだ。
「水平線よりも、地平線のほうが夕陽は綺麗なんだって」
 結花が、突然そんなことを言った。でも、水平線を眺める彼女にはお似合いの発言だった。
「へえー」
「海って、太陽が沈むときに反射しちゃうけど、地平線だとそういうのがないから、まあるいまんまで沈むんだって。ホンモノの太陽の色で沈むから、すごく綺麗なんだって」
「へえー」
「特に、砂漠がいいってさ」
「んじゃ、日本じゃ無理だ」
「うん。海に囲まれてるから。でも、よくよく考えるとさ、海に囲まれた国のほうが世界で見て少なくない? キホン大陸じゃね、国って」
 そんなことを言いながら、ワクワクした表情で語る結花は昔から好奇心旺盛だった。長い間、傍にいる杏里は「そだね」と、昔と変わらず相づちを打つ。
「結花ちゃん、さあ、」
「なに?」
「大学、東京の、行くの?」
 まだ一年以上先のことを、お菓子を食べながらさりげなく問いかけた。本当は夏からずっと訊いてみたかったことのひとつだ。結花の性格的に、この町で一生を過ごすというのはありえない。高校を卒業しても結花がこの町に住んでいるという未来の想像図が、杏里には描けなかった。
 結花はそのさりげない質問を受けて、ボブカットの幼なじみを見下ろした。目があうと、彼女はただ微笑んだ。そして水平線へまた目を向ける。その瞳には、なにも迷いはなかった。
 杏里は、そっか、と、心の中で呟く。そして、彼女のくれたお菓子の最後のひとつを口の中へ放り込んだ。



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