* 下がり葉の猫、第5話 *


3.


 天井に吊された竹編みの照明器具から、人工の光がもたらされている。間接照明を好む文乃だが、この稽古場には蛍光灯を取りつけていた。その明かりは稽古場の一面に広がって置かれているものを明確にしている。障子の外は暗い。元より雨戸をしているせいだ。
 畳には着付け指導に使われた和装が丁寧に片づけられ、二隅に寄せられている。和装にはさまざまな種類があり、今日の夜に行なわれていた個人指導では小袖と留袖を扱っていた。小袖は生徒が文乃に着付けるため、留袖は生徒自身が着付けていたものである。ふたつの見た目は違うように思えても、手順は少しずつ変わっていく。本日の個人指導の際、文乃は事前に小袖を脱いでいた。一対一だと、こうした指導も気をつかうことなく行なえる。
 煎茶道教室は日時を固定しているが、着付け教室はグループ指導と個人指導の二種を設けていた。個人指導をはじめたのは、過去に生徒の一人が個人指導を頼んできたことがきっかけだ。彼女は平日休みの間を利用して着付けを習っていた。しかし、仕事の都合により休みの曜日が変わるため、教室に向かうことができなくなると相談してきたのだ。文乃は彼女の依頼を了解した。彼女はその後、別の曜日の午後に個人指導をあて、一年近く文乃の元で習っていた。文乃はこれをきっかけに他生徒たちからアンケートをとり、個人の着付け指導も引き受けるようになったのである。
 着付けの個人指導は、主に会社勤めの女性が利用している。日程が組み込まれる時間帯は、基本として夕方から夜間だ。働いている身で平日午後の作法教室に通うのは難しい。会社員をしていたことがある文乃は、それをよく知っていた。今夜の生徒も平日は働いている女性で、マイペースに習っているメンバーのひとりだ。
 着付け教室に関しては、新たに夜間や土日にグループレッスンを組むことも視野に入れていた。しかし、個人指導をはじめてしまえば、生徒たちがそちらを選ぶのは容易に想像できた。各々でレッスンする時間帯を都合よく決められるからだ。その分、指導料はグループ指導のものよりほんの少しだけ高い。それでも女性雑誌一冊くらいの追加料金である。金額の差に生徒からの不満は出ていない。
 文乃は気軽に決めてしまった個人指導について、はじめてから長い間不安を抱いていた。学びに来る人のことを考えて設定したが、文乃自身が生徒たちの融通きくまま日程に振り回される可能性が高かったのだ。しかし結果的にそれは杞憂に終わっている。生徒の側から一度言われた曜日と開始時間は、大方反古されることはなかったのである。
 生徒側にとっても、逆にレッスンの日を固定したままでいるほうが勝手は良かったようだ。個人指導は火曜日から木曜日の夜に集中する。振り替えで日時が空いていないときは、土日の夜を使うこともあった。月曜日は仕事はじめの曜日で、金曜日は仕事納めの曜日のせいか、皆に好まれないのだ。
 個人指導での日時変更の連絡は、携帯電話のメールアドレスが使用される。携帯電話は、教室を開く際に仕事用としてもうひとつ契約した。一番月料金が安いもので、ほとんどメールのやりとりだけだ。日時変更は前日の夜までと決めている。連絡がない場合は、生徒の決めた曜日と時間で行なう。大抵、生徒から日にち変更の連絡が来る日時は祝日であることが多い。
 平日のグループで行なわれる着付け教室もまだ健在だが、グループ型の着付け指導教室は生徒の入り具合よりもグループレッスンが存在していること自体に意義がある状態となっていた。着付け教室は煎茶道などの日本作法に比べ、続けて習うことが重要ではない。和服が着付けられることを目的としているのだ。長期間学ぶようなものではないため、煎茶道教室に比べ人の出入りが激しかった。それでも続けているのは、着付け教室を行なっているという宣伝のために固定された教室が必要だからだ。平日の着付け教室は、多いときでも参加者が三人までに留まっている。和服の着付け自体は、三ヶ月も学べば基本の型がわかってくる。ある程度学べば、それでおしまいという生徒も多かった。
 続けて高度な業を身につけたい生徒は、個人指導へと流れていく。現在個人指導で対応している人数は三人だ。グループ指導は二人である。秋に一人、グループ指導から個人指導へ移った。その生徒は大学生で講義の時間帯が変わることが名目だった。久しく平日午後の個人指導が、この秋からはじまっている。大学生の生徒の個人指導は明後日の午後にある。一方、明日は週に一度の着付け教室の日だ。
 和服の着付け指導に関しては、やり方を考え直す必要があるかも知れないが、今のところ先生である文乃の負担はそう重くない。それなりにうまく歯車があっているのだから、後一年くらいはこの調子でも良いだろう。そう、彼女は今のところ考えている。
 文乃が湯呑みを見つめていれば、一本の茶柱が立っていた。はじめてのことに、まじまじと見つめてしまう。お茶の中に茶柱が立つと良い事が起こるという迷信がある。本当かどうかわからないが、そうしたポジティブなことは信じたほうが心の健康に良い。
「このスコーン、すごくおいしいです。柑橘系のジャムとあって」
 折り畳み式ローテーブルの反対側で声があがり、文乃は顔を上げる。黒髪の女性がおいしそうな表情をしていた。卓上には二つの湯呑みと皿がおかれ、プレーンのスコーンとジャムが乗っている。
「よかった。オレンジとパイナップルを使っているんですよ、それ。自家製の試作品だけれども、美味しかったならなにより」
 文乃は微笑んだ。本日の指導はほぼ終了しており、互いに心の余裕が生まれている。
 先ほどまで、一緒に二種の着付けをこなしていた生徒だ。彼女の名は佐織と言った。下の名前で呼んでほしいと言った彼女は文乃の三つ下だ。今年の春から個人指導を受けている。出会った頃はブラウンのボブカットをしていたが、最近になって黒に戻していた。髪も伸ばしているようだ。着付け指導の際にまとめていた髪が、いまは肩の下で揺れている。佐織は訪れた来たときの服装に戻っている。文乃も洋服に着替えていた。
 文乃の着付け指導では生徒側が拒否しない限り、着付けの終了後にお茶の時間を設けていた。多くの生徒たちが楽しみにしている時間であり、文乃にとっても着付け勉強のアドバイスを気軽に言える場として重宝している。お茶とお菓子を提供するくらい手間ではない。日本茶の葉は仕事がら常に切らさないようにしているし、お菓子は随時用意されている。茅世のためという名目も加え、自分の趣味と化しているお菓子づくりと、煎茶道教室の生徒が時々持参する和菓子の残りが、こうした場で有効活用されるのだ。
 彼女はすっかりくつろいだ様子で、スコーンにジャムを塗りながら会話を続ける。
「自家製なんですか、これ。 甘くなくてちょうどいいです。……でもこのジャム、ちょっとしょうがっぽい味もしてますね。もしかして、しょうがも入っていますか?」
「そうです、しょうがも入れてみました。しょうが、苦手でした?」
 文乃が訊ねると、佐織はすぐに「いえ、」と答えた。
「逆にすごいおもしろいです。しょうがの味が良いパンチになってて。これ良いアイディアですね。なんだか、いつも美味しいものばかりで、尊敬しちゃいます」
 本当に尊敬しているという佐織の眼差しが、文乃に向けられている。しかし、スコーンもジャムも高度な業が必要とされる料理ではない。少し手間がかかるだけだ。褒められると少し申し訳ない気持ちになる。
 それに、文乃は自分の手でつくれそうな美味しい食べ物に出会うとつくりたくなる性分だった。今は特に、甘味物を愛する少女、茅世と一緒に住んでいる。スコーンとジャムは、茅世のためこの午後につくったものだ。スコーン自体は量もあまりつくっていない。煎茶道教室には相応しくないものだからである。
「いえいえ、スコーンもジャムも、そんな難しいものではないんですよ。ジャムは少し時間がかかるから、面倒かもしれませんけど……もし、気に入ってくれたのなら、レシピも差し上げられますよ」
 文乃はそう言いながら、彼女のために先週つくったマカロンをひとつくらい残しておけばよかったと思った。佐織が洋菓子好きなのは言われなくてもよく知っている。和菓子も出せば美味しいと口にするが、喜びを表現するのは決まって食べたことのない洋菓子や手づくりのお菓子のときなのだ。
 佐織は晩夏まで、平日の煎茶道教室がある曜日の夜に指導日を選んでいた。披露されたお菓子を真っ先にありつけられるスケジュールになっていたのだ。しかし、ここ最近の指導日は少々流動的だった。今月から月曜日の夜を基本日にしてほしいとお願いされている。
「本当ですか。いただけるのでしたら、是非このレシピいただきたいです。私も最近お料理本気でがんばらないと、って思っているところなので、」
「そうしたら、次回お渡ししますね。料理は、そうね、ハマればすごくおもしろいものだし、上手にできればできるほど、皆に喜ばれるものだから。今も、佐織さんが喜んでくれたように」
 そう文乃が返せば、佐織は少し照れたように微笑んだ。
「そうですよね。そう言われると、がんばる気が増します。でも、一度文乃先生の調理しているところを見てみたいですよ」
「大したことはしてないですよ。前、着物に割烹着で料理していたところを友人に見られて、大笑いされたくらい。ここは昭和か、って」
 佐織の微笑みが、笑いに変わる。
「ごめんなさい、想像したらつい笑ってしまいました。でもそれ似合いますよ、先生」
「それは、褒めてる? 」
「褒めてます! でも、すごくいいですねそれ。本当、着物っていいですよ。浴衣もふくめて」
 佐織は元々、小振り袖と浴衣だけを学びたいと言って文乃のところへやってきた生徒だった。しかし、学ぶうちに和装を学んで着ることが楽しくなったようで、できるだけ業を修得したいと夏が終わる頃に話していた。こうして着付けを学んでいく中から、より深く和装に興味を持ってもらうというのは指導側にとっても嬉しい。
「洋服にくらべて不便な面もあるけれど、理に叶っているところもあるんですよ。私も着物を日常的に着付けるようになってから、姿勢が良くなったし。帯の部分で背筋が固定されますから」
「なるほど。だから長時間着ていると疲れるんですね」
「帯がコルセット代わりになりますからね。慣れれば洋服のときでも、姿勢良く見えてよかったり……後、体型が隠せるところですかね」
「あ、それはかなり大きいですね。私もダイエットしないといけないのに、」
 でも、美味しいものは食べないともったいないですよね。
 佐織がそう会話をつなげた。いつもであれば、着付け指導で疑問に思った点をはじめに訊いてくる佐織だが、今日は雑談が先に進んでいる。
「そう、美味しいものは美味しくいただかないと。食べ過ぎは良くありませんけれど。でも、佐織さんはダイエットが必要な感じには見えないですよ」
 実際に体型は文乃より佐織のほうが細い。和服は細身であるほど、体型を補正する必要がある。補正に使われるのは主にタオルだ。佐織は着付けに多めのタオルを必要としている。お世辞ではなく本気で文乃は答えたのだが、佐織はその言葉にかぶりを振った。
「いえ、本当に必要なんです。来月、あの、私、結婚するんです」
 返答に気負いはなかったが、出てきた単語に文乃は少し驚いた。その気持ちを表情に乗せたまま、佐織を見つめる。薄化粧だがアイメイクが利いている。
「え、あら、結婚なさるんですか。これはこれは、おめでとうございます」
 はじめて一年半近い稽古ごとで、少なくとも一五人以上を生徒として迎えてきた。その中で結婚する話を直接聞いたのは、今がはじめてだ。驚きとともに文乃がちいさくお辞儀をすると、ありがとうございますという言葉をもらった。
「結婚式はなさるんですか」
 最近では結婚といっても入籍で済ませるカップルも多い。来月結婚すると彼女は言ったが、文乃は改めて尋ねた。
「はい、来月下旬の予定です。神宮で先に一度神前式をして、翌週が披露宴になってます。ある程度準備も整ってきているんですけど……報告が遅くなってすいません」
 佐織の年齢は確か二〇代後半だったはずだ。結婚に早いといわれる年齢でもない。すでに恋人がいて結婚を控えているということも、世間的に十分ありえることだった。
 文乃は、これでわかった気がした。彼女がここのところ着付け個人指導の日時を動かしている理由だ。仕事をしながら結婚式のことも進めていけば、稽古事が後回しになるのは当たり前だ。しかも結婚というからには、その後も当分慌ただしいに違いない。
「いえいえ、とんでもない。祝い事なんですから、そちらを優先させてくださいね。こちらは私のほうで融通できますから」
「ありがとうございます。それで、文乃先生、」
 食べかけのスコーンを前に、佐織が真面目な表情をして正座をし直す。何かを伝えようとしていると察した文乃は、湯呑みを取ろうとしていた手をテーブル下に戻した。お稽古を今月で終了させたいというのだろう。先生は生徒の立場でそう思った。
 実際は異なっていた。
「先生、お願いがあるんです。私の結婚式の衣装の着付け、文乃先生にやってもらいたいんです」
 文乃は、この台詞に心底驚いた。
「え、それって、白無垢ですか?」
 イエス、ノーの返答をする前に、文乃の口から言葉が飛び出していた。結婚式の着付けの定番は、白無垢か色掛けだ。和装の着付けは全般を一通りこなせる文乃だが、本物の花嫁に白無垢を着付けたことはただ一度だけだ。しかも、そのときは祖母の助手として手伝っただけで、一人で着付けたわけではない。練習では何度も着付けたことはあるが、本番とはわけが違うのだ。
 できないわけではないが、少し気が引けた。文乃の感情を拾った佐織が慌てて声を出す。
「いえ、基本はドレスなんです。会場は一軒家を貸し切った感じの、アットホームなところなので。お願いしたいのは、お色直しのときに着る和服です」
 それならば白無垢ではない。文乃は少し冷静になった。
「そうしたら、振り袖とかかしら」
「はい、大振り袖です。昔、私の祖母が母のために買ったもので、もう一度祖母や母に見せたいと思って、それの着付けを文乃先生にお願いしたいと思っているんです」
 それは、とても納得できる内容だった。お色直しに三代が関係する和服を着たら、家族はおおいに喜ぶだろう。それに振り袖の類は既婚になってしまうと着ることができない。未婚でも三〇歳前後が着飾れるギリギリの世代だ。当分の振り袖の見納めとして佐織が着るというのは、とても素敵な話だった。
「すごく素敵な話ですね」
 想像するだけでも、良い結婚式になるだろうと文乃は思った。しかし、そこに自分が参加するというのは少し違和感がある。
「やっていただけますか。あの、着付け料は出しますので」
「いいのよ、そういうのは。逆にこちらが包んで差し上げないといけないくらい」
 お金については、やんわり断った。しかしまだ、着付けをするかしないかは、答えていない。
「無理に、とはいわないんです。先生も忙しいと思いますし、来月の話なので」
 無理をしなくてもいい、と、佐織は言っているが、心の中では是が非でもやってほしいのであろう。真剣さが表情に表れている。しかし、今すぐには決断できない。単にお金や暇の問題ではなかった。
 文乃の気持ちの問題が、一番大きかった。
「そうですね、日時を教えてもらっていいかしら。突然だったから、今はまだはっきりと出来るとはいえないのだけれど、来週の着付け指導までに、メールか口頭で伝える感じで……いいかしら」
 即オーケーが出せない自分の感情に、文乃は心の中で佐織に謝りつつ、そう言い改めた。佐織は少し安堵したように了承して、日程を話してくれる。結婚式の日時は来月下旬の土曜日。昼からで、翌週の祭日にあわせ休暇を取るのだろう。文乃が承諾した場合は、土曜日に開催している煎茶道教室の代替日を検討しなければならない。
 そこまでは、文乃も口には出さなかった。晴れの日のお願いごとをしている人間を、落ち込ませるようなことはしたくない。しかし、依頼をすぐ受け入れるのはためらわれた。少しだけ、この件については悩みたかったのだ。



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