* 下がり葉の猫、第3話 *


 2.

 細長い盆に揃った五つの茶托に、最後の茶碗が乗った。茶碗は中国茶で使う陶器と同じくらい小さい。それらの中には、緑翠石にも似た玉露がうまみを凝縮させて均等におさめられていた。温度は三〇度以下の白湯を使用する。作法順に小さく軽い急須へいれ、時間をかけて茶葉が持つ最大限の味と色を引き出すのだ。
 玉露を淹れる際は、「一滴、千両」と唱えるように。
 文乃は生徒たちに向かって、毎度のように唱える。文乃が煎茶道を学んでいたときに、先生から再三聞いていた言葉だ。今は文乃が先生として、煎茶のお手前を学ぶ人々に諭していた。とりわけ玉露のお手前は、高価な茶葉をふんだんに使う上、ほんの少ししか飲む量を抽出できない。しかも、最後にぽたりぽたりと落ちる露にほど、本来の味が籠められている。文字どおり、玉の露なのである。
 二煎目を淹れ終えて、お手前に集中していた生徒が肩に安堵を見せた。正座をして一五分近く経っているが、苦にはなっていないようだ。
 すぐお茶を配るお童子が、木盆を持って正座から立ち上がる。茶菓子は先日つくったマカロンである。文乃の学んだ煎茶道の流派は、一煎目を終えてから二煎目が用意される間に茶菓子をいただく。茶席のメンバーは、初席で舌鼓を打っていた。はじめはおいしいという声に文乃はにこやかな笑みを向けていたが、マカロンの茶菓子が繰り返されて三度目である。場はすっかり静けさを取り戻していた。
 土曜日の回は層が若年に寄っている。しかし、日本作法を真剣に習うメンバーが集まりやすかった。平日の固定された年輩チームで構成される煎茶道教室のほうが騒がしいのである。双方の煎茶道を学ぶ目的が少し異なっているのだ。しかし、煎茶道を好きな気持ちは同等だろう。そうでなければお金を払ってでも学びには来ない。
 お童子が茶席に座る五人に二杯目のちいさな茶椀を配る。六名座る側では、先生である文乃まで玉露の陶器は届かない。一度の茶席で配ることのできる玉露は五脚までと決まっている。今回の教室は、文乃を入れて参加者が七人だ。一回の教室定員いっぱいの人数である。文乃は主催者として玉露の席を参加者に譲っていた。それによって、彼女はお手前をした生徒の茶の味を確認することができなかった。一方、お手前を行なう盆の上には、生徒が味見をした茶碗がある。この教室に四ヶ月以上通っている生徒だから、ある程度玉露の味はわかっていなければ困る。
「お味は、どうでした?」
 茶席にすべてが届く前に、文乃は声をかけた。お童子がすべての動作を終え、長盆を持ったまま自らの茶席に戻っている。生徒が玉露の味を思慮している間に、文乃は茶席に「どうぞ、いただいてください」と、声をかけた。そしてすぐ玉露を淹れた側に視線を戻した。
「少しお手前の動作が早いようだったから。玉露の味がしっかりでていたかしら」
 玉露のお手前は、客に振る舞うまで細々とした行程が続く。段取りを飛ばさないように文乃が監視しているが、動作の速さはお手前をしている本人がコントロールしなければならない。
 煎茶道は茶道とは違い知名度は高くないが、江戸時代より前からある由緒ある日本作法だ。茶道は武家のたしなみに対して、煎茶道は仏僧のたしなみである。現在もたくさんの流派があり、使う道具や段取りはその流派によってかなり異なる。文乃が長年親しんできたのは、その中でも細々した動きの多い流派だ。
 こちらの流派では、玉露の作法を一連し終えるまで三〇分近く要する。玉露を振る舞うまでそれだけの順序と時間をかけるのは、それだけ玉露を低温で抽出するのに時間がかかるからだ。作法の流れと玉露の抽出時間はイコールとなる。つまり、作法を簡略したり急いでこなしてしまうと、玉露が持つ本来の味を引き出すことはできないのだ。日本の作法には大抵順序立ててある物事に、すべての意味がある。
「玉露の味、……少し薄かったかもしれません」
 ふわりとしたワンピースを着た彼女は、文乃の言葉を素直に受け取った。文乃より少しだけ年下で、ガーリー系の服装を好む生徒だ。子どもに関わる仕事をしていると聞いた。文乃が先生をつとめるときは、常に和装だ。同室で異なる服装が同じ姿勢をしている光景は、文乃にとっていつも微笑みを生むものだ。
 その彼女は、本日体験入学として新たな参加者を連れてきた。彼女は客席の三番目に位置して、すでに足を崩している。正座は慣れるまでかなり時間がかかるものだ。四番目に座るのは、はじめて文乃の教室に参加した友人の由実子である。はじめは正座で文乃の仕事を熱心に鑑賞していたが、足がしびれたせいで今やすっかり気が散っているようだ。正座が基本だからスカートをはいてきたほうが楽だ、と、文乃が助言していたのにもかかわらず、パンツ姿でやってきた。今頃後悔を浮かべていても遅い。
 二煎目を味わい終えたことを確認した末席のお童子が立ち上がる。お童子役は、煎茶の作法に慣れている。和服を着ているように畳へ足を滑らせ、お辞儀を交わしながら各々の茶托を受け取っていった。
「お作法は、慌ててはダメよ。玉露の味にも影響してしまうから。少しゆっくりしすぎているかな、くらいがちょうどいいくらいだと思います」
 文乃が先生なりの言葉を送れば、生徒は「はい、気をつけます」と答え、袂に着いた長盆から茶器を慎重に手前盆へ戻していく。玉露の抽出はすでに終了しており、後片づけの段階に入っているが、意識して手順の速度を落としているのは良いことである。社会に出てしまうと、自然に物事のスピードが世間の波長に合わさってしまう。しかし、日本作法は川のせせらぎのように優雅で飾りない速度で行なわれる。急いでしまっては美しい所作も台無しになってしまうし、気持ちに余裕がない様子が現れてしまうのだ。煎茶道はとりわけ道具が大きくなく、細かい動作が多い。焦って手から茶器が滑ることもある。スピードコントロールが利かないときには、文乃が生徒の手を休ませ一度深呼吸させるほどだ。
 スピードのコントロールが利かないということは、それだけ心が疲れていることを指すと文乃は思っている。彼女も会社勤めをしていた頃に、そうした経験が度々あった。現在の日本社会は、古来から持つ日本所作のスピードや穏やかさから離れている。
「三席目のお手前が終わりますが、いかがですか」
 仕舞のお手前が行なわれている間、文乃ははじめて参加している二人に声をかけた。最初と第二席目のお手前の最中は、いくらか手慣れている生徒にお手本となってもらい、長々と煎茶道の説明をしていたが、今回のお手前からはいつもどおりの教室風景に戻っている。お手前は生徒の数だけ見る。第三席目はじきに終わり、残り一人分のお手前を見るだけだ。教室の終了は正午を半刻過ぎるだろう。
「はい、すごくおもしろいです。使っている道具も素敵で、……玉露の味があんな感じだったのは意外でした。……でも、なんか覚えることが多そうですね」
 三番目の座にある彼女が真っ直ぐな感想を伝える。この煎茶道教室を体験して、大方言われるような感想だった。
「玉露の本来の味は、こういう感じなんですよ。お手前も一見難しそうですけど、すべて流れるようにできた所作ですし、続けていれば自然な動作として身に付きますよ。これよりもう少し複雑なもので、ほうじ茶のお手前がありますが、それはある程度玉露がこなせてからの話になりますし」
「ほうじ茶もあるんですね。それは、すごく興味があります」
 感心した声に、末席のお童子役が文乃に顔を向けた。ショートカットでメンバーの中でかなり若い。
「私ほうじ茶のお手前、また見てみたいです」
 目を輝かせて言う彼女は教室で一番古株だった。同時に、一番煎茶道を楽しんで学んでいる。以前一度ほうじ茶のお手前をせがまれて行なったことがある。数ヶ月前の話だ。生徒の中で見たことのない者もいる。そろそろワンクッションとして披露してもいいかもしれないと、文乃は頷いた。
「そうですね。近いうちにしましょうか。でも、その回は少し早めることになるけれど。お手前の人数が増えるし、ほうじ茶のお手前は、玉露以上に時間がかかりますから」
 そう念を押したところ、他の生徒からも喜びの声があがった。開始時間が早まるデメリットもあるというのに、てづくりのマカロンよりも反響がいい。平日組とは大いなる違いである。平日の年輩方であれば「ほうじ茶なんていつでも飲めるから、玉露でいい」と、答えていたところである。
「そうしたら、今月末までに良い日にちを相談しましょう。みなさんのお手前を見た後に、締めで私がほうじ茶のお手前を見せる感じですね。ほうじ茶はかなりお湯の温度が高いお手前なので、季節的にもちょうどいいのかもしれません」
 目線をガーリーなファッションに戻せば、彼女はお手前の場からすでに離れていた。ちいさく折り畳まれた扇子を持って、敷居のそばで正座している。文乃の視線を待っていたようだ。
「あ、ごめんなさい。お待たせしました」
「大丈夫です、先生。ありがとうございました」
 彼女が、畳に指をあわせれば第三席目が終了だ。それにあわせて、残りの六人も静かにお辞儀をした。


 由実子は文乃に指示されたとおり、両手で若草色の裾を持ち上げていた。帯で締めた襦袢と足袋はすでに着け終わっている。残りは表に見える部分の着付けである。
「日本作法を久しぶりにちゃんと見たけど、いろいろおもしろかったわ」
 彼女の前に文乃が立って手順を口にする間に、由実子が煎茶道体験の感想をはさんだ。着付けをするにしても、由実子にはある程度動いてもらわなければ迅速に和服は着られない。
「それはよかったわ。その両裾を持ち上げたまま、交互に重ねてほしいんだけど」
 文乃は着付けに忙しいが、由実子は至ってのんきだ。時刻は、すでに朝食時をこえて二時になろうとしている。煎茶道教室のお手前は時間通りに事を終えたが、その後が長かった。体験入学をしに来た女性が、来週から一緒に学びたいと言ってくれたため、その説明に時間を要したのである。由実子には幾分待っててもらうこととなり、台所のバスケット内に用意していたサンドウィッチを二切れ渡して、居間で待ってもらった。サンドウィッチは、元々茅世のお昼ご飯用につくっていたもので、まだ本人に渡してはいない。着付けが終わり次第、二階にいる彼女の元に行かなければかわいそうだ。
「こう?」
「そっちは死に装束になっちゃう。そう、こっち」
 文乃が彼女に和服の着付けを施すのは二度目だ。最初のときは、共通する友人の結婚式に連れだって行ったときである。文乃がこの家に住んだばかりで、茅世とはまだ会っていなかった。飼い猫が行方不明となり意気消沈していた文乃が、自らの気分転換として由実子の着付けを提案したのだ。
 今回は由実子から提案だった。理由は同じように、休日に刺激がほしかったのだろう。着付けと煎茶道体験の報酬は、少し贅沢な昼食を一回分である。
「玉露の味ってあんな感じだったっけ。忘れてたわ」
 紐で着物を固定する。次は帯だ。居間は慌ただしく着付けをはじめたせいか、物が散らばっている。教室をはじめる前から、こたつテーブルを端に寄せて、由実子に貸す小袖一式を用意して置いた。夜にもう一度着替えに戻っているのだから、居間はそのままにして外出するつもりだ。稽古場も、水屋に茶器や道具を残しているし、お手前の場所を片づけていない。これらは、本日の予定がすべて終了してから片付けることにしていた。二人の外出中、茅世が一階に降りてきたとしても、二部屋を目にしたら入ることはしないだろう。
「二回目だっけ? 本物の玉露はあんな感じよ。ユミ、帯きつく締めるから、きつかったら言ってね」
 食事はおそらく三時を過ぎる。このことはすでに由実子も承知だ。だからこそ、昼食は三段皿のリッチなアフタヌーンティーセットがあるという、敷居が高い喫茶店で優雅に振舞うと彼女は豪語していた。和装で欧州風のアンティークな喫茶店に行くのはどうなのか、と、文乃は思うものの、四層にわたってお菓子やケーキが積まれたティーセットにはとても興味があった。普段仕事上、和菓子ばかり食する生活であるため、この由実子の提案は文乃にとっても新鮮だったのだ。
 巻いた帯を彼女の体型にあわせてきっちり締める。背の部分をキレイに飾ればできあがりだ。指導するときよりも時間はかからない。着物に描かれた模様は花柄だが、うるさくない色合いをしている。そこに銀に似た帯をいれて華やかさをだした。暖色ではないため一見春らしいが、連れ立つ文乃の小袖に色をあわせた。今日は、黄系の着物を選んでいる。模様の彩色は、由実子の着ているものより紅などを使っていて少し濃い。
「締めてるけど、だいじょうぶ?」
 ほぼ行程は終了だ。文乃が声をかければ、由実子が「オッケー。できた? 」と、問い返す。
「ちょっと前向いて。襟を直すから、……うん、これで崩れないわね」
「ありがと。これ着て玉露を飲むのも様になっていいかも。というか、着物で一緒に料理するやつはまた別だからね」
「はいはい。お煎茶習う気があれば、お気軽に参加してくださいね」
 他人行儀に言えば、「なにその営業モード。でも玉露はやっぱりいいなあ」と、由実子が本気になったようにつぶやく。彼女が長年一人暮らししている部屋は、文乃の家から半刻以上は有する場所にある。
「そんな暇はあるの?」
 文乃が、着物の道具を隅によけながら呆れたように言い返した。由実子は多趣味だ。休日と給料を一人暮らし生活と金のかかる趣味たちに使っている。オフタイムに全力を注ぐ性格で、予定は常につまっている。
「時間をつくろう。できたら通うよ。お金もちゃんと払うし……でも、文乃が先生ってちょっとあたり強くなりそう。先生業、かなり様になってたし」
 そうした言い方をしている間は、当分日本作法から遠く身を置く生活を続けるのだろう。以前、小袖に割烹着で台所に立った文乃を爆笑したのは、この由実子だった。彼女はあのときから着物に興味を持ってくれており、着付けを習うかと訊いたこともある。しかし答えはノーだ。理由は、着付けのプロが友達だから必要ない、着付けしてもらったお礼にご飯奢るし、文乃もそっちのほうがよくない? と、いうことだった。まったくもって好き勝手なことを言っているが、裏表のない性格を文乃は嫌いになれない。
「なら、したくなったときは別に連絡ちょうだい。さて、今はもう二時、」
 文乃も、外に出る用意をしなければならない。
「さすがにおなかすいたねえ」
 由実子が、着物の上からおなかをさする。文乃が立ち上がった。
「ちょっと用意するから、後一〇分くらい待っててくれる」
「いいよ。私も服の片づけとかしたいし」
 その声を背で聞きながら、文乃は居間の襖を開けた。バッグも化粧道具もすべて二階にある。ついで、茅世の食事を寝室に届けようと台所に向かった。木製テーブルの上に、木で編まれた蓋付きのバスケットがある。中を開けば、教室直前までつくっていたサンドウイッチがたくさんつまっていた。端に空白があるのは、由実子にあげた分だ。文乃も茅世に心の中で詫びながら、ふたつ取り出していただく。忙しいせいで気にしていなかったが、食べ物を口にすれば空腹なのだとすぐ知れる。しかし、これ以上失敬するわけにはいかない。
 空いてしまった部分は、側の籠にあった一房の巨峰から四粒摘んで埋めた。ちょうど良いデザートになるだろう。茅世は巨峰を皮のまま食べる。そして、ひとつだけ残った抹茶のマカロンをナプキンに包んで乗せた。バスケットを閉じる。
 それに、常温のミネラルウォーターが入ったボトルと萌葱色のプラスチックコップを持った。両手にあるセットはこれからピクニックに行くような内容だが、二階にいる生き物のための昼食である。台所を離れ、階段を渡ろうとしたところで和装の女性と鉢合わせした。いつも洋服の人間が和服だと見慣れない。そのせいで対応も遅れる。小袖姿は文乃が着付けたばかりの相手だ。
「文乃、用意は?」
 由実子の視線は、すぐバスケットとペットボトルに被さったコップを持つ両手に注がれた。持っているものに、合点がいかないようだ。文乃のは一瞬慌てたものの冷静を装った。こうした状況になったときの対処法は、何度もイメージトレーニングしている。
 仏壇にある花のこと忘れてたから、ちゃちゃっとしようと思って。
「これ、仏壇に、」
 考えていた言葉は、上手に出てこなかった。茅世の存在が暴かれてしまうかも知れない、という動揺をおさえるだけでも、やはりいっぱいいっぱいだったのだ。
「ああ、仏壇か。文乃もたいがい几帳面だよね」
 しかし由実子はそれを素直に受け止めてくれた。供えるものではないあげく、実際二階に仏壇は置いていない。祖母が住んでいたときは居間となっている六畳の和室に置かれていたし、祖母の移住とともに仏壇は文乃の実家へ身を寄せている。
 心の中で、いろんなものに懺悔しながら「すぐ用意するから!」と、由実子に言い捨て文乃は階段を上った。下階から「いいよ。水飲みたいから台所借りるよ」と、彼女の声が響いていた。
 二階はここに住んでから文乃と茅世以外上がったことがない。友人が遊びに来ても、二階に上がらないことが暗黙の了解となっている。祖母のものや自分のもので溢れているから、というのが表だった理由だったが、実際は茅世の存在を隠すためというのがすべてだった。二階を解放していれば、茅世もこの家が窮屈にならないだろう。いつもは足音を立てるが、猫のように足音を消して歩き回ることもできる子なのだ。
 二間ある部屋の手前にあるドアを開ける。文乃と茅世の寝室だ。八畳間にベッドとローテーブルを置いている。隣部屋は大きい本棚が設置され、この家に残された本と文乃が持ち運んだ本が揃えられていた。その別側面にはタンスがあり、窮屈さが際だっている。寝室に置けないものをすべて隣部屋に退かしたようなつくりだった。茅世が寝室を占領するのだから仕方がない。睡眠時間を多く必要とする彼女は、この寝室のベッドか居間のソファで眠っている。
「茅世、起きてる?」
 布団をかぶった茅世に声をかける。空腹ならばすぐ飛び起きてくるが、今は変化がない。熟睡しているのだろう。文乃はテーブルに昼食のセットを置いて、外出用のバッグを探した。和装のときに使うバッグを先に見つける。次に洋装時に使っているものを手にして、中身を取り出した。品を確認しながら入れ替える。外出用の鏡を開き、化粧パウダーで軽く化粧を直した。財布にはまだお札が数枚残っていたはずだから、用意はこれで終わってもいいだろう。
 寝ているところを悪いと思いつつ、文乃はベッドの布団を少しめくる。深く帽子を被った茅世があどけない表情で眠っていた。お稽古前に寝ている茅世に無理やり被せたため、眉まで隠れている。
「茅世、ちょっと起きて、」
 もう一度名を呼べば、パッと瞼が押し開かれた。茅世は嗅覚と聴力が異常に発達している。反応はいつも早い。
「文乃、おしごと終わった?」
 そう言いながら、彼女がベッドの中で大きく伸びをした。文乃は昨日と今朝伝えたことをもう一度繰り返した。
「終わったわよ。いまからお友達とでかけるから、そこにあるお昼ご飯を食べてね。帰ってくるのは夜遅くになるかもしれないの。家には友達も一緒に戻るから、そのときは二階に戻ってて。帰ってきたときは、いつもと同じで玄関を開ける前に、ベルを二度鳴らすから」
「お昼ご飯は、なあに」
「サンドウィッチよ。喉が乾いたら、このペットボトルのお水飲んでね」
「うん、後で食べる。いってらっしゃい」
 茅世はもう一度眠るようだ。文乃は、置き去りにしてゴメンという言葉を飲み込んだ。以前そう謝ったときに、茅世は困った顔をしたのだ。
『茅世が、あっちのおうちで猫のときにもそうだったのに、なんで謝るの』
 飼い猫だったときは、一泊旅行で置き去りなど時おりあったのだ。今更謝るのは茅世の戸惑うとおりナンセンスだった。それに、文乃の実家にいたときのチセは絶対に外の敷地に出ることはない家猫だった。今も同じだ。近所にバレないよう、二人で遠出してみないかと誘っても、絶対に首を縦に振らない。
「いってきます。おやすみ、ね」
 目を閉じた茅世に布団をかけ直し、文乃は部屋を離れた。腕時計は仕事の外出以外つけない派だから、時間を見る術は基本的に携帯電話だ。階段を降りて居間に戻れば、由実子が文乃の携帯電話を手にしていた。
「はい、これ」
「待った?」
「そんな待ってないよ。今、二時二〇分」
 三時には食事にありつける。急ごうと二人は玄関に向かった。駅まで徒歩一五分がネックだが、普通電車に乗ってしまえば目的地の繁華街まで一本でたどり着くのだ。



... back