* 下がり葉の猫、第6話 *


「今日はありがとうございました。また、来週よろしくおねがいします」
「はい、また来週お待ちしています。披露宴のことは、できるかどうか決まり次第かならずご報告しますので。なにかあればメールください。気をつけて帰ってくださいね。おやすみなさい」
 文乃の言葉に佐織が一礼をして、門扉からアスファルトへ足を踏み入れた。街灯がゆっくり離れていく姿を映す。彼女の家は稽古場から徒歩で二〇分も離れていない地区にある。結婚相手とはすでに同居しているそうだ。電車を使わないで着付け教室へ通えるのであれば、披露宴準備に大きな支障はないだろう。そして、結婚式のお色直し衣装を文乃が担当することになった場合でも、彼女は無理なく文乃の元で準備や相談ができる。
 そう思っていても、文乃は佐織の依頼に対していまいち踏ん切りがつかなかった。大振り袖の着付けをすること自体はかまわない。白無垢などよりも準備に手間はかからないし、着せる相手も和装の着付けに慣れている。お色直しは時間をかけずにすむだろう。
 しかし、文乃は結婚式会場というところが、実はあまり好きではなかった。人と接するのが苦手というわけでなく、単純に居心地が悪いのだ。結婚式の手伝いをするとしても、なるべく裏方の化粧室で待機していたいくらいである。準備や着付けのリハーサルも必要なはずだ。
 どちらにせよ佐織の結婚式までは後一ヶ月しかない。早いうちにやるかやらないかを決めなければ、彼女にも迷惑がかかるだろう。煩悶を続けながら、文乃は台所にたどり着いた。夕飯は着付けの個人指導前にすませているが、一仕事を終えて少し小腹が空いていた。果物が食べたいと思い、この時期にしか出てこない銘柄の梨を冷蔵庫から取り出す。包丁で数等分に割って、皮を剥いていれば生き物の気配がした。
 振り返れば、帽子を深く被った茅世がいる。足音を消してやってきたのは、文乃以外の人間に気づかれないためだ。
「おしごと、終わった?」
 少女は、声を潜めて文乃に訊ねた。普段であれば家から客人が出払う都度、文乃が階段下より茅世の名を呼ぶ。しかしこのたびは、考えごとに没頭していたせいで完全に忘れていた。聴力の長けた茅世は、玄関の引き戸の開閉音を耳にして一階へと降りてきたのだろう。
「あ、ごめんね茅世、呼ぶの忘れてた。今日の仕事は全部終わったわよ。梨剥いてるけど、食べる?」
 文乃の言葉に茅世が「梨は食べたい」と、うなずく。
「居間に、先に行ってるね」
 そして、彼女は足音を立てて台所から離れた。居間を明るくするスイッチを押しに行ったのだろう。まもなく、かすかなテレビ音声が六畳間から聞こえてきた。茅世は行為のひとつひとつを目いっぱい楽しもうとする。試してみたいことは文乃に訊いてくる。子どもと同じだ。
 したいか、したくないか。物事を簡潔にとらえれば、常に問われていることはシンプルだ。子どもならば、迷わず自分の気持ちを優先するだろう。たとえば、文乃が子どもの心に戻ったら、佐織の着付けをどう決めるのか。
 ……無理だ、そもそも子どもに着付けはできない。茅世ですら、文乃が小紋や浴衣を着せているのだ。茅世が一人で着れるものといえば、パジャマ代わりにしている作務衣や甚平くらいである。
 文乃はため息をついて、剥きおえた梨を器にいれた。包丁を水で流し、所定位置へ戻す。ついで、近くのコップを濯いで一杯水を満たした。一気に飲んで、大きくもう一度息を吐く。
 結婚という単語で気持ちが揺れ動いてしまうのは、先週の見合い話のショックが続いているからだ。なにもそれだけではないのだが、見合い話が出たことは大きい。実行に移されなかっただけましだが、そういう問題ではなかった。一度来たということはつまり、これからも来るということだ。そして、見合い話をされるということは、文乃がこの家に住み続けることに対して、親はどこかで良しとしていない証拠なのだ。他人に家を貸したくない祖母が、両手を上げて孫の一人暮らしを大賛成しているおかげで、親は文乃に口うるさいことを言っていないだけなのである。祖母の権力がなくなったら、親は率直な気持ちを文乃に表すのだろう。それが一番憂鬱なのだ。
 親が安心するには、一人で身が立てられるほど仕事で成功するか、結婚するか。今のところ、その選択肢しか思い浮かべられない文乃はとても気が重かった。娘であった場合は特に、後者が喜ばれることが多い。
 結婚する者もいれば、見合いをすすめられる者もいる。文乃はそういう年齢になってしまったのだ。晩婚化していると言われているが、日本にいるかぎりこの風潮は当分続く。文乃の身の回りだけをとれば、今まで周囲の友人知人の結婚や出産のピークは二度あった。二〇代前半と三〇代直前だ。佐織は後者のピークに属するのだろう。
「文乃、まだ来ないの?」
 茅世の声が、廊下から聞こえる。
「ごめん、すぐ向かうね」
 文乃は慌てて梨の器を持ち台所をでた。着付け依頼のことから、考えごとがだいぶずれてきていた。気持ちを切り替えるように六畳部屋に入ると、茅世がソファに座ってテレビを見ている。画面の中にはサバンナの動物が登場していた。茅世は昔から、自分以外の動物がテレビ画面に映ると釘付けにされるのだ。
 変わらない習性に文乃は微笑んだ。茅世の頭を覆う帽子を抜き取る。二つ編みの髪の毛と大きな耳が跳ねた。心が和んだ。
「今日、夢でこれがでてきたんだよ」
 茅世がそう液晶画面を指さす。文乃は彼女の隣に座った。
「ライオン? それで、どうしたの」
「なんかお話したんだけど、なんだったか覚えてない。夢はいつも忘れちゃうの」
 彼女は思いだそうとして、ライオンを見つめているのだろう。
「そっか。またそのライオンに夢で会えるといいね」
 文乃が返した言葉に茅世がうなずく。ニュース番組の一コーナーだったのか、話題はすぐ人間の話になった。よりによって、ブライダル関係の特集である。文乃は番組を変えるよりも早くつぶやいた。
「結婚式かあ」
 目でリモコンを探したが、茅世の手に握られている。しかも、彼女の瞳は文乃が宿すものと間逆だった。彼女はすぐ、文乃に顔を向ける。
「ケッコン、結婚、……ねえ、文乃はこういう結婚式に行ったことがある?」
「結婚式は、何度もあるわよ。茅世どうしたの、興味あるの?」
「うん。キレイ?」
 何を指してキレイと問うのか、文乃にはわからない。しかし、場の雰囲気を読めば花嫁のことを言っているのであろう。とりわけドレスに、茅世の目が奪われているようだ。いつも和服しか着たがらない子なのに、ウェディングドレスは別の話らしい。
「キレイよ。ドレスとか……そうね、花嫁が一番キレイな日よ」
 一生に一度かもしれない、晴れの舞台なのだ。お金をかけて披露するからには、花嫁は一番美しく仕上げる。そうでなければ意味がない。
「ほんもの、見てみたいなあ」
 茅世がそうつぶやいた。文乃はその言葉に気を留めた。食べてみたい、さわってみたい、やってみたい、と言うのであれば、今までたくさん聞いたことがある。だが、見てみたい、という言葉を聞いたのははじめてだ。しかも、よりによって彼女が見たいというのが結婚式だ。文乃は茅世の顔をのぞきこむ。
「本当に見てみたいの?」
「うん。一番キレイなんだもん」
 本当に一番かどうかまでは保証できないが、キレイで華やかなであることは事実である。それが結婚式なのだ。花嫁を見てみたいという茅世の願望は、女の子が大抵一度は抱く気持ちだったろう。文乃は、先ほどまで脳裏を占拠していた事柄へ思いをめぐらせた。彼女の反応が見てみたかった。
「さっき着付けのお勉強しにきた人ね、来月結婚式するんだよ」
 文乃が口にした言葉に、茅世の耳が跳ねる。目がまんまると大きくなって文乃を映していた。身近ですぐに結婚式が行なわれるとは思いもしなかったようだ。
「ほんとうに! 文乃は行くの?」
 瞳の輝きは、佐織がスコーンを食べて見せた表情にそっくりだ。
「その人に、結婚式で和服の着付けしてほしいってお願いされて、いまちょうど悩んでるところ」
 文乃がテーブルから梨を取る。歯で噛むと、みずみずしい音が鳴った。
「しないの?」
 なぜしないの? という、真っ直ぐな疑問符が茅世の顔についている。文乃は梨を飲み込むと苦笑した。
「ううん、まだわかんないのよ」
「文乃は、着付けとってもじょうずだよ」
 茅世が真顔で言った。先生をしているくらいなのだから、上手なのは当たり前だ。なにを思ってこの子はそう言ったのだろう。文乃は少しおかしくなって口元を緩めた。
 結婚式というイベントが見てみたいと食いついてきた茅世だ。それは、身近な外の世界にはじめて興味を持ってくれたこととイコールだった。彼女は試しに訊いてみた。
「茅世は、本当に結婚式に行ってみたいの?」
 茅世はこれまで一切外出することを拒んできた。外出してみようという文乃の誘いをすべてはねのけてきたのだ。人ならぬ存在なのだから、それくらいの態度でいてくれたほうが文乃にとってもありがたい。しかし、本当に知られてはならないのは、文乃を知っている人間とこの近所の世帯に対してだ。茅世に厳重な服装で耳と尻尾を隠して、郊外やどこか遠くに行く分には問題がなかった。一年半近く一緒に住んで今までうまくいってきたのだから、少しくらい行動範囲を広げてもなんとかなるだろうという自負もある。帽子を被ってこっそり出かければだいじょうぶ、近所にバレなければだいじょうぶ、一回くらい遠出してみようよ。そう文乃が茅世に再三お願いしているが、結局彼女は断固として首を縦に振ってこなかった。
「うん、行ってみたい。結婚式に、行ってみたいよ」
 その茅世が、今回はあっさりと答えた。はじめて自ら外出してみたいと言ったのだ。
 文乃は今日一番に驚いた表情で、もう一度問い直した。
「え、茅世、本当に外出るの?」
「だって、結婚式が見たいんだもん」
 結婚式のために、出たくない外へ仕方なく出る。茅世の言葉と表情を解読すればそういうことだ。しかし、どうであれ、彼女ははじめて外に出る気になったのだ。茅世は本来ならば隠さなければいけない存在であるが、耳と尻尾を隠せば人間の女の子にしか見えない。存在を明かせないのは確かだが、完全に外へ出られないほど異形の生き物ではない。
 結婚式に行くとすれば、佐織に茅世のことを紹介しなければならないが、海外長期出張に出かけた親戚の子を預かっているとでも言えば、信じてもらえるだろう。佐織のつながりで文乃を知っている者はいない。それは好都合だった。散々ネガティブに悩んでいた着付け依頼だったが、茅世が結婚式を見たいというのであれば問答無用で承諾する。すっかりやる気になっていた。文乃は、茅世を片手で抱き寄せた。
「そしたら、来月一緒に結婚式見に行こうか」
「茅世も見れるの? いいの?」
「いいわよ。私がなんとかする。一緒に見にいこう」
「やったあ、キレイなの見れるんだ! ありがとう、文乃」
 その茅世の言葉だけで、文乃はどんなことでもできると思った。明日、早速佐織にメールをしよう。決めたからには、今週からそれにあわせていろいろな準備をしなければいけない。面倒ごとでもあるが、茅世のためだ。念願だった、一緒にお出かけをするというシチュエーションがついに実行できると知って、彼女は完全に舞い上がっていたのだ。
「あ、」
 だから彼女は、茅世の表情が変わったことに気がつかなかった。茅世が身を固めて動かない様子に、文乃は少しして気がついた。彼女は何かに意識を奪われている。
「茅世、どうしたの」
 彼女の大きな猫型の耳がピンッと立っていた。こうした状況に文乃は身に覚えがある。そしてそれは、文乃のまったく望まない展開を呼ぶのだ。
「いる」
 二文字分だけ、茅世が声を発した。それに、文乃はすぐ表情を変えた。
「まさか」
「ゴ、」
 文乃はかかさず茅世の口を手で封じた。名前を聞きたくはなかった。できるならば、一生耳にしたくない名前だった。
「ど、ど、どこに!」
 文乃が血相を変えて、茅世に問いつめる。口を封じられた彼女は眉を寄せてもごもご呻いた。慌てて文乃は手をはずした。
「隣のちいさい部屋で、飛んでる音がしてる」
 それを聞いて、文乃はソファに倒れ込みそうになった。飛んでいるという動詞を聞いただけで、隣の四畳部屋が地獄絵巻の世界に変貌する。
「うそでしょ、どうしよう。それって、一匹?」
「うん。茅世がころしにいこうか」
 五歳児の可愛い容姿で、物騒なことをいう。そして、彼女の殺し方は言葉以上に残酷なのだ。物怖じしないのは元猫であるせいだろう。出会ったばかりの頃に、茅世が同種の虫をとらえたことがある。ためらいなく、手でぐしゃりと握りつぶしていた。あの瞬間だけ、文乃は茅世が大嫌いになった。この家に住んでできた唯一のトラウマだ。
「ダメダメダメダメ、わ、私がやってくる」
 茅世には頼めない。始末する道具を彼女に持たせても、やりにくいと言って結局手を使うのだ。どれほどやりたくないと思ったところで、文乃が始末しなければいけない。手で握り潰される虫の姿は最も見たくなかった。そちらのほうが、後始末にうんざりするのである。
「文乃、顔青いよ。だいじょうぶ?」
「だ、だいじょうぶよ。まだ、部屋にいるのよね」
「いる。上のほうに」
「ああ、いるのね。ちょっと、新聞とスプレーとってくる」
 そそくさと立ち上がった家主に、「お部屋の電気、つける?」と、茅世が訊く。文乃は隣の部屋が真っ暗であることを思い出した。虫を退治するにも、まず部屋に入って電気をつけるところからはじめなければならない。そこで黒い虫に飛ばれ、電気をつけた瞬間に間近でご対面となれば、本気で失神しそうだ。
「茅世、電気だけはお願い」
 四畳の照明は稽古場と同じで、天井の中央に設置している。古い家屋に備え付けのスイッチはないから、部屋に入って直接照明をつけなければならなかった。照明は紐を引いてつける。その紐は畳に座っても引けるよう、長く取りつけられている。客人用に使われる部屋だ。茅世の身長で、明かりをつけることは可能である。
 茅世がソファを降りて、文乃の後を追うように居間を出た。きっちり木扉を閉める。
「茅世、つぶしちゃダメよ、絶対、お願いだから」
 隣の四畳部屋の扉を開けようとしている後ろ姿に、文乃は声をかけた。廊下の突き当たりにある戸棚から殺虫剤を取り出す。
「つけたら、すぐ出る」
 そう言って、用心しながら引き戸を開け入っていった。それから三〇分はかかった。茅世は文乃の助手をしたのだ。
 ……そして結局、虫を退治したのは茅世だった。やり方はいつもと変わらない。握りしめられた右手を見て、文乃は今回も目眩を起こした。しとめようと大騒ぎしながら果敢に挑んだというのに、何もかも無駄だった。茅世をふくめ後始末を終えれば、日付は変わっていた。文乃はすでに、翌日分の気力も使い果たした気分だった。
 その翌朝、真っ先にゴミ袋を持って収集スポットへ向かった。隣に住む婦人に声をかけられた。
「あら文乃ちゃん、おはよう」
 隣の大山さんだ。幼い頃から文乃のことを知っており、この近所で唯一「ちゃん」を付けてくれる。文乃もよく知っていた。最初の頃、着付け教室に参加してくれたこともある人だ。
「あ、おはようございます。お元気ですか」
「おかげさまで元気よ。ところで文乃ちゃん、昨夜何かあったの? すごく騒がしかったけれど」
 間髪もなく、昨夜のことを話題に出される。大騒ぎの声が隣の家にも聞こえていたようだ。文乃は情けなさに朝から空笑いをしながら、その顛末を話していた。もちろん、しとめた茅世のことは上手に隠して脚色するのである。



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