* 下がり葉の猫、第2話 * | |
茅世が、ふつうの人間の子どもではないことくらい、文乃も理解っている。 彼女との出会いは、文乃がこの家に引っ越してきて一ヶ月経った頃の話だ。一年半近く前のことになる。それからずっと茅世とともに生活をしているが、不思議に思うことは日々増えている。現在に至るまで、茅世には身体の成長はまったくと言っていいほど変化が見られないのはそのひとつだ。人間の子どもが、どれくらいのスピードで成長していくのか、未婚で子どもを育てたことのない文乃にはわからない。しかし茅世の衣服を毎日取り扱っているわけだから、身丈も体重も一向に変わらない茅世の身体は普通ではなかった。 それ以上に、茅世には見るからに人間とは異なる特徴を持ち合わせていた。彼女の身体には、明らかに人外と照明できる異様な部分があった。最も顕著なのは、髪の毛を突き抜けるケモノ耳と尻の少し上から垂れる細長い尾だ。 突出した茅世の耳は人のものと違い、猫や犬に似た大きい三角で獣と同じように毛が密集している。茶色と灰色が混じった毛色だ。聴力は動物と同じくらいに良い。それとあわせるかのごとく、飾りではない尻尾が後ろ腰の部分から生えていた。こちらは衣服であまり表に出ることはない。その配色は耳よりも灰色が強い。 家の裏戸口で茅世をはじめて目にしたときは、文乃も心底驚いたものだ。それから三ヶ月くらいは、特徴的な耳を見慣れることができなかった。一緒に風呂に入れば、尻尾が気になる。茅世の身体から生えるそれらを疑って引っ張り、茅世を怒らせたこともあった。 しかしながら、文乃は明らかな異質な少女の存在をすんなりと受け入れ暮らしていた。 最初に彼女を見たときから、文乃はすぐ猫だと思ったのだ。長い間、実家でともにした飼い猫に耳としっぽの特徴がそっくりだった。文乃が高校生になったばかりのときに、通学路で拾ってきた雌猫だ。茅世の身体年齢とかみ合わないが、毛色と雰囲気がとてもよく似ていたのだ。 その飼い猫は、茅世と出会う直前に行方知れずとなっていた。文乃はペットの猫に「チセ」と名付けて溺愛し転居にも同行させた。細身で家が大好きな、大人しくてとても利口な茶灰色の猫だった。祖母の家に移り住んだついでに、同居人として実家から連れてきたのは文乃の独断だ。それが、行方をくらました原因になったのかもしれないと、当時の文乃は深い後悔を散々繰り返しながら実母に電話で伝えていた。 『一四歳まで生きた子なんだし、家が大好きだったチーちゃんが外に出てて姿を見せないってことは、死期が近かったのよ、きっと。かわいそうな話だけど、猫は死に目を見せたがらないっていうじゃない。あの子なりの配慮だったのかもしれないわよ』 母親はそう軽い調子で慰めてくれたが、文乃にはそう簡単に割り切れないものがあった。本当に可愛がっていたのだ。会社を辞め引っ越しをしたばかりで、長年そばにいた可愛い飼い猫がいなくなるというのは心底気持ちを盛り下げる。癒しがない状態で、何かをはじめる気持ちにはなれなかった。 そこに現れたのが茅世だった。あのときの彼女は、門扉をくぐり家屋の入り口を探していた。文乃を見つけて、不思議な耳の少女は口を開いたのだ。 『文乃だ。あの、茅世、です』 猫の耳を持つ着物姿の女の子は、憔悴した元飼い主の前で、目の前からいなくなった飼い猫と同じ名を名乗った。それは、当面は一人で慎ましく生活しようと覚悟を決めた文乃の心に大きく響いたのだ。 「茅世、おやつ食べる?」 着付教室で使用した道具を片づけて稽古部屋を出ると、文乃はすぐに二階の階段へ向けて声をかける。教室をはじめた頃から変わらない習慣だ。 「食べる!」 上から廊下に響いた大声にあわせ、茅世の軽いステップが聞こえてきた。文乃は手にしていた漆塗りの黒いお盆を持ちながら台所へ歩を進める。文乃はすでに和装から、長袖のゆるいワンピースに着替えていた。夜の着付け個人指導を終えたついでに、着ていた和服をハンガーにかけて干したのだ。洗いものとなる肌襦袢や足袋などは、翌朝洗濯機にかける。着付けの個人指導中、会社勤めをしている年下の生徒から日曜まで雨は降らないと聞いている。とてもありがたい情報である。 台所の流しにたどり着いて、レッスンの休憩用に出したお茶と小皿を置く。マカロンはまだ十五個以上残っており、土曜午前の煎茶道教室で出すのに十分すぎる量だ。今日の夕刻まで続いた煎茶道教室では、生徒となってくれている老婦人の一人が、先日の香川旅行の際に仕入れたという和三盆の小箱を持参してくれ、お手前を見る数席の間をマカロンとあわせていただいた。次回の教室では、わらびもちを食べたいというリクエストがでてきている。その代わりに、生徒側もどこかの新作和菓子を持ってくると言っていた。わらびもちは作法のお茶受けとしてあまり聞いたことがない選択だが、きな粉ではなく黒蜜をかけるタイプならば、畳に散らかることはないし、茶器や和菓子を運ぶ係りであるお童子役にも負担はないだろう。 茅世が、台所にいる文乃のところまで駆け寄ってきていた。 「文乃、マカロン、マカロン」 第一声から、本日恋に落ちた洋菓子の名前である。文乃は口元を緩めながら、自分と茅世のために茶を淹れる用意をした。食事やティータイムをするのならば、稽古場の隣にある六畳の和室と決まっている。稽古場のリフォームをしたせいで押し入れを失ったかわいそうな部屋だが、その中途半端さを文乃は快適な居間に変えるべく手を入れた。元は六畳と四畳の二間が続いていたが、今は襖でくぎりを入れて奥の四畳を客間に変えている。 居間となった六畳部屋にはソファとテレビを置き、アンティークの間接照明も配置した。障子戸に暖かい光が映る、一階の中で一番モダンな部屋となった。足の低いテーブルは、冬になるとこたつに変身する。この居間で食事をするときは畳へ座り、くつろぐときはソファに身を委ねる。今はソファでのんびりしたい。 抹茶のマカロンを四つ皿に盛って、縁細い梅の枝が描かれた丸盆へ乗せる。薬缶の水がまもなく再沸騰し、ガスを消した文乃は薬缶の柄を持って急須に湯をそそぎ込んだ。煎茶の道に長けていても、普段飲む緑茶は一般的なやり方とほぼ変わらない。玉露やほうじ茶ならば作法の関係で水温を気にしてしまうが、いつも飲む緑茶はそこまで考えずに淹れて飲んでいる。 ふたつの湯呑みを盆に乗せる。茅世は文乃の動きにあわせて先の廊下を歩いていた。居間となる和室の扉を茅世が開け、夜目の利く彼女は続けて室内のスイッチを押す。暖色の照明が畳と花柄のソファを照らして、部屋を柔らかく包み込んだ。 こたつテーブルに緑茶セットを置けば、茅世がテレビをつけていた。音は極力下げてもらい、落ち着いた夜を演出する。茅世はチャンネルを選ぶようなことまではしない。流れる番組はこの時間帯に多いニュース中心のものだ。 「茅世、帽子取ったら」 早速両手を伸ばしてマカロンをつかんでいた茅世が、文乃の声に顔を向けた。顔の半分が隠れるほどの帽子を被っているせいか、視点も狭くなるようで、文乃を見る顔の角度がやや上に向いている。両手がふさがって取れないようだ。 ケモノ耳をすっぽり隠す帽子をしていると人間の五歳児にしか見えない。その仕草が可愛く、文乃はうふふと声をあげながら紅の花柄帽子を抜き取った。ぴょこんと茅世のトレードマークである耳が跳ねて現れる。それを皮切りに、茅世はマカロンへかぶりついた。 文乃の仕事は、そのほとんどが家の中で行なわれている。そして、茅世は人為らざる生き物だ。本人いわく、過去は文乃の飼い猫だったのだろうが、今は見るからに猫でも人間でもない。文乃以外の人間に、正体を暴けない存在だった。しかし茅世の存在ごときで、仕事場を新たに設けることはできない。 人の出入りも多いときの茅世は、二階から離れないのが二人の決まりだった。さらに用心して、その間は耳を隠す帽子をかぶってもらっている。茅世に強いる行為のようだが、仕方がない。 その帽子は文乃のお手製だ。冬は耳当てのついた市販のニット帽が使えるが、その他の季節用には文乃がつくる他なかった。文乃が手にとった帽子も、彼女が着物をリメイクしてつくったものだ。着物に帽子をあわせるのもファッションとしては難しいところで、帽子づくりも試行錯誤した。耳を隠すだけのためにつくった張りぼてでは、茅世が実際人に見られてしまった場合、真っ先に帽子の不自然さを指摘されることになるだろう。しかも、茅世は帽子とあわせるのが難しい和服を普段着にしている。文乃は、そうしたことまで考え念をいれて帽子をつくった。茅世も耳が窮屈にならないこの帽子を気に入って被ってくれる。 「これ全部食べていい?」 今日は長い時間、二階の寝室で寝ていたのだろう。茅世の声に張りがある。文乃は当然のように頷いた。 茅世は人型になったところで猫の習性を強く残しているのか、夜に一度元気を取り戻す。文乃も翌日が忙しくないときは、日付がかわる時間帯まで茅世に付き合うのだ。人型の茅世は、身体を動かさず会話をしているだけでも楽しいという。 「明日は、なあんにもない一日だ」 緑茶をすすった文乃は、解放された気分でソファにもたれた。あっという間にマカロンを食べ終えた茅世がソファに上がる。そして文乃の身体にくっついた。彼女は体温が高い。 「明後日は、土曜日?」 問う元猫らしい彼女にも、曜日感覚が身についている。文乃は茅世の頭と耳をなでて答えた。 「そう。明後日は土曜日。土曜日はまた忙しいのよ」 土曜日の午前中は煎茶道の教室がある。こちらは比較的年齢の若い生徒で構成され、着付け教室と同じく人数は流動的だ。前の回では、生徒の一人が帰り際に「体験入学したいという友人を連れてくる」と話していた。その他に、文乃の友人も久しぶりに玉露のお手前を見に来る予定だ。参加人数は六人を超える。一度の作法で、対応できる茶器は五つだ。 さて、どうするか。そう文乃が考えながら、ワンピースのポケットに収めていた携帯電話を取り出した。切っていた電源をつければ、メールが二件と表示される。内容は二つとも同じ友人からのもので、急ぐ用件ではないようだ。 一方、留守番電話が一件入っていた。すぐに再生して聞いてみる。 『もしもし、お母さんだけど……お見合いの件で、また電話するわね』 簡単なメッセージだった。しかし、文乃の気を重くするには十分すぎた。そういえば、先週母親と電話で話していたときに、そのような話がでていたことを彼女は思いだした。文乃は冗談だろうと軽く受け流していたのだ。本気だったとしても、正月に母親と会ったときに、この対処をすればいい。娘はそう考えていたところだが、母親は本気どころか、年内にひとつ見合いをすすめる気のようだ。 当人である文乃に、結婚したいという気はまったくない。特にこの家に住んでからと言うもの、一度も考えたことはない事柄だった。それに、今はまだそれどころではない。茅世もいるのだ。 しかし、年齢を重ねてよぎるものがあることも事実だ。ただ今は考えたくなかった。文乃は即座に留守番電話の内容を消した。母親が嫌いなわけではない。 「ママの声、久しぶりに聞いた」 密着する温かい生き物が、文乃の心情に反して声をはずませた。携帯電話を見つめていた文乃は、すぐ下に視線を移した。確かに、茅世にとっては懐かしく久しい声だったのかもしれない。 彼女は直ちに母親の言葉を消してしまったことを反省した。つい、感情にまかせて消去ボタンを押してしまったが、母親の声を一度茅世に聞かせてから消去すればよかったのだ。茅世は猫だった頃は、文乃の実家に住んでいた。母親だけでなく、文乃の家族は全員よく知っている。茅世が母親の声を愛しく思うのはあたりまえだ。 ……それよりも、両親たちに茅世の存在を告白すべきか。 文乃が茅世を見れば、彼女は視線を文乃の顔に向け上げていた。口がポカンと開いている。 「ママに会いたい?」 茅世は十四年間、実家で文乃と弟、その両親に可愛がられて育った。文乃以外の親しい人間に会いたくもなるだろう。茅世の存在をどう伝えるか、文乃が思案する前に茅世自身が答えていた。 「ううん。茅世はここが好きなの。ママに会いたかったら、はじめからあっちのおうちに行ったよ」 彼女の言うとおりだ。文乃の母親が一番好きだったら、茅世はそちらに行ったのだろう。 「茅世が、文乃のとこがいいって決めたんだよ」 もう一度、彼女は文乃を見て言う。見た目は幼くても、言葉ははっきりしていた。 自分で選択してこの家に来たのだ、という意味を持つ言葉に文乃は心を熱くする。茅世は容姿こそ変わってしまったが、人型になっても文乃にとって相変わらず愛しい存在だった。猫のような毛並みは耳と尻尾にしか残っておらず、プニプニした肉球もない。しかし、その代わりに同じ言語で意志の疎通ができる。 文乃は実家にいたときと変わらない素振りで茅世を抱きしめた。こんな可愛い子は、世界にどこを探しても絶対にいない。 「ありがとう」 そんな言葉がぽろっと落ちた。拾った茅世が不思議な表情を浮かべる。少し気恥ずかしくなって、文乃は調子を変えて言った。 「よし、お風呂にはいろうか」 茅世は風呂が好きだ。文乃の提案に、少女の大きい耳が立つ。毎夜の体力を使うイベントといえば、間違いなく入浴だった。入浴後はドライヤーの熱風で遊んで、お絵かきでもはじめれば、茅世はその間にパッタリと眠ってしまう。 ならば先に、湯船に湯を張る準備が必要だ。お風呂にはいる! と、宣言した茅世が、立ち上がる文乃にあわせてついてきた。 「今日は、白いお風呂がいい」 文乃のスカート裾を握りながら、そう言葉を続ける。入浴剤のことを言っているのだ。残り湯を明朝の洗濯に使おうと考えていたが、……明日はなにもない日だし、茅世のリクエストに応えよう。文乃は快く承諾する。 「じゃあ、今日は白い湯にします!」 敬礼のポーズをすれば、茅世がおもしろがって同じ仕草をした。
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