* 下がり葉の猫、第7話 *


4.

「文乃、車の音が止まったよ」
「いますぐ行く!」
 玄関のたたきを降りて発された茅世の声から、文乃は小走りに廊下を渡った。電話で呼んだ送迎用のタクシーが家の前にやってきたのだ。玄関前に荷物は用意されているが、今は玄関口を開けることが先だった。運転手に挨拶しなければない。
「ちょっと待っててね」
 茅世に声をかけて、曇りガラスと格子が使われた引き戸を引く。外は昨日よりも気温が高い。文句なしの晴天だ。彼女はすぐ門扉を通り、タクシーへ近づく。気づいた運転手が窓を開け「倉橋さんですか」と問う。ハイと答えた。大きい荷物があるため、トランクを使いたい旨を伝えた。
 すぐ玄関に戻った文乃は、ボストンバッグと肩掛けの黒バッグを持って茅世をとともに家を出た。大きいバッグがだいぶ重い。容量の赴くまま余計なものを入れてしまったのかも知れないと少し反省する。
 二人は珍しく、揃って洋装を選んでいた。新婦が大振り袖をお色直しに使用するということで、和服を着ることは避けたのだ。文乃はお色直しの着付けをする役を預かっている。洋装のほうが動きやすいというのもあった。今日の結婚式披露宴で知っている人は新婦とその家族くらいである。披露宴に参加するというよりも、手伝いに行く気持ちでいた。服装もシンプルだ。目立ちたくもないこともあって、黒を基調にしたワンピースを着ている。これならば肩が凝らないし、着替えを持っていく必要はない。
 同じく茅世も子ども用のワンピースを着ている。はじめての洋装コーディネートである。今まで彼女が拒み続けていたはじめての外出に、はじめての洋服だ。茅世は自分の信念を曲げてでも、結婚式を見てみたいのだ。改めて、結婚式の威力はすごいと文乃は思う。
 トランクを運転手が閉めたところを確認した文乃が、先に車内に入っていた茅世のところへ向かう。車内に顔を突っ込めば、茅世のワンピース姿に気持ちがすぐ奪われる。いつ見ても新鮮で見慣れなかった。抱きしめたくなるほどかわいらしいのだ。おろしたての外出着は、文乃が茅世を思いながら意気揚々とデパートをめぐって購入した。胸元まで白襟のついた、長袖のワンピースである。スカート裾と袖に五線譜のようなラインが引かれ、黒の音符が良いアクセントになっている。後ろ背には大きなリボンが結ばれていた。そのデザインが、購入の決め手になったのだ。
 茅世の式服を洋装にしたのには、第一に耳を隠す帽子のことを考えたからだ。晴れの日の振り袖に帽子では道中、着物に詳しい婦人方からかならず指摘が入ると予想できた。かんざしや飾り止めならかわいらしいと賞されるだろうが、帽子を使うコーディネートはあまりにも難しい。しかも、顔を半分隠すような大きな帽子である。七五三の時期もあって、子どもが振り袖を着て歩くこと自体は珍しいものではない。しかし、帽子を被ることが必須な場合は、洋服を着ていたほうがより自然だった。いっそのこと、かつらをつけさせることも文乃は考えたが、余計窮屈だろうということとなり、茅世と相談の上、はじめての洋装外出となったのである。
 茅世の帽子は、黒くサイズの大きいものにした。シンプルだが大きい同色のリボンがついている。大きい耳のせいで少し浮いているのように見えるが、こればかりは仕方ない。ゴム紐を拒否した茅世に、絶対に帽子だけは外れないようにしてほしいと懇願した。一方、スカートの下はドロワーズと呼ばれる黒のかぼちゃパンツをはいている。尻尾を隠すための対策だ。ドロワーズは空間に余裕があるため、尻尾を中に入れてしまえば見つけられることはないし、尻尾も窮屈に感じないだろう。
 文乃が行き先をもう一度伝えて、タクシーが発進した。向かうのは文乃の住む元祖母宅の最寄り駅より二つ先の駅だ。結婚式会場はそこから電車で数駅先の隣県にある。新婦の佐織の実家が、結婚式会場からほど近いところにあるのだという。奇遇にも、文乃の実家がある県である。会場は駅から利便がよく、ゆったりした一軒家のつくりが二セットあるということだから、それなりの敷地を有する会場だろう。披露宴準備を手伝う最中、式場の写真だけを先に佐織から見せてもらった。元より文乃が長年住んでいた土地の近くだから、周囲の雰囲気は想像できる。あの地域にお洒落な披露宴会場があったとは、文乃も言われるまで知らなかった話だ。
 遠回りするかたちでタクシーを使ったのは、茅世の存在を近所に知られないためである。万が一彼女の存在が知られてしまったとしても、耳と尻尾が暴かれないかぎり親戚の子で通すことにしているが、面倒ごとになる前に予防策をとっておいたほうが無難だった。大きな荷物があるということもある。駅から文乃の住む家まで、徒歩一五分はかかる。ボストンバッグには、着付けに使う用具や文乃の式典に使うポーチなどが詰め込まれていた。
 披露宴用着付けのリハーサルは事前にし終えている。佐織に大振り袖を持ってきてもらい、稽古場で着付けた。そのときにある程度使うものは決めて先に会場まで届けているが、予備品や他に必要かもしれないものを追加して持ち込むのだ。文乃が貸したものについては、披露宴後に郵送で戻されることになっている。ボストンバッグも、それに便乗して郵送してもらう予定だ。隣県だから、荷物は翌日に届く。
「茅世、だいじょうぶ?」
 洋装が着慣れないせいか、茅世が時々居心地の悪そうな顔をしている。文乃は思い起こす。茅世は車に乗るのがはじめてかもしれなかった。猫の頃に何度か乗車したことがあるかもしれない。
「洋服、足がすうすうする。車はやっぱり、変な気分」
 男の子のような感想を茅世が言っている。スカートに違和感があるようだ。文乃はその肩を抱き寄せた。足元は、音符のついた白靴下に、丸い先の黒い合皮のシューズだ。茅世が視線を俯かせて脚を揺らす。文乃に記憶はないが、彼女の発言から察すれば、車に乗ること自体ははじめてではないようだ。
「外の景色でも見たら、」
「見たくない。目が回るもん」
 拒否する言葉がいつもより小さい。目が回って酔ってしまうから、彼女は俯いているわけだ。洋服よりも車が好きではないことが、これでよくわかった。しかし、乗らないわけにはいかない。
「茅世、もう少しの辛抱だから、」
 文乃は茅世そう慰めた。一方、文乃自身は茅世とはじめてする外出に心が躍っている。結婚する佐織には悪いが、彼女の結婚式を手伝うと決めたのも、この楽しみが得たいからというのが大きい。
 この一ヶ月は、結婚式の着付けを手伝うと決めただけで、文乃は一気に忙しくなった。この依頼が来る前にも、同月に煎茶道教室でほうじ茶を披露すると約束してしまったため、余計に時間を割くこととなったし、秋は外部のお茶会も多い。流派の手伝いにかりだされて、外を出歩く日も多かった。さらに、この日のために土曜日の煎茶道教室は日時を移動している。生徒たちと相談した結果、翌週の祭日に時間を改めることとなっていた。
 それに、結婚式披露宴のための着付け準備だ。佐織とはいつもの個人指導の他に数度会った。彼女の母親を招いて、休日にリハーサルの大振り袖の着付けもした。仕上がりを見た彼女の母親はいたく感動した様子だった。その姿に、依頼を引き受けて良かったと思うと同時に、自分の母親の姿を重ねて少し切なくもなった。
 タクシーが駅にたどり着いた。文乃は現金と領収書を交換して、茅世に降車をうながす。運転手からバッグを受けとり茅世の手を探した。土曜日午前の人の往来を避けていく。文乃に手を引かれた茅世はおとなしく俯いている。はじめて見る駅ターミナルに興味はまったくわかないようだ。文乃にはそれが少し意外だった。つないだ手を離したら、そのまま立ち止まってうずくまりそうだ。
「気持ち悪いの? だいじょうぶ?」
 おとなしい茅世が心配になる。文乃が声をかければ、彼女はすぐ口を開いた。
「見られてる。こっちに、来るかもしれない」
「え、ちょっと、なにが来るの?」
「ネコ」
 茅世が外に出たがらない一番の理由がすぐに知れた。猫の縄張りを恐れているのだ。元々猫だった頃の茅世は、頭が良く気のやさしい子だった。縄張り争いをはじめたら一番に負けそうな猫だったのだ。その性格は人型になっても変わらなかったのだろう。今の姿で猫と争えば体格面で勝つかもしれない。しかし、茅世はそういったことをしないはずだ。傷をつけて戻ってくるに違いない。
 文乃は茅世の不安に同調した。切符売り場に向かいつつ周囲を見る。確かに一匹の成猫が近づいていた。茅世の中から、確かな猫の気配を見つけたのだろう。文乃は少し足を早めた。茅世は大人の歩調を身軽あわせる。改札口まで行けば、さすがの成猫もやってこない。
 茅世が安堵したのがわかった。文乃はバッグと茅世の手を離して、切符自動購入機の前に立つ。頭上の掲示板を見て料金を確認した。切符を買う。腕時計を見れば、結婚式の披露宴までまだ余裕があった。しかし寄り道はしない。暇ができても、文乃たちは新婦の化粧室などで待機することができるのだ。
 切符を購入して茅世を見る。彼女は熱心に切符売り場を眺めていた。街の景色に反応をしめさないが、こうしたハイテク機器には興味津々であるところが文乃にはおもしろい。
「はい、茅世の切符」
 文乃が差し出したものを、ちいさな手が受け取る。
「これを、どうするの?」
「あそこの差し込むところに入れます。そうすると中に入れるの。ほら、あのひと見て」
 改札口を通過していく人を指させば、茅世も仕組みがわかったようだ。二人は改札口に向かって切符を通す。茅世が先で文乃はその後ろにつく。何事もなく通過できれば、文乃のほうが安心して茅世から切符を預かった。階段を昇りホームへ出る。重いボストンバッグを地面に降ろして間もなく電車が到着した。その音に、茅世が帽子を両手で押さえた。強い風と音が通過する。
「だいじょうぶ? 電車も目がまわるものかもしれない」
 そう言いながら茅世の手を引いて、電車に乗り込んだ。午前中の下り列車は人が少ない。
「下向いてるから、だいじょうぶ」
 長座席についた茅世が、そう言いながら文乃のワンピース裾を握りしめた。車のときよりも顔を上げる余裕はあるようだ。



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