* 下がり葉の猫、第1話 *


 1.

 甘い焼き菓子のにおいが、狭い台所の一面を濃く満たしている。文乃は流し台で動かしていた手を一時止め、後ろ背にあるオーブンをのぞいてみた。炊飯器のひとつ上の高さにある遮光のレンジ窓は、文乃が少しかがんで見る位置だ。薄暗いオレンジ色に染まっていて、中のぽっこりしたちいさな形状ばかりがかろうじて確認できる。
 二度目のマカロン地もかたちだけを見れば、うまい具合にできているようだ。文乃は安心して流し台に向き直った。この焼き上げる行程を、残り一度繰り返す。その後、冷ましたカリカリのマカロン地の片方にクリームを塗って、もうひとつを重ねれば完成だ。
 祖母の代から使っている古い木製テーブルの上には、最初に焼き上げたマカロンが几帳面に敷き詰められ、熱を少しずつ抜いている。似たような配置で隣に置かれているのは、焼き入れる前の生地だ。色は薄いパステルグリーンで、冷蔵庫に寝かしているクリームも同じ抹茶を使用した。後で、客をもてなすために見栄えがいいものを選ぶ予定だ。いつもより慎重に段取りを進めたが、無骨なものはできてしまうのである。
 オーブンは数分も経たない内に、次の焼きたて時間を教えてくれるのだろう。今日の文乃は、仕事の予定が夜までつまっていた。まだ正午になるまで一時間ほど余裕があるものの、時間配分に気をつかわなければすべての作業が終わらない。特に午後からは、文乃の気が抜けない仕事が控えていた。マカロンは、その際にかかせないエッセンスとなるのだ。
 文乃が指を洗おうと蛇口をひねる。ステンレスの流し台に、水が勢いよく音を立て跳ね上がった。水回りの音が大げさなのは、それだけ年季のあるつくりをしている証拠だった。いくら工夫をしても、この水回りはどうにもならない。以前、蛇口の先に水の流れ方を分散させるシャワーキャップを取りつけたこともあるが、効果はなく逆に使いづらくなっただけだった。この水の音が我慢ならなくなったときは、浄水器をつける工事を頼もうかとも文乃は考えている。しかし、如何せんそうした出費ができるほどお金の余裕はない。
 この家に文乃が暮らすようになって一年半が過ぎていた。本来、この家屋は祖母が所有するものだ。当人は現在、文乃とともに住んではいない。文乃の実家で彼女の両親とともに生活している。文乃は、祖母と行き違うかたちで、実家からこの家を引き継いだ身だった。祖父は八年前に亡くなっている。祖母は病が見つかるまで、この家で気楽な一人暮らしをしていた。二年ほど前に見つかった心臓疾患が転機となり、この家が空くこととなったのだ。一人暮らしをしたことのない文乃には、祖母の病気がひとつの機転となった。
 一時的にでもいいから、祖母の家に住みたい。
 密かに望んでいた文乃の要望は、彼女が思うよりもあっさりと親に了承された。築年数がかなり経っている上、祖母が後年行なった改築により、水回りを備えた特殊な和室がある。和室に仕切りのある水屋があるのは、祖母がその部屋を日本作法の稽古場にしていたためだ。稽古場を重視したつくりの家は、賃貸にあまり向かない。祖母は今も家主は自分であると思っており、他人には貸したくないようだった。彼女は、孫の文乃が住む分には喜んで賛同してくれた。
 祖母の手術は、無事成功して今は外出できるほどだ。しかし、再手術ができないほど年老いた身には、ある程度の規則正しい健康管理が必要だった。その管理役は、嫁にあたる文乃の母がかってでた。退院してはじめた文乃の両親と祖母の同居は、今のところそれなりに順調なようだ。文乃の母と祖母は、比較的性格があっている。祖母は文乃の部屋を終の住処にすることに決め、母がパートのない日は、車を出してよく二人して小旅行に出かけている。
 祖母の入院生活に目処が経つ前に、文乃も会社を辞めていた。これは祖母の病が起因になったわけではない。しかし、当時勤めていた会社で辞めにくい立場にいた文乃にとって、辞職するための都合の良い言い訳になったのは事実だった。祖母には悪いが、彼女の入院とタイミングが一致したことは文乃にとって本当に幸運なことでもあった。会社を離れるまで、文乃は実家住まいに不満を抱いたことはない。しかし辞職後は、一定期間でもいいから一人で過ごしたかった。一人の時間を欲していた。いままで一人暮らしをしたことがなかったため、一度してみたかったということもある。特に働いていた最後の数年は、毎日夜遅くまで残業が続く激務だった。地に足がつかないほど慌しく毎日が過ぎ、生活感のあるすべてのことから離れていたのだ。文乃はその頃の記憶をあまり持っていない。社会を離れるリスクを背負ってでも、もう一度自分のペースを取り戻したかった。
 文乃が祖母から譲り受けたこの家は、文乃の実家よりも都会の中心部に近い場所にある。一見便利そうだが、最寄り駅は鈍行電車しか止まらず、駅からは徒歩で十五分以上要する。県が違う文乃の実家と都心に行くまでの所要時間はさほど変わらない。不便と言い切れるほどではない立地だった。築数十年の畳しかない木造家屋に慣れてしまえば、文乃にとってはありがたい住み替えといえた。古い家を活かすために、人が住み続けることは大切だ。親と祖母の賛成があったからこそ、今の生活が成り立っている。
 しかし、古い家は文乃が住んだときからメンテナンスを必要としていた。文乃と同じく日本の所作にまつわる先生をしていた祖母は、稽古場にしていた畳間と風呂場以外の部屋にあまり頓着しなかったようだ。おかげで同じ水回りだというのに、台所の不便さは住み移った文乃を絶句させたのだ。
 料理が好きではなかった祖母に、台所を快適にする気持ちは起きなかったのだろう。文乃が幼少時、祖母に会いに家を訪れた際、彼女はかならず店屋物を取り寄せていたほどだ。そのせいもあって、文乃が住んでから一番尽力を注いでいるのが台所になっていた。祖母は現在、文乃が元使っていた部屋で、文乃の母親のおいしい手料理を毎度いただいている身である。風呂場のリフォームは、稽古場に水場をつくる際についでとして行なったようだが、自炊生活がメインである文乃にとっては、台所のほうが必要不可欠なスポットだった。
 キッチンと横文字で称せないほど古びた台所だが、戸棚などに使われている木はなめらかでしっかりできていたのが幸いだ。戸棚が傾いてはまらないところは、角を削ってどうにか噛み合わせ、家電もなるべく買い直さないようにした。冷蔵庫は比較的新しいものだったが、電子レンジだけは新調した。オーブン機能が備え付けられていなかったからだ。
 祖母は文乃の知る限り、オーブンを使うような料理をする人間ではなかった。さらに野菜を選ぶときに、泥のついていないものを「良い野菜」といって購入するような都会人だ。この言動を聞いたときは、孫の文乃も母親も呆気にとられて言葉がでなかった。それくらい、料理づくりや食品素材にも興味がなかったのである。
 一方、料理好きの孫にはそれが耐えられなかった。実家住まいのときも、仕事で忙しくなかったときは文乃が食事づくりを担っていたほどだ。最近はお菓子づくりが趣味になりつつある文乃とって、オーブンがあるのとないのとでは、生活の潤いに大いなる差がでてくる。オーブンの使用は、洋菓子づくりの基本事項だ。
 流し台の隅に手を寄せ、文乃は水だけで汚れを洗い流す。秋をようやく半ばに迎えた水は、手を引っ込めたくなるほどの冷たさを抱えてはいない。料理をするのには快適な水温だが、食材の味を締めるには少し弱かった。流し台を占拠しているボウルの縁には、野菜を千切りにするスライサーが乗せられている。中で少しの塩と氷とともに泳いでいるのは白い大根と人参だ。マカロンづくりと平行してはじめた、大根と人参のなますづくりである。大根はまだ季節には早いが、どうしても酢の物が食べたくなった。保存も効くし、出入りの多いこの家で食事をする客人にだす箸休めの小鉢として悪くはない一品だ。
 しかし、なますは漬け置きの時間が必要だった。それに、なますだけで腹は満たせない。一時間もすれば正午となる。そして、文乃の仕事がはじまる時間は二時だ。まだ時間に余裕はあるものの、昼食のことも考えなければ、うっかり食いはぐれることになる。
 文乃自身は昼食抜きでもやっていけるが、そうは言っていられない面があった。文乃は、実際のところ一人暮らしとは言いがたい環境にあった。常に二人分の食事が必要とされる。今日の昼食の用意は楽だ。昨晩の多めにつくっていた夕食の残りで、鶏肉を使った五目煮とほぐした焼き鮭がある。あとはオーブンとの兼ね合いを見ながら、今朝スーパーで購入したインゲン豆を軽く茹でて、胡麻和えをつくる。主食は、冷蔵庫に残っている白飯で間に合わせればいい。ただしレンジが使用中のため、即席のだし汁と煮立てて簡単な卵雑炊をつくる必要がある。
 今はお菓子づくりがメインであるから、少しの手間があっても油のにおいが舞う料理をしない文乃の信条があった。甘いにおいと焼いた油のにおいが混ざると、胸焼けを起こして、一気に食欲と料理をする意欲を失うのだ。だからといって、マカロンづくりだけ呈するには時間がもったいなかった。今日は午後の教室が、この家の稽古場で行なわれる。週に二度、文乃が先生を勤める煎茶道教室のひとつが今日の午後あるのだ。さらに、夜の七時半からは臨時の着付け個人レッスンを頼まれている。立て続けに和物の仕事がはいっているのである。
 朝から着物で生活することは、文乃にとって自然なことになっていた。台所に立つときは、着物を汚さないために割烹着を着けている。料理の後に着替える時間を確保することもできるが、普段着として着物に慣れるため、通常稽古がある日は朝から着物で過ごしていた。和服が汚れることを気にしてしまうと、少しずつ敬遠する意識が生まれてしまう。着付けを教える身で、その心構えは良くないと文乃は思っていた。単に着物が好きだということもある。
 着物を汚さないように覆う白い割烹着を着ると、三一歳になったばかりの文乃でもすっかりオバサンになったと、つい落胆してしまうものだが、どちらにせよ割烹着の合理性にはあがらえない。この間、女友達に「この台所で割烹着なんて、昭和すぎる」と、笑われながら携帯電話のカメラで写真をとられた。はじめはかなり屈辱的だったが、彼女たちはそれなりに褒めたつもりだったようだ。友人の由実子はその際、今度の会社休みに二人で着物を着て、昼食づくりをしようと約束して来た。そのときは、同じ屈辱を味あわせてやろうと、文乃は冗談半分で企んでいる。
 リン、とオーブンレンジが鳴る。文乃は布巾を厚く重ねたものを手にして、熱のこもる扉を開けた。オーブンの中から、むわり、と、抹茶の香りが外へ広がっていく。遮光窓から見たときは、形が揃っていたように見えても、実際はきれいなマカロンもあれば、無骨なかたちもある。文乃はマカロン地を崩さないよう、慎重にテーブルの空スペースへキッチンシートを鉄板から移動させた。午後の教室に使う茶菓子として、冷ました後に格好の良いものをより分けなければならない。焼きたてのマカロンは、かなり熱く柔らかい。仕分けは昼食後がいいのかもしれなかった。マカロンの出来具合を厳選すると出せないものが多くでてきそうだが、元々少人数制の教室だ。指導用の茶菓子だから、大量に食べるものでもない。
 無骨さは手づくりお菓子の素朴さを表すが、文乃はマカロンのフォームを重視していた。文乃の行なう教室の中で一番気をつかう回が、この午後に行なわれる。毎週木曜日にある平日の煎茶道教室は、土曜午前の部と違って年齢層が高い。そして、皆文乃のつくるお菓子に期待している節がある。生徒の一人である老婦人にいたっては、玉露の作法を習いに来ているというよりも、玉露とあわせて出される和菓子や文乃の手づくりお菓子をいただきに来ている状態だった。しかし彼女が、新米者である文乃の煎茶道教室を町内に宣伝してくれたといっても過言ではなく、文乃は文句も言わず甘んじて受け入れている。
 煎茶道と着付けは、文乃が大学時代から細々と続けていた趣味だった。昔は指導側に徹するつもりはひとかけらも持たず、今も本業にするつもりはない。会社を辞めて自分のしたいことを一年めいっぱいしようと考えたところ、行き着いたのが着付け教室と煎茶道教室を立ち上げることだった。もっとも、したかったというより、この二点しか好きなものがなかったと言ってしまったほうが適切かもしれない。
 日本作法にまつわる習い事とはいえ、教室を開くということは人と接する仕事になる。この二種の教室は、文乃が祖母宅へ移り住んでから、間を空けずはじめたサービス業だった。祖母がこの家に住んでいた間、似たような作法のお稽古教室を営んでいたこともあって、稽古場には仕切りを備えた水屋が設置されている。押し入れの一部を改装して祖母がこしらえた、彼女自慢の部屋だ。
 稽古場は、祖父の生前まで居間として使われていた場所だったこともあって、この家で一番広い。水屋づくりのリフォームで犠牲になったのは、隣の六畳部屋だった。同じ和室であるにもかかわらず、そちらには押し入れがない。
 祖母が文乃の実家に移住しても、主導権は彼女のものだ。文乃がはじめた指導活動は祖母が先生として教えていた作法と異なっていたが、稽古場を有効活用するものであることから、本来の家主にとても喜ばれた。彼女のおかげで、親の口出しも最小限なのだろうと、文乃は思っている。
 このように文乃が活動しやすい下地はできていたものの、若い新米者が煎茶道と着付け教室をするのには覚悟がいった。文乃は元からこれらを本業にする気を持ってはいなかった。しかし、町内で顔の利く婦人方に出会えたことはひとつの運だ。彼女たちのお陰で、教室開業から細々ながらやっていけている。
 今日の午後は、その婦人たちが集まる回だった。しかも、今つくっているマカロンは彼女たちからリクエストされたお菓子で気は抜けない。煎茶の作法で洋菓子を出すことは決して多くはないが、お互い茶受けに和菓子というのも飽きてくるのだ。時々生徒の婦人側が、デパート等で買った新作和菓子を持参してくることもあり、作法ついでに和菓子の批評会と座談会を兼ねているのが平日午後の煎茶道教室だった。
 文乃は、そうした教室も嫌いではない。学生時代に煎茶道をはじめたのは、茶道より堅苦しさがなく細かい道具のかわいらしさに惹かれたからだ。大学サークルの煎茶道でも、最後はいつもお茶会の装いになっていた。指導より座談会の様に傾いてもかまわないが、教室が六人以上になった場合は教室時間を増やすことを決めている。堅苦しくしない教室にはしているものの、一応作法を習うということで月謝を頂戴しているわけだから、時間配分は習いにくる人々にあわせなければならない。教室の月謝は元々本業にする気がなかったせいで低く見積もっており、単価で考えると教室時間を増やすことは文乃の負担が増すことを意味するが、あくまで日本の作法を教えることが前提だ。玉露などの作法指導には少なくとも一人三〇分近く要する上、茶席は五名分しかだせないのである。
 教室開業は、怠惰な生活になることを恐れた文乃が趣味を持続させるために活用した手段だった。ダメ元ではじめたものだったから、教室に人がはいらなければ別の職を選んでいただろうし、会社勤めを復帰させる気になるのも早かっただろうと文乃は思う。しかし、中途半端に物事が進んでしまったがために、どうにも足を引き返すことができなくなってしまっている。だからといって、この一年半何かが起きたのかというと、話してもおもしろくないほど淡々とした日々が続いているだけだ。
 手をマカロンのために動かしながら、文乃は持ち合わせのネガティブ思考で少し気を重くした。とろり、とろり、マカロンのタネを落として時間は随分経ち、表面は固くなっている。鉄のオーブン板に生地を含むシートを移しオーブンにいれる。温度と時間をセットして、ため息をついた。
 とりあえず、鍋に水をいれて沸騰させよう。
 流し台の下にある戸棚を開いて、文乃はお気に入り鍋を取り出した。彼女が移り住んで最初にこの戸棚を開いたときは、山のように積み上げられた鍋とフライパンが一面を占拠していて驚いたものだ。料理は孫から見てもいまいち料理上手とは評せない祖母だったが、鍋やフライパンといった類をかなり買い集めていたようだ。台所の大掃除をした際は、別の戸棚からフッ素加工と書かれた厚紙が張ってある未使用品を二つも見つけた。ガスコンロも二つしかない台所において、たくさんの鍋やフライパンは必要ない。発掘した未使用品や比較的きれいなものは、前に行なわれた町内のフリーマーケットで他品とともに安値で売り払った。生徒となってくれている婦人の一人に誘われた際に、役立ってくれたわけだ。
 だが、文乃が取り出した鍋は野菜の湯通しに適していたことから重宝している。祖母が買い集めていた中で、おそらく安価の鍋だ。見るからに年代ものだが、アルミ製の軽さは火の通りもよく、少量の麺を湯がくときにも勝手がよかった。水を張ってから隣のガス台に乗せて火をつける。沸騰が先決だから火加減を気にする必要はない。一度オーブンレンジに立ち戻り、温度と時間をチェックする。マカロンは二度焼きを要する洋菓子なのだ。
 たったったった、と、リズミカルな音が木張りの廊下から響いてきた。
 文乃はその足音を聞きながら、流し台の下棚にある水切りボウルを取り出した。しゃきしゃきになった大根と人参をその中に移し、手で固くしぼる。次はなますの液をつくる準備だ。
 軽やかな足音は目の前まで来て、文乃の後ろ脚にぶつかった。その固まりから、大きなぐぅの音が鳴る。空腹を訴える元気な音だ。
 脚にまとわりつく温かいものは、文乃の割烹着に顔を埋めて大きく息を繰り返している。文乃のにおいを再確認しているようにも見えた。文乃は口元を緩めて視線を下ろした。その背丈は人間の五歳児程度で、見た目もその通りの女の子だった。
 文乃は、一人きりで家に住んでいるわけではなかった。幼い彼女は家主と同じように和服を着付け、その彩色は金糸雀に紅葉を落としたようだ。薄紅の花模様を敷き詰めた文乃の小袖とは違った、秋の華やかを持っている。この少女は文乃よりも着物使いに慣れていた。むしろ、彼女は日々和服しか着ない。文乃が着付けてあげられない日は、赤の甚平を着ている。あくまでも洋服を拒む子だった。文乃が本格的に着物に凝るようになってしまったのも、この少女の影響が大きい。
 今日は早起きした彼女に着付けをほどこした。文乃と同じく肩より少し長く切りそろえた、彼女の焦げ茶色の髪は二つに編んでまとめられている。中央のつむじを両脇へ下がった部分には、動物のような耳があった。基調色は白で、焦げ茶のグラデーションが根本から覆うようにかかっている。
「茅世、起きてきたの」
 文乃が名を呼んだ。茅世はお昼ご飯の支度が終わるまでの午前中を、よく居間の和室で寝て過ごしている。しかし今日は、マカロンのにおいに誘われて早く起きたようだ。居間から少女はずっと、甘いにおいを嗅いでいたのだろう。彼女はすこぶる鼻が利く。
「あまいにおい。マカロンはできたの?」
 茅世がくぐもった声で訊いてきた。開口一番はすでに予想できていた。
「あと、クリームを塗れば完成よ」
 鍋からくつくつと水の煮立つ音がしている。文乃は漆喰の壁に掛けた時計に目を移した。時刻はまだ正午前で、昼食には少し早い。煎茶道の教室は二時から門戸を開く。 
「おなかすいたの?」
 いんげん豆の胡麻和えと平行して、ご飯を使ったおじやをつくらなければならない。この湯をどちらの料理に使うのが先決か考える。昼食の主食として、焼き鮭を乗せてお茶漬けにするのも悪くなかったが、おなかを鳴らす茅世は何かとグルメなのだ。それに茅世はお茶漬けが好きではない。
 文乃の問いに、少女の姿をした茅世はうなずいた。
「マカロン」
 甘いにおいに根負けしているようだ。文乃はタオルで手を拭いてから、茅世の頭をなでた。その指はつい耳のあたりに向かってしまう。一番さわり心地がいいところである。そこは見た目も感触も、人間のかたちをしていない部分だ。茅世にはもうひとつ、人間にはないものがあった。お尻から垂れる長細い尾だ。その感触はどちらも、短毛の猫とそっくりだった。
「じゃあ、そこのテーブル焼いたのを二個だけ、ね」
 試食してもいいという文乃の了解に、茅世が顔をあげてパッと笑んだ。口元から見える八重歯はとても鋭利だが、愛嬌がある。すぐに、彼女は自身より少し高い背丈のテーブルに向かった。側の椅子へ幼い身を身軽に上げる。
「これの、どれでもいい?」
「かたちがよくないの選んでね」
「全部おいしそうだよ。じゃあ、これとこれ。でも、これも」
 ウキウキした声でちいさな片手に未完成のマカロンを抱える茅世の足下から、灰色のしっぽの先が見え隠れしている。文乃は冷蔵庫から卵とご飯を取り出した。これから急ピッチで昼ごはんづくりに取り掛かる。
「あと一五分したら、お昼ご飯だからね。教室がはじまる前に、ちゃんと完成品もあげるから」
 はあい、という茅世の返事を聴いて、文乃がもう一度時計を見た。正午まできびきび動かなければならない。茅世が後ろで、「これ、とってもおいしいよ!」と、声に出しながら、マカロンをサクサクと鳴らせている。



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