* 下がり葉の猫、第9話 *


 披露宴前に話をした純白の花嫁が、会場の正面でにこやかな笑みを浮かべている。新郎は披露宴内ではじめて拝見したが、容貌や話し方で判断するかぎり感じの良さそうな青年だった。文乃は彼の従兄と開始前に会っている。そこからうっすらと想像していたが、当てが外れていた。新郎は見るからに細身で背が高い。
 茅世はこの場でも裏切ることなく、新婦のドレス姿と目の前の食事に気が向いていた。新郎新婦以下の紹介やその他もろもろの段取りとともに料理が提供されれば、茅世は喜んで食いついた。彼女は美味いもの好きで、新しい食べ物はなんでも口にしたがるところがある。茅世の元に届けられるメニューは子ども向けにアレンジされたもので、文乃は主催者たちの心遣いに恐縮した。一方の茅世は、自身も子ども向けの料理も食べながら、文乃に通常のコース料理も味見したいと小声でせがむ。文乃がいままで見たことがないほど、茅世のテンションは高かった。彼女の相手していれば瞬く間に時間が過ぎていく。
 料理がひと段落したところで、文乃と茅世は宴の外に出た。お色直しの時間にはまだ早いが、大振り袖の準備はまだ整っていない。新婦の着替えは手早く済ませたほうがいいのだから、できるかぎりの準備を事前にしておく必要があった。
「茅世、トイレはいい?」
 出入り口から離れた待機フロアで、文乃が茅世に声をかけた。こちらに女性用の化粧直しスポットが設置されている。控え室に入れば茅世にかまっていられなくなる。会場に訪れて一度もトイレに向かっていないのだから、そろそろ入りたくなる頃だろうと文乃は判断したのだ。茅世はその通りうなずいた。
「行きたい。トイレ行ってくる」
「トイレはあそこよ。私はここで待ってるね」
 彼女は文乃の手を離れ、お手洗いの入り口へ駆けていった。茅世は本当に素直な子だった。嫌なものは嫌といえるし、世間知らずで頑固なところはある。しかし、どこかで文乃の意向を汲んでくれている。それに文乃は改めて気づきはじめていた。
 茅世が飼い猫だったというのが本当ならば、彼女は猫のときに一四歳まで生きていた子だった。つまり、人間のような容貌になって一五年は過ぎている。子どもの容貌でも、どこか落ち着いた雰囲気を持っていた。先刻のように料理やドレスを見て興奮したからといって、大声ではしゃぐような子でもない。外見の問題をのぞけば、外に出しても安心できるような子だ。茅世は食事中テンションが高かったにも関わらず、同席だった年輩の夫婦に「すごく良い子ですね」と、褒められた。脱がない帽子について忠告されるのかと身構えていた文乃は、その言葉に対応が一瞬遅れたくらいだ。
 茅世について他者から感想をもらうのは、文乃にとってこの披露宴がはじめての機会だ。茅世は人型になってから、ほぼ文乃としか接していない。彼女がそれを良しとしていたのだ。いつも茅世は二人だけの世界で過ごしていた。そして文乃自身も、茅世のことを見たままの性格としてとらえ受け入れていたが、なるほど、よく考えれば五歳児の外見にしては中身が出来すぎているかもしれない。しかし、猫の年齢を人間の年齢に換算すると、一〇〇歳をとっくに越えているのでは……と、考えはじめた文乃の後ろで、女性が声をかけてきた。
「文乃先生、」
 名を呼んだのは、聞き覚えのある声である。文乃はすぐに振り返った。
「文乃先生だ」
 オウム返しのように繰り返した女性は、薄ピンク色のレースが利いたワンピースを着ている。ダークブラウンに染められた髪は、両端から綺麗に巻かれて胸のあたりまで演出している。
「あら、宮村さんじゃないですか。こんにちは」
 煎茶道教室のメンバーだ。文乃の教室の中で一番髪の毛の長い生徒だった。この会場にいるということは招待客の一人なのだろう。
「こんにちは。まさか先生がいるとは思いもしませんでした。それよりも、私、はじめて先生お洋服の姿を拝見しました」
 文乃よりも表情に驚きがある。確かに指導中は和装が常であるし、今となっては洋装よりも和装のほうが身に馴染んでしまった文乃である。宮村が真っ先に言うのも無理はない。
「本当、奇遇ですねえ。そう、あまり洋服は好きではないのだけれど、今日はお色直しの着付けのお仕事も兼ねていましたから、」
「あ、そうでしたよね。お煎茶の教室のときのお話、覚えています。この披露宴のことだったんですね」
 彼女の学んでいる煎茶道教室は、毎週土曜日に行なわれている。今週分はこの披露宴のために生徒たちと相談して日程を翌週二回に振り替えた。
「そうなんです。ごめんなさい、振り替えしてしまって。このお仕事、断れなくて、」
「いえ、大丈夫です。私もこの披露宴で、実際今日お稽古があっても行けなかった確率が高かったものですから。先生は、新婦さんのほうですか?」
「そうです。宮村さんは?」
「私は新郎側なんです。会社が一緒で、」
「あら、そうなんですか。不思議な縁ですね」
「本当ですね。先生の洋服姿、見れて得した気分になりました」
「レアなものが見れて、この後さらに良いことがあるかもしれませんよ?」
 茶目っ気を加えて文乃が言えば、宮村が「今日これからが楽しみです」と笑う。陽気な足音が近づいた。茅世だ。文乃の頭からすっかり抜けていたが、自身の教室に通うメンバーの新たに一人が茅世の存在を知る。その回避不可能な場面が訪れてしまったのだ。文乃は瞬く間に緊張した。
「文乃、終わったよ」
「茅世、おかえり」
 戻ってきた茅世に、声をかける。深く帽子を被った茅世のかわいらしさに頬が緩ませた宮村が、文乃を見て訊いてきた。
「あれ、もしかして先生って、」
 宮村は思考は一気に、茅世が文乃の子なのかもしれない、というところまで到達したようだ。
「いえいえ、違いますよ。この子は、私の親戚の子で、ご両親が長期の海外出張に向かわれてしまったところを、代わりに私が面倒見ているんです」
 茅世の存在を紹介するテンプレートを、そのまま文乃は口にした。茅世は文乃のスカートにくっついたまま不安な表情をしている。予想外の茅世紹介を行なっているのだと彼女自身も気がついたようだ。文乃は彼女の肩を寄せてなでた。
「あ、そうなんですか。かわいらしいお子さんですね。なんて名前ですか」
「茅世といいます。あ、そろそろお仕事の準備に向かわないといけない時間ですので、ごめんなさい」
「あ、こちらこそ引き留めてすいませんでした。それでは、また」
 茅世のことを深く訊かれる前に文乃が会話を止めれば、宮村も素直に受け入れ一礼した。不可解に思う感情は一切持たなかったようだ。彼女は文乃のお辞儀を見て化粧室に向かっていった。
 文乃は大きく息をついた。まさか、佐織以外の生徒に会うなどとは考えもしていなかった。新郎側ならば、なおさら見当がつかない。これ以上、知り合いがいないことを祈るばかりだ。
「茅世、控え室に急ぐわよ」
 安全な場所は、やはり新婦の控え室に違いなかった。
 控え室のドアを開けば、一人のスタッフが用具の整理をしている。スタッフに声をかけ、着付けの際に手伝っていただく可能性があると伝えれば、快く了解してくれた。掛け時計の時刻を見る。あと三〇分も経たずに新婦が着替えにくる予定である。茅世は控え室の中でもドレスが吊されているところに向かっていた。間近で紅色のレースが施されたドレスを眺めている。畳にも大振り袖が干されているが、ドレスのほうが物珍しいのだろう。
「茅世、触らないでね」
 文乃が準備をしながら言えば、スタッフが「裾のところなら少しだけ触っても大丈夫ですよ。私が見ていますから」と、二人に答えた。茅世は嬉しそうな顔で生地の感触を手にしている。
 控え室に新たなスタッフが訪れ、着付けの時間が近づいたことを文乃は悟った。すぐ行なえる姿勢で待つ。予定時刻より少し遅れて花嫁の佐織が到着した。スタッフが衣装を脱がす。そこから先は文乃もスタッフの一員だ。髪もふくめた化粧直しと着付けが丁寧に行なわれる。
 茅世は佐織の変身模様と文乃の仕事を、少し離れた椅子に座っておとなしくしていた。口の開けたまま着替える様子にすっかり見入っている。サポートに入ったスタッフの一人が「おとなしい良い子ですね」と、茅世を評した。文乃は襦袢を帯で締めながら褒められた言葉にお礼を言った。
 披露宴の着付けは手早さよりも完成度が重要だ。文乃は念を入れて着るものを重ねていく。大振り袖は裾が長く垂れている。必然的にひきずるかたちとなるが、足さばきなどの対処法は事前に佐織に教えていた。着付けているのは、橙色を基調とした華やかな柄の着物だ。秋に一番合う。
 着付け終わる前に彼女の母親が訪れる。ドレスのときよりも、和装の佐織に感動しているようだ。親子三代に渡った大振り袖なのだから、思い入れもひとしおだろう。
「文乃先生、ありがとうございます」
 出来上がりを見て、母親が先にお礼を言った。
「いえ、こちらこそ。リハーサルのときと同じ着付けで仕上げています。もし着崩れたときは、スタッフさんが手直ししてくれるそうなので、」
 説明をしていると、大振り袖になった佐織が真剣な目を文乃に向けていた。
「先生、お願いがあるんです」
「はい、なんでしょう」
「一緒に、会場に入ってくださいませんか」
「え、どういうこと」
 素の声がでてしまっていた。佐織は気にかけずに、畳みかける。
「お願いです。文乃先生が着付けたこと、紹介したいんです」
 いきなりそう言われても困るしかなかった。しかし事前に言われていたら、絶対に遠慮させてもらうお願いごとだ。それを直前の今言うというのは、おそらく佐織は確信犯なのだ。
「無理よ。ご挨拶しなければならないでしょう」
 披露宴で突然挨拶がほしいと言われてできるものではない。カンペがあっても緊張するものなのだ。それに人の前に立つことを想定した服装でも化粧でもない。
「いえ、一礼だけでいいんです。司会者には、そのパターンも伝えてあります」
 やはり確信犯だ。一緒に出て紹介されて一礼して戻ればいいというのだから、無下に断ることができなかった。「わかりました」と、文乃は仕方なくちいさく了承した。
「私のわがままで本当にごめんなさい。気を悪くさせたと反省しています」
「いいんですよ。あなたの披露宴なんだから、今日は一番わがままでも許されるんです。でも、今回かぎりですからね」
 釘をさせば「心得ております」と、美しい振り袖姿の佐織が神妙な顔をする。披露宴らしくなかった。
「ほら、そんな顔せずに、行きましょう」
 自分のお人好し具合に諦めつつ、佐織を促す。静かな茅世に声をかけた。文乃も視線に気づいたようで顔をあげる。
「茅世、ごめんね。ちょっとそこで待っててくれる?」
「うん、待ってるよ」
「私はまだこちらの部屋におりますので、彼女のこと見ておきます」
 スタッフがそう声を重ねてくれる。文乃はお礼を伝え、佐織たちとともに控え室を離れた。



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