* 下がり葉の猫、第8話 * | |
茅世がはじめて外出を願っただけでなく洋服を着ることにも了承をした。その意志に、文乃は着付けの手伝いよりも張り切って彼女の晴れ着を揃えた。和服ではなく洋服を一式揃えるのははじめてのことで、金額は度外視した。もう二度とないことかもしれないのだ。 しかし、もしかしたら、これを機に外へ興味を持ってくれるかもしれない。 ほのかな期待も多少は寄せていたものの会場へ向かう道中で見たかぎり、それは確実にないと文乃は冷静に判断した。仕方のないことだ。茅世は風景に興味を持っていない。むしろ、どこか怯えているようでもある。ずっと肩に力が籠もっているのだ。反対に室内へ入れば、安全だと思うのか茅世は自然と生き生きしていくのだった。 披露宴会場に着いてすぐ、彼女は文乃の手を離れて歩きだした。華やかにかたちどられた空間に茅世の心が奪われたことは、文乃も手にとるようにわかった。結婚式の世界は、彼女の思っていた以上に美しくきらめていていたのだろう。 文乃は浮かれはじめた茅世を制しながら、新婦の控え室へ向かう。行き違うスタッフをつかまえて控え室の場を訊き、より奥へ向かった。スタッフの女性は、きょろきょろして落ち着かない茅世の様子に「かわいいお子さんですね」と、声をかける。顔は似ていないが親子に見えたらしい。二人の年齢を計算すれば、一番に考えられる台詞だった。文乃は、はじめて受けた言葉に小さな驚きを抱きながら、控え室を見つけた。 茅世にドア前で待っててもらい、文乃がノックをする。中の声にあわせて彼女だけが部屋に入った。花嫁は化粧の真っ最中だ。動けない佐織と軽く挨拶をすませて、荷物と上着を置く。披露宴開始は一時間後である。文乃は、茅世と探検にでかけることにした。それを茅世は喜んだ。 「すごくキレイなところね」 手をつなぎながら、カーペットの敷き詰められた回廊を歩く。片方側は全面ガラス張りで中庭が見えている。水が流れる泉には草花が飾さられていた。とても美しい庭を持つヴィラだ。天井は高く、プライベートがよく保たれている。外と隔絶されているから、茅世も元気になるのだろう。 「本当に、すごいキレイ。ぜんぶ光ってる」 現に、文乃は茅世より一歩先を動いている。照明の演出は美しいが、昼前の時刻でまだ天然光のほうが強い。しかし彼女からすれば、すべてがキラキラして見えているのだろう。 「茅世、あまり遠くまで行こうとしないでよ」 その姿を制しつつも、文乃は茅世に結婚式の会場を見せることができて良かったと思った。しかしこれくらいで感動してもらってはいけない。会場やドレス、大振り袖はこれ以上に美しいのだ。茅世がそれらを見て、口をぱっかり開けたまま眺める様子を想像する。それだけで文乃は楽しい。 「あそこまで、あそこの階段まで行きたい」 茅世が人間の女の子のように、興奮して指をさす。 「じゃあ、あそこまでね」 赤絨毯が敷かれた階段の天井に、大きなシャンデリアが取りつけられている。この建物の出入り口にも、似たような照明がつけられていた。待機できるようなフロアはクリスタルの装飾品を使って華やかさを演出しているのだろう。茅世はそれを近くで見たいのだ。一方、文乃が美しいと称した中庭についての感想はない。彼女が興味を訴えるのは、常に人工物ばかりだ。 行き交う人は数名程度だが、皆が茅世の姿を見て口元を緩めている。そして、自分はこの子どもの母親だと思われているのかしれない。そう考えるだけで文乃は不思議な気持ちになった。子どもを持っていてもおかしくない年齢なのはわかっている。しかし、いまの文乃に子どもを持ちたいという願望はひとかけらもない。だから、とても不思議な気分になるのだ。 シャンデリアの真上に行き着いた茅世は、帽子を両手で押さえて視線を上げる。彼女は耳も目も利くが、低い身長では象る細部がよく見えないだろう。文乃の力を使って彼女を持ち上げたいところだが、式服用のワンピースでそれははばかれる。この位置から眺めるだけで許してもらおう。そう決めてフロアを見る。向かい合った壁には、男性用と女性用のお手洗い口があった。そこから、一人の男性がハンカチを持ってでてくる。 文乃の投げた無意識の視線を、相手の目がとらえた。彼の視線が下がる。茅世はシャンデリアに片手を伸ばしていた。それ様子を見た彼が近づいている。文乃は心の中で戸惑いを見せた。男性が向かってきたのは、茅世を目に留めたからだ。 「こんにちは」 男性が文乃に声をかけてきた。穏やかな声色は、人あたりの良さそうな様子を表していた。平均的な身長で、肩幅が広い。文乃より少し年齢が高そうだ。彼女は外向きの笑みで、挨拶を返す。茅世は男性に少し驚いたらしく、片手で文乃のスカートを探している。 「こんにちは、はじめまして」 「あの、もしよければ、お嬢さんを上に上げましょうか」 シャンデリアに目を奪われる茅世を見た、彼の親切心だった。親切はありがたかったが、茅世は人間の子とは呼べない存在だ。持ち上げるということは、その広い肩に乗せるのだろうか。そうなれば茅世の尻尾があたるかもしれない。尻尾から暴かれそうになるパターンを、文乃は今まで想像したことがなかったのだ。だが、即答で遠慮させていただきますとは言いがたい。 「ええ、茅世、もっと高いところから見たい? お兄さんが茅世の身体、持ち上げてくれるって」 彼に軽い返答をしつつ、茅世に声をかけた。彼女がノーといえば、ノーだ。ノーであってほしい。 「本当?」 帽子を押さえて、茅世が大人二人の顔を見た。目の輝きと声色はイエスを表現していた。文乃は大きな不安を覚えながらも、「あの、すいませんが、お願いします」と、男性に言葉を返す。すでに、なにかしらの言い訳を頭の中で巡らせた。 彼は腰を落とすと片膝をカーペットにつけ、茅世に「いいかい? 」と言いながら、彼女の細い両足を腕で固定した。茅世はその行動に不快感を持たないように見える。男は、いくよ、という声と同時に彼女を持ち上げる。一気に茅世の位置が大人たちより身長半分高くなった。かなりの力持ちのようだ。 「すごい、キレイなのがたくさんある!」 クリスタルがキラキラきらめている様が、より近くで見られているのだろう。茅世は目を大きく見開いて手を伸ばす。触れるまではいかない。この会場は天井が高いのだ。様子を見ていた男性は文乃に顔を向けた。 「あの、高岡夫妻の披露宴に参列する方ですか?」 「え、あ、はい。あなたもですか?」 「ええ、新郎のイトコなんです」 「あら、そうなんですか。私は新婦側で、今日は裏方のお手伝いも兼ねて来ているんです」 自分の発言で、今が何時なのかが気になった。腕時計を見れば、控え室に戻らなければならない時間になっている。 「ごめんなさい、もう戻らないと。茅世、」 名を呼ぶと、茅世が地面に足をつけた。彼は茅世に対してなにも違和感を抱かなかったようだ。文乃は心の中で、大きな一息をついた。 「ご親切にありがとうございました。私、倉橋と申します」 「あ、下総といいます。名乗り忘れていました、すいません」 「いえいえ、こちらこそ……茅世、お礼を、」 「しもうささん、ありがとうございます」 彼の名字をしっかり聞いていたようだ。茅世のお礼に彼は微笑んだ。 「それでは、また会場で」 「あ、はい。それでは、また」 茅世の手を握り、一礼をしてから場を離れた。下総と名乗った男性は雰囲気の良い人だった。ガッチリした体型は熊に近い。文乃はなにより、茅世の尻尾と耳が暴かれなかったことにホッとしていた。茅世が他人に触られることは、当然はじめての経験だ。しかも男性である。人間ではない生き物なので、その瞬間は本当に緊張する。 「茅世、どうだった。よかった?」 茅世に問いかけながら、中庭が美しい回廊へ戻って控え室へ足を進める。はじめは下総の申し出に、茅世はノーと答えるものだと文乃は思っていた。しかし、本人はいたって平然として彼の申し出を受けた。茅世は他人に触れられることが嫌ではないらしい。 「すごい、キレイだった。キラキラしてた」 そう、目を輝かせて答えている。このキラキラした瞳を今日は何度も見るはずだ。 「なら、よかった。私はドキドキしちゃったわよ」 「なんで?」 「だって、尻尾、」 文乃は口にして、周囲を気にした。会場の裏手であるせいか人はいない。親族以外の参列者はこちらまであまり足を運ばないようだ。 「だいじょうぶだよ」 茅世が笑顔を向ける。上手に隠せているのは、行きの道中から知れていた。 「そうね」 新婦の控え室へ近づくにつれ、中から数人の声が聞こえてきた。佐織と母親には茅世の存在を親戚の子としてかたちだけ紹介している。文乃はためらうことなくノックをして、茅世と共に入室した。すぐ目に飛び込むのは、佐織の純白のウエディングドレス姿だ。茅世が真っ先に声を上げていた。 「わあ、すごい。すごいキレイ。おひめさまみたい」 誰の褒め言葉よりも佐織の耳にすっと届いたのだろう。振り向いた顔が満面の笑みだった。確かに美しかった。美しいというより、文乃にはまぶしかった。 「こんにちは、文乃さん。この子が茅世ちゃんですね。かわいいですねえ」 佐織から挨拶がはじまり、留袖姿の母親が一礼した。文乃は挨拶とともにお祝いの言葉を述べ、茅世を改めて紹介する。大人の会話の間、茅世の目はドレスに釘付けだ。彼女が最も見たいと望んだものが目の前にあるのである。 「茅世、あいさつ、」 「う、うん。茅世、です。今日はご結婚、おめでとうございます」 挨拶の間もドレスに気が向いている。その姿に当事者たちやスタッフも和んだ表情になる。しかし、立ち話している時間はあまりなかった。まず、お色直しに使うものの確認が必要だ。披露宴の開始までには一通り確認しなければならない。 「すみませんが、私のほうも少し準備がありますので」 「はい、宜しくお願いいたします。今日はバタバタしていて、ゆっくりお話する時間もないんですが、」 佐織の母親はすまなそうだ。文乃は労わりの笑みを向ける。茅世は佐織に釘付けだが、悪いことをやらかす子ではないのでそのままにしている。スタッフと話す佐織は、時おり茅世に顔を向けて笑顔を交わしている。二人とも幸せそうな表情だ。 「お気になさらないでください。それではまた、披露宴のほうで」 「お席のほうで、お待ちしておりますね」 お互いまだ控え室に留まっているものの、各々の仕事に戻る。控え室は広く半分が畳間だ。文乃はそこに置かれた晴れ着とボストンバッグの中を確認した。先に郵送で届けられていたものはすべて揃っているようだ。ボストンバッグから、自分用のストールとポーチを取り出して貴重品を詰める。さすがに花嫁たちと同時刻にでなければ、はじめから間に合わない。席は欠けないほうがいい。 本当は披露宴に席をつくってほしくはなかった。時間に余裕がなくなるし、披露宴の最後までいなければいけなくなるからだ。さらに茅世もいるため、二席つくってもらうことになる。着付けリハーサルで席の話になった際、文乃は意を決して、なるべく席をつくってほしくないと控えめに訴えた。しかし、当然のごとく佐織と母親は席をつくることを譲らなかった。すでに確保しているし、子どもの追加ならば問題ないと押し切ったのだ。渾身で華やかな式をつくる当事者たちに水を差すような発言はこれ以上したくはなく、文乃は受け入れる代わりに出入り口から一番近い席をお願いした。 披露宴後はすぐ退席する予定だ。佐織には当日のスケジュールを聞いているが、二次会三次会に出席するまでの余力はない。その上、茅世を連れてきているのだ。席はいただいているが、着付けや片づけもふくめて半分以上の時間は控え室で過ごすことになるだろう。 「文乃先生、」 ドレス姿の佐織が花のブーケを持っている。彼女たちも外を出る時刻だ。 「私も出ます。茅世、行くわよ」 一緒に控え室をでて、もう一度挨拶を交わした。行き道は異なる。文乃は茅世を連れだって、会場の出入り口へ向かった。受付の前で、包んでいた祝儀袋を渡して記帳する。茅世はその様子を背伸びして熱心に見ている。 裏方の手伝いといえど席まで設けられた身だ。参列者と同等に振る舞う。着付け料ももらっていない。文乃がその点だけ、頑なに断ったのだ。その分、佐織のほうも戦法を考えたのか、着付け個人指導の月謝を今月分とは別途に先三ヶ月分支払ってきたのである。文乃はそれを仕方なく受け取ったが、おそらく結婚後一、二ヶ月は忙しく稽古ごとに通っている暇はないはずだ。文乃がしている個人指導の規則では、当日のキャンセルは無効である。佐織は最悪当日キャンセルを繰り返してでも、文乃に着付け料を渡したいのだろう。そこまで文乃が拒否をすれば関係にもヒビがはいる。素直に着付け料をもらえばよかったのかとも思ったが、内々で留めている。 「まもなくはじまります」 スタッフが受付担当に声をかけた。文乃は茅世の手を引いて中に入る。会場は一〇〇人ほど入るのではないかというくらいの規模だ。ヨーロッパを思わせるきらびやかなつくりだ。ホテルの披露宴と違って大きな窓があり、美しい庭園の景色も見えている。少人数ならば、立食のガーデンウェディングもできそうだった。日光は会場に届かないつくりになっているから、まるで生きた絵画のようだ。 茅世も会場の美しさに足を止めて呆然としていた。参列者はざわめきの中で、そのほとんどが座っている。文乃は照明が落とされる前にテーブル席につきたかった。出入り口に近いところで、自分たちの名を探す。すぐに二つ席の空いたポストを見つけて着席した。同席は知らない人ばかりだ。円卓の女性たちが茅世を見る。和やかな表情になったところで、文乃が会釈する。まもなく照明が落とされ、披露宴がはじまった。
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